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笠置拾遺 / 荒木経惟 + 陽子 「東京は、秋」

笠置渓谷






銀の帯の廃墟風






笠置路地







笠置猫2






笠置商店2






笠置の波紋


2016 / 11
笠置
Nikon F100
Kodak SuperGold400 / Agfa Vista Plus 400

去年の秋の終わり頃に笠置に行って撮っていた写真からまだ載せていなかったものを何枚か。
それにしてもこの頃執拗に通って撮っていたのに紅葉が始まるくらいの頃から一気に足が遠のいた感じだ。理由は簡単でつぎに行ったらあの笠置山を登らないと気がすまないだろうなぁと、天辺に紅葉の公園があるらしいからこんな時期に行ってしまうとなおのことあの山登りをせざるを得ない気分に追い込まれるだろうなぁと、そんなことを考えたからだった。あの山道、利用しやすいハイキングコースのように案内されてるくせに結構きつい。ここのいくつかあるハイキングコースって、自然任せの何だか危険な臭いがぷんぷんするところがあって、そのうちの一つは落石の危険があるということでわたしが通っていた間中完全に閉鎖、また今回の二枚目の写真はそのコースの他の一つ、山の中腹でJRの線路脇を併走する銀の帯と命名された場所なんだけど、この森の中から忽然として現れた古代遺跡風のアーチのすぐ向こうをJRが走ってる。ここは金網がはってあるけど、途中は真横の線路との間にこんなに頑丈そうな柵がないところもあって、また反対側も足を滑らせればそのまま木津川渓谷にまっさかさまと、こんなところ本当に歩いていいのかと思うこと必至のコースだったりする。しかもわたしがここを歩いたのは雨が降った数日後だったから、山から流れてくる水がまだ途切れておらず、足元はぬかるんで滑りそう。誰とも出会わない奇妙な静けさのなかにいたことも相まって妙に怖かった。

この後笠置に至るJR沿線の駅や同じく南に延びる近鉄沿線の、普通だったら降りる用事もない一生縁のなかったに違いない駅に降りて撮影行の行動範囲を広げていった。紅葉を過ぎれば笠置山に登らなければという強迫観念も薄れるかも知れないので、再び冬の笠置に写真を撮りに立ち寄っても良かったはずだったんだけど、結局はそうはならずに京都の南、奈良の北側で歩き回ることに専念していた。
でもただの郊外の農地に立って、辺境の惑星にでも降り立ったような気分にふけるのも、なにしろ正直に云ってしまうとこちらがかなり能動的なフィルターでもかけて眺めないと、客観的には何もない退屈極まりない場所がほとんどだったりするから、さすがに飽きてきて、最近は嵯峨嵐山辺りに行く場所を変更してる。観光客の外国人がぞろぞろと歩いてるというのが、誰もいない農地の真ん中に立っていた者にとっては妙に新鮮だ。嵯峨野あたりで観光地的な雰囲気を排除して写真を撮る遊びのようなことをやってる。



☆ ☆ ☆

東京は、秋1

東京は秋2

東京は秋3



荒木経惟が東京を撮っていた写真を集めた写真集。荒木経惟の写真集って東京と名前がついてるのが山のようにある印象で、しかもタイトルに東京とついてなくても、どの本も大抵東京の写真でもあるから、どうにも区別がつきにくいところがある。で、この本はそんな区別のつきにくい写真集の中ではちょっと風変わりで、本の中に並んだ写真を今は亡き陽子夫人と一緒に眺め、その写真についてちょっとした会話を交わしているのを写真に並べて載せるという構成になってる。
その会話が写真を肴にして、思い出の場所であったりするものを仲の良さそうな雰囲気で喋ってるのが伝わってきてなかなか楽しい。そしてその会話は写真の素人とプロが会話しているといった教え教えられる堅苦しい関係のものