辺境 / コニー・ウィリス「航路」

繋がる場所





行き止まりの陸橋





クレーン二連





木立の中の顔

2017 / 01
2017 / 03
2017 / 01
2017 / 03
近所 / 高の原 / 新大宮
Nikon F100 / Yashica Electro 35 GX
Lomography Colornegative 100 / Fuji Provia 100F


「辺境」という観念は結構好きだ。対立する観念は「中央」といったところだろうと思うけど、中央で正統的でふんぞり返っているようなのよりも、周辺でいつも中央を穿とうとする不遜な雰囲気が生じて来そうなところが好きだ。中央だけでは生まれなかったような動的な何かが生まれてくる場所のような気がする。あるいはまた、まったく同じ場所で逆に取り残されてその場で立ち腐れになっていくといった退廃的な雰囲気もある、オルタナティブな場所なんていうのはかっこよすぎか。
境界域というのも好きな観念だ。ここから先はもう明らかに違った世界が広がっているという予感。その瀬戸際に立っているという期待感と不安感。そんなのもひっくるめてわたしの「辺境」は成り立ってる。

住んでいるところだって京都の中心でもない。わたしの中には具体的にも観念的にも「辺境」が幾層にも折り重なって存在しているようで、写真も実際に「辺境」に立たなくても「辺境」的な気配に反応して撮っているところが多いかもしれない。
ということで最近は京都の南や奈良にいたる辺りの農地が広がる町外れに出かけては、世界の果てにでも降り立った気分でいるといったところか。実際には郊外といったほうがぴったりくるんだろうけど。郊外といってしまうと「辺境」という観念が含んでいたものが面白いように霧散してしまうなぁ。

☆ ☆ ☆

最近コニー・ウィリスの「航路」を読んでる。かなり以前に「このミス」で話題になった小説だったと記憶してる。最初に出た単行本はパスして、その後文庫になった時に購入。そしてそのまま積み上げてる本の中に紛れてしまってた。積み上げて放置していた未読本の切り崩しにかかってる一環でようやく手に取ったというわけだ。今やわたしの持ってる文庫とは違う出版社からさらに新しい形の文庫として出ているくらい買ってから時間が経ってしまっている。
で、まだ読み終えてなくて三部構成になる長大な物語の、今第二部の終盤辺り。噂ではどうやらこの部分にサプライズがひとつ用意されてるそうで、寸前まで来てこれはちょっと楽しみではある。
臨死体験がテーマの小説で、臨死体験で見た場所の謎解きめいたところがあるから、若干ミステリっぽい味つけをしてある。でもこの味つけで物語を引っ張っていくほどの牽引力は生まれてこなくて、今のところ小説としては冗長、本気で長すぎる。舞台はほとんど病院から移動せずに、臨死体験実験の被験者ボランティアが語る体験の内容が人を変えて延々と続くだけ。そういう動きのない物語を動的にするための仕掛けは横槍を入れ邪魔をしに来るキャラクターを多層レベルで用意しているのと、頻繁な行き違いを設定している程度で、メリハリをつけるためなのか何時行っても絶対に閉まっている勤務病院のカフェテラスなんていうあまり笑えないシチュエーションコメディの要素も織り交ぜて、これが動きやサスペンスを生み出すというよりもいちいち物語を中断させて鬱陶しい。
それにしても臨死体験をテーマに小説を書くって、まぁこの話の中のものは薬物を使って擬似的にそういう状態を作り出しているだけで、それは臨死体験じゃないだろうと突っ込みを入れたくなるんだけど、それはともかくこんなテーマでよく何か書こうと思ったものだと感心する。おそらくどんな作家でもこんなものを十全に描ききるには力不足だろうし、この「航路」でも今のところ書こうと思いついたことに、思いついたコニー・ウィリス自身の力量が追いついていないという感じがしている。

よく言われるような死んだ親しい人と再会したとか光に満ちた場所で天使にあったとか、世界の秘密を知ったとか、臨死体験のイメージにあるようなものは、見たいと思ったものを見ているつもりになってるだけとし、そんな作り話じゃなくて科学的アプローチで真相に迫ろうとする科学者が主人公になって、自らその臨死体験の被験者になりながらもそこで見たヴィジョンの意味、真相を探っていく。
臨死体験で流布されるお決まりのイメージに新奇な味つけをしてファンタジー交じりに語っても十分に形になる内容だと思うけど、何だかコニー・ウィリス自身があえて茨の道を歩もうとしているような展開のお話だ。

でも従来の臨死体験イメージを否定するのはいいとして、だからといって物語の中のプロジェクトが進める、それが瀕死の脳内化学物質の反応によって生み出されることの実証と解明なんていう結末に持っていくのは小説としてはまるで面白くない顛末にしかならないのも予測できる。
この物語は一体どんな終着地点へ繋がって行く航路なのか。それがなかなか見えないって云うのが面白いところではあるんだけど、これ、読者を納得させるには、死に臨んだ体験の先にあるものをよほど予想外でなおかつ十分に肯定できるものとして用意しておかないと話にならないわけで、他人のものとして間接的にしか誰も経験したことがない死という事象に対してこんなものを用意できるわけないだろうと思うと、やっぱり無茶なテーマに挑んでいるなぁというのが第二部の終わりくらいまで読んだ今のところの感想となってる。
だから物語そのものは動きがなくて冗長なんだけど、どう考えても困難そのものといったその航路が導く先の光景を見てみたい、作家の無謀な試みの結果を見てみたいと思う興味はなかなか失せない。
宣伝によるとすべての謎が解かれ、感動的な結末が用意されてるそうだけど、これは宣伝文句だからなぁ。さて最終の第三部はどんな話が待ってるんだろう。









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路上 / 稲越功一写真集 「PARIS 1989」

反射の洪水





壁の領土





奥の暗がりへ





三角が空間を歪める






崩壊する反射

2017 / 03
2017 / 01
2017 / 04
2016 / 04
2016 / 09
長池 / 新大宮 / 近所
Nikon F100 / Fuji NaturaClassica / Fuji 写ルンです シンプルエース / Nikon CoolPix S9700
Lomography ColorNegative 100 / Kodak SuperGold 400

最近の街路写真と以前に撮った得体の知れない写真のロートレアモン形式。

今回はどうにもタイトルを思いつかなかった。そのうち考えるのが面倒になってケルアックばりに路上と名づけてみるも、要するに今までの写真の大半を路上で撮っているわけだから、この命名は何も云っていないのに等しい。
何も云っていないといえば、最近は写真について説明なんかしないほうがいいんじゃないかと、これは以前から思ってはいたことだけど、この所ことのほかそういう風に考えたりする。とにかく撮った、そしてそれを見たと、これだけで十分で、そこに何が生まれようと、あるいは何も生まれるものがなくともそれがすべてでいいんだと思う。生まれたものがあったとしても、それが正解であるかどうかなんてどうでもいいし、そういう場所を生成するのに、この写真の意図はこういうものだとか、こういう風にして撮ったなんていう言葉はノイズにしかならないと思う。

☆ ☆ ☆

最近はデジタルで加工することに対してリミッターが外れ気味と以前に書いたことがある。で、加工することに抵抗がなくなってきてるなら、せっかくフィルムを使ってるんだからデジタル処理なんていう始めると意外と夢中になるも振り返れば大して面白くもないものに手間ひまかけるよりも、ここはサラ・ムーンを見習って、フィルムという物質に対していろんなアプローチを考えたほうが面白いんじゃないかと思えてきた。これこそフィルムでしか出来ないことだろうと思う。ただ、こういうことをやってしまうと絶対にもとに戻すことは出来ないわけで、その辺りは物凄く勇気がいる。サラ・ムーンなんかが持っているこういう思い切りの良さ、強さみたいなもの、元に戻せなくても一向に平気、むしろすべてが解体した先にあるものが見てみたいなんていう志向、欲望は結構すごいものだと思うし、わたしもそういう思い切りのいい強さのようなものが欲しい。なにしろすぐにまとまりのある、見栄えのいい収まった形にしてしまおうなんていうところがあるから。

☆ ☆ ☆

さっきネットでロバート・フランクがカメラ構えてる写真を見たんだけど、わたしと同じく写真家としては不自由な左目が効き目の構え方をしてるそのカメラは、どう見てもオリンパスのコンパクトカメラ、μシリーズのどれかだった。ロバート・フランクもこういう類のカメラの愛好者なんだ。ロバート・フランクの写真はスナップショットのお手本のように扱われてる初期の「The Americans」よりも、近年の曖昧で揺らぎの中にある詩的な写真のほうが好きなんだけど、この揺らぎの写真をμで撮っていたって云うことなのか。こんなものを目にしてしまえば、しまいこんであるμのどれかをまた引っ張り出さないと気がすまなくなりそうだ。


☆ ☆ ☆

パリを撮った稲越功一の写真集を紹介してみる。
レビューといえば最近はここで使っているのとは別の名前で、アマゾンで買ったものにレビューを書いてる。書いてみて初めて分かったんだけど、いちいちアマゾンから御礼のメールが来るのね。当社並びに Amazon でショッピングする数百万人というお客様方が大変喜んでおりますなんていう内容のメール。なんかね、根が単純なものだからそんなことを云われると、実利もないのにちょっといい気になりそうになるな。
ちなみにこの写真集についてはアマゾンで買ったものでもないしまだ何も書いてない。そのうち書くかもしれないけど、その時はここで書いたのと似たようなことを書いてしまいそうだ。
稲越パリ1

稲越パリ2

稲越功一は矢沢永吉など、タレントやアイドルを撮った、広告やポートレートの写真家として知られてる部分が多い。このせいでなのか、アート系の写真誌とかではこの写真家の名前はほとんど目にすることがない。でもわたしはこの人の撮った写真が大好き。数年前に亡くなってしまったのが本当に惜しまれる。
何で読んだかは忘れてしまったけれど、一緒に写真を撮りに行ってその場で同じものを見ていたはずなのにこの人だけはみんなと違った印象の写真を撮っていたという証言があった。云うならば普段何気なく見ている周囲の世界を独特の視線で切り取るのが上手かった写真家だ。それもわたしはこれだけ他の人とは違う感性を持っているのだ!なんていう押しつけがましく嫌味ったらしい部分もなく、本当に何気なく撮ってかっこいいという稀有な作家だった。
ちょっとね、この人の写真を見ていると秘密を知りたくなってくる。どうしてこんなに際立つ印象で写真が撮れるんだろう?一体他の際立たない写真とどこが違うんだろう?って、見て楽しむ以上に気がつくと考え込んでしまっていたりする。

この写真集はそういう小粋な感性を持った写真家がパリという手垢にまみれた古い都市を撮った写真集になっている。いとも軽々とこの歴史の積み重なった街を横断して、捉われ勝ちになるものから解き放たれてシャッターを切っている。ヴィム・ヴェンダースが解説で云っているように、既視感で満ち溢れたパリのイメージを解体し、見過ごしてきたパリのイメージを光の屈折と反射の中に再構築しているというのがよく伝わってくる。

アート系の写真家としてあまり扱われていないのが幸いしているのか、初期の手に入らなくなっている写真集を除いて、ほとんどの本が手に入れやすい価格で流通しているのも助かる。わたしはフォトエッセイの類の本を何冊かと、今では手に入れにくい大型のものを含む写真集を何冊か手元に持っている。ただフォトエッセイのように文章を織り交ぜての本となると、正直愛読するというところまでいったのは今のところほとんどない。この辺は写真よりも文章のほうが饒舌なんじゃないかと思わせる金村修のほうが、まぁ写真も書く文章もまるでタイプが違うんだけど、圧倒的に刺激的で読ませてしまう。
あと、稲越功一は写真家でも扱う対象に得手不得手があるんだなぁって云うのを明確に感じる写真家でもある。花を撮ったり、工場地帯を撮ったりしている写真もあるんだけど、この辺りのテーマで撮った写真は矢沢永吉の写真同様にわたしにはまるでピンと来ない。この気に入った写真家の写真だからみんな良いという方向には向かわない。工場や廃墟じみた被写体、金属属性の被写体なんかわりとどんな撮り方でも関心を引き寄せられたりするのに、まぁ関心を引き寄せられたからこそその手の物を被写体にした稲越功一の本も手元に置いてはいるんだけど、そういう本は一度目を通したきりで、積んだままになっていたりする。









鬼火 Ghost In The Street

ghost





ghost3





並列





Ghost 2

2017 / 04
2017 / 01
2016 / 01
2017 / 02
高の原 / 新大宮 / 向島
Yashica Electro35 GX / Nikon F100 / Olympus35 DC / Fuji Cardia Travel Mini Dual-P
Lomo ColorNegative100,400 /Fuji Provia 100F / Kodak TriX

この前の街路の写真の続き。
タイトルは横溝正史じゃなくて、ルイ・マルと最近実写化されたあの映画のロートレアモン仕様だ。

街の中で、何で写真なんか撮っているんだろうってたまに思うことがある。初めて行った場所にはものめずらしさで好奇心を刺激されることはあるけど、それが理由のすべてでもなさそうだし、何度も行っている場所も特に思い入れがあってここでなければ嫌だというほどでもない。まだ何か撮れそうな気がして足を運ぶだけで、もうこれ以上撮れそうにない、シャッターを切る気分が盛り上がらないと思えば、思いいれも何も関係無しにどこかほかに写真撮れそうなところはないかと目移り品定めを始めることになる。
思うにその場所でわたしが生きて立っていることの、その空間の一部としてあるいは対立するものとして同化向き合っていることの確認とでもいったものなのか。生きて立っているといってもそんなに大層な事態と捉えてるわけでもなく、わたしのささやかな存在が確かにそこにあって、目の前の空間にどこか関係性を持てそうな気分になったということの検証作業のような気がするところもある。
だから、自己を対象に押し付けて自分色に染め上げてしまうことにもあまり興味がないし、自分がそこに生きてあることを、ある程度客観的な要素を交えることが出来るカメラの眼を通して捉えてみることを面白いと思っているのかもしれない。

わたしという不確かな存在の前に現れ、揺らぐわたしの眼と一瞬交差して他在の眼を通して痕跡を残していく世界。写真の中に幽霊がいるのではなく、ゴーストとはわたしのことだ。

上手く云えない。
街しか撮っていないし、街が好きなわけでもないのに、どうして街の写真を撮っているのか自分でも分からないと云ったのは金村修氏だが、何だか気分はそういうのに似ているのかもしれないなぁと思ったりする。

一つ確かなことがあって、動機はこんなに捉えどころがないものであったとしても、撮った写真はかっこいい写真にしてやろうと、これはいつだって強くわたしの中にある。さてこのささやかで強い思惑は成功しているのだろうか。

☆ ☆ ☆

今回の最初のエレクトロ35で撮った写真は完璧で極端な露出不足で、そのままでは到底まともなイメージを救い出せそうにないコマだったので、あれこれ弄くりまわしてこんな形まで持ち上げてみた。最初からこんなイメージを狙っていたとするならあざと過ぎて嫌みったらしい。
最近ヤフオクで落としたヤシカエレクトロ35GX。1000円ほどで、外見は綺麗、レンズも綺麗、ファインダーは薄気味の悪い汚れでみっしり汚染されている、露出計はそれなりに動くといった代物だった。ちなみに崩壊しきったモルトが元凶だと思うけど、ファインダーを覗こうとすればかなりかび臭かった。古いカメラ、臭いは結構盲点なんだよなぁ。わたしの持ってるのではレオタックスが何だか甘ったるくて古臭いポマードのような臭いがしている。想像するとちょっと気持ち悪いでしょ。
それはともかく、ホラー映画のような様相のファインダーはトップカバーを外してできる限りの範囲で拭き拭きし、ぼろぼろだったかび臭いモルトは新しいものに貼り替えて、この写真はいざ試し撮りと意気込んで出かけた結果の一枚だ。
エレクトロ35GX
結果を見て思うのは結局予想を超えて露出計が不安定、というか電気経路で頻繁に上手く流れていない状態になるのか、酷い露出のコマの時は不正確というよりも絞り優先オートそのものが働いていないような感じだった。
で、使えないかというと、実はこのカメラはこんな状態でもわりと平気で使えるものだったりする。
電池を使うから電気制御のシャッターのように見えるけど実は機械式のシャッターでシャッターそのものは電池に関係なくいつでも単速の1/500秒で切れる仕組みになってる。電池はこの機械式のシャッターの開く時間を、1/500秒から必要な分だけ遅くすることに使っているだけだ。だから電池がなくても単速1/500秒シャッターの、写ルンですっぽいかメラとして使えるというわけだ。
これを知っていると、絞り環には晴れだとか曇りだとかの電池使わない時用のアイコンも併記されているから、感度400のフィルムを入れて、この指標に適当に合わせておくだけで、電池無しでほとんど失敗なく写せるようになる。試し撮りの時はこれに気づかなかった。
というわけで、ヤフオクでこのカメラ、シャッターが切れることだけ確認できていて、レンズの綺麗なものでも安価で見つけたら落札してみるのも面白いと思うよ。
何が好きって、エレクトロなんていう名前がアナクロっぽくてかっこいいじゃないか。

☆ ☆ ☆

月のブレス
アクセサリーシリーズということでもないし、自分で作ったものでもないけれど、こういうのも好きだということでちょっと紹介。
思い切り派手なブレスレット。でもエスニック的なものへの嗜好があるのでこういうのはつい手が伸びる。そろそろ上着とか脱いでも平気な季節になってくるから、出番が近づいてきてる。
何だか豪華だけど実は物凄くチープな値段で買えるものだったりする。中国製でアマゾン内でもいろんな店で同じものを見かけ、大抵2~300円くらいで売っている。ただしレビューを見ると中国から遠路はるばると、ビニール袋に入れただけのものが、石がはずれた状態で届くなんて当たり前の代物のようだ。わたしはそういうのに煩わされたくなかったから、化粧箱に入れて検品くらいはしてそうな店で若干高めのものを買った。それが功をなしたのか、ただ運が良かっただけなのか、実際にわたしの手元に届いたものはトラブルめいたものは一つもない状態だった。
このデザインでペンダントやピアスもある。わたしの耳にはピアス穴なんてないけどそのピアスと、月と太陽の二種類のペンダントも持っている。ブレスレットは太陽モチーフのは腕時計の変種みたいであまり面白くなかったから、この月モチーフのものだけだ。まぁ、同一モチーフのヴァリエーションをほぼ一揃い持っているので、どれだけ好きやねんと云われると返す言葉がない。最初にこのデザインを見た時に、それはピアスだったんだけど一目ぼれだったんだな。

こんなのをつけて、ロング丈のジレにTシャツとジーンズなんて身に纏えば、昔のヒッピーみたいになれるよ。


☆ ☆ ☆



今回の最後のモノクロを撮ったカメラだ。ジャンクボックスに確か100円くらいで入っていた。このカメラ、裏蓋の内側に仕込む、日付用途にしか見えない電池が切れていると、カメラ自体が動かなくなる。外側から電池カバーを開いて入れる、一見カメラを動かしているように見えるメインの電池は実は巻き上げモーターをまわしているだけ。メインに見える電池を交換しても、日付用途にしか見えない、でも本当はカメラの基盤そのものを制御してる電池が切れていると、動かないカメラを前にしてこれは故障していると勘違いすることになる。わたしの100円のカメラもまさにその勘違いでジャンク扱いになっていた。
プラスチック製のこの類のカメラの調達先は、わたしの場合はほとんどジャンクボックスだ。っていうか中古ショップで普通に買おうと思っても、売り物になるクラシックカメラが収まってる棚に並んでいるのを見たことがない。今となっては壊れたらそれっきりの安っぽいファミリーカメラは値段がつかないんだと思う。使ってみると楽しいんだけどなぁ。






どうして好きでもない街の写真を撮っているのか自分でも分からないという一節が出てくる金村修氏の本。
そのうちもっとまともに気合入れて紹介するつもりではいるけれど、目にするもの、習得したもの、自分で考えたことすべてを疑え、解体しろと、氏の撮る混沌とした写真も大好きなんだけど、この写真家の言葉はいつもとにかくひたすらに挑発的で、ある種の毒を脳みそに浴びせかけてくる。
かなり前に、朝日会館の中にあって今はもう閉店してしまったジュンク堂の写真評論の棚に、一冊だけ残っているのを見つけて買った本だ。





⇒ 方向に関する視覚的考察

上のほうに




緑の中を左へ





下を見れば





水平方向へ





前を向いて何がある

2016 / 04
2017 / 01
2015 / 03
2016 / 04
2014 / 08
河原町 / 新大宮
Minolta SR505 / Fuji Natura Classica / Olympus μ2 / Nikon Coolpix S9700 / Olympus Pen EE-2
Fuji Presto400 / Kodak SuperGold 400

去年の6月に京都の何必館でサラ・ムーンの展覧会をやっていたと今になって気づいた。もう遅いにも程があるんだけど、気づいてしまうとこれを知らなかったのははっきり云って極めて痛い。何必館は去年の暮れだったか、田原桂一の展覧会も知った時には終わっていたというタイミングの悪さを体験したばかりだった。
ここはそんなに自分好みの映像作家の展覧会をやっている場所だったか?と何必館のHPを見に行ってみれば、今現在はアンリ・カルティエ=ブレッソンの展覧会の告知がトップにあった。何だか情報収集に行けばこういう何時でもどこでも見られそうなオーソドックスな展覧会しか目にしないんだよなぁ、この祇園のお土産物屋さんに紛れるようにしてある小さな美術館。ここは木村伊兵衛の展覧会がある時の情報はやたらと目立って目に入ってくるんだけど、知れば絶対に見に行っていたサラ・ムーンの展覧会の情報とか一度たりとも視界に入らなかった。何故だ?
ところで何必館のミュージアムグッズのコーナーを眺めていたら、サラ・ムーンの写真集「12345」が置いてあった。アマゾンでは英語版がとんでもない値段に高騰しているけれど、ここではまだまともな値段で売ってるのね。まぁわたしはもっと適切な価格の時に買って持っているから意味のない情報なんだけど、アマゾンのが高くて買えないって云う人はここで、それでも4万くらいはしているけど、一応まともな感覚の値段で買えるよ。
ただこれは英語版なのかな。この辺りはちょっと分からない。フランス語版だったらアマゾンでもそれなりに普通の値段で買える。また何必館のものには監修に日本人の名前が書いてあるのが要領を得ない。日本語版は出ていないはずなのに。
まぁよく分からないところはあるけれど、これ、この時の展覧会のタイトルが「12345」だったようだから、それに関連してグッズコーナーにおいているようだ。

☆ ☆ ☆

矢印は被写体としては結構好きな部類に入る。いつだってあっちのほうと思わせぶりに指差して、いつもここでは絶対にないって云うことを確実にしている存在。云うならば不在の象徴であって、しかもここじゃないところでは、何かがどこかにあるということは確実に示している、何時までも追いつけない逃げ水のような妙なサインだ。以前に記事にした非在の器だとか、こういうどこか空っぽである世界を内に含むような存在にはとても気を引かれる。これが人差し指で方向を示すようなものだったら、粟津潔や横尾忠則が昔デザイン展開していたようなサイケデリックで極めて呪物的なイメージも背負えていたんだけど、矢印となるとそれほどの呪物性はないかもしれない。より図像的、抽象的で、視覚的に切れ味が良い反面、その辺がちょっと残念なところかな。でも今時指差し印で方向を示すようなアイコンって街中ではあまり見かけなくなった。
で、今回は⇔写真を集めてみようと思ったんだけど、二枚並べた時点で単調すぎると思ってしまった。そこでちょっと範囲を広げて方向を指し示す動きを持った写真を集めてみることにした。いろんなものが写真になりうると思っている事の些細なサンプルといったところか。
なんてかっこつけて書いたけど、どういう風に見せようか迷ってしまって放り投げていた写真の、在庫処分のようなところもかなりあったりして。

☆ ☆ ☆

昨日フォトハウスKにフィルムの現像を出しに行って、出来上がるまでの間近くのムービックス京都に、久しぶりに立ち寄ってみた。これだけ興味の方向が急旋回してしまうとは思いもしなかったほど、映画館ってもう本当に久しく足を運んでいない。で、最近はどんな映画をやっているんだろうと色々と見て回って、実写版のゴースト・イン・ザ・シェルはYoutubeなんかで予告編を派手に展開していたからそういうのがやってくるのは知っていたけど、ブレードランナーの続編も上映するんだな。これは知らなかった。
でも監修こそリドリー・スコットだけど、監督はまるで縁もなさそうな人だし、大体元のブレードランナーはダグラス・トランブルが手がけた近未来都市のヴィジュアル、つまり物語の舞台となった終日酸性雨が降り注ぐ陰鬱な闇と、その闇を彩る幻想的な光に満ちた、アジアンテイスト満載の無国籍近未来都市ロサンジェルスの造形の見事さが最大のポイントで、自分的にはお話のほうはそんなにいうほど強烈な印象のものじゃなかった。
だから続編と云ってもあの明らかにフリッツ・ラングのメトロポリスへのオマージュだった近未来都市を再現しても、さらに豪華にはなるかもしれないけれど、オリジナルを越えるなんてまるで出来なくて、結局は二番煎じの模倣の域を出ないんじゃないかと危惧している。リドリー・スコットも無条件で凄いというわけでもないのは、プロメテウスを映画館に足を運んで見た時に思い知らされている。
ゴースト・イン・ザ・シェルのほうは2001年宇宙の旅のスターチャイルド辺りに似たヴィジョンで締めくくったオリジナルの感じもそのまま持ってくるのかな。この類の話はここから先に挑んだものってまるでない。




高いよ。
ちなみにわたしが買ったのはこのアマゾンじゃなくてシェルフという美術書や写真集を扱っている店だった。今でも置いてあるかな。これに絡めて記事を書いた時、確か意地悪をして手に入れた場所を書かなかった記憶があるんだけど、どこで買ったのか問い合わせの連絡を入れてくれた人がいて、シェルフで買ったと伝えたことがあった。その時のアマゾンよりも若干安かったんじゃなかったかと記憶している。

これ、写真集も値打ちなんだけど、付属しているサラ・ムーンの監督した映画「ミシシッピー・ワン」のDVDが値打ちものだ。VHSのテープで発売されたっきり、単独の映画ソフトの形としてのDVDは未だにリリースされないままになってる。もちろんブルーレイも出ていないし、この映画を今見ようとするなら、テープ以外だとこの写真集についているものしか選択肢がない。
ただ、VHSのテープのほうは二束三文で流通してるみたいなので、形を問わないなら手に入れることは出来る。でも今さらテープで見たり所有するって言うのも、いくら持っていなかったらとはいえ気が進まないでしょ。





Street of Dreams

彼方へ繋がる道





ラブホ





高架下駐車場





割れたガラスの向こうに

2017 / 03
2017 / 01
2017 / 01
2015 / 03
高の原 / 新大宮 / 近所
Olympus XA2 / Nikon F100 / Olympus μ2
Kodak SuperGold 400 / Fuji Provia 100F / Ilford XP2 Super


最近は意図的にこういう感じの写真を撮っていることがある。ちょっと引き目で空間を大きく撮ったようなイメージ。自分のもっている距離感覚はもうちょっと寄り気味だと思うんだけど、そこはあえてこういう形になるように立ち位置を意識してカメラを構えている。
ざっと目の前の空間そのものを取り込みたかった。神宿る細部をフィルムの上に残したかった。あえて言葉にするとそんな感じなのかな。細部に関しては以前ブログで書いたけど、クローズアップは細部の普遍化であって、かならずしも神が宿る細部を取り込めるものではないと思っている。神が宿るならその細部はパンフォーカスのイメージに現れる。
で、目の前の空間を細部の集積としてざっと取り込みイメージ化するとしても、単純に目の前に広がるものが写っているだけの写真になるのがほとんど。それでもいいのかもしれないけれど、わたしは今のところそこまで開き直れない。ほとんど意図も感じさせない、カメラの眼に任せたようなイメージにたじろいで、どこかに見栄えの良い絵にしようと自我でカバーする部分が出てくる。
そのせめぎあいの中で写真を撮っているのかもしれないと思う。
ただ意図的に際立つイメージにするための企てを盛り込むにしても、それが目立ってしまうとわたしとしては、これはもう駄目だと思うほかなくなってしまう。
一見まるで無頓着にシャッターを切ったように見えて、実はほとんど気づかれないように自我を潜り込ませる、撮れるならばそんな写真を撮るのが今の気分かもしれない。

写真は街路を撮っていたものを集めてみた。タイトルが頭にあってそれにあわせて選んでいたようなところもあるんだけど、実際にこのタイトルで二枚目のラブホ街の写真なんかを並べると、タイトルの意味合いが随分と矮小化してしまうなぁ。
最後のは結構以前に撮ったもの。このところ若干撮影のスタンスを変えているというこれだけのことで、最近ではあまり撮らない結構雰囲気の違う写真になっている。これは窓ガラスが割れたまま放置されていた廃車の、その窓からカメラを差し入れて、ひび割れが走っていたリアウィンドウ越しに外を撮ったもの。こういうことをすると、見咎められた時に泥棒扱いされる可能性もあって結構スリリングだ。なんだか最近カメラ構えてると、非難までは行かなくても、そこで何してるんですかぁ?とか何か御用でも?と、なにやら胡散臭げに言葉をかけられることが多くなってる。誰もいないと思っていても意外といろんなところから見られてるというのを実感する今日この頃だったりする。

この4枚目の写真を撮ったオリンパスのμ2は去年電池ボックスの蓋の爪が折れてしまって、まぁ蓋をビニールテープで止めたりすれば使えるんだけど、最近は出番がなくなっている。それにしてもカメラの本体が壊れるんじゃなくて、こんなところが取れて使いにくくなるとは思わなかった。



Count Basie & Shirley Scott Street of Dreams


Street of Dreamsといえば、わたしはこれかグラント・グリーンのものが頭に思い浮かぶ。で、この演奏は以前にも載せているんだけど、グラント・グリーンのよりもこっちのほうが好きなので、今回は再登場となる。
曲そのものは古いジャズのスタンダードなんだけど、元歌のほうはなんだか陰気臭くてあまり好きじゃない。オルガン好きということもあって、こういう演奏のほうが好きだ。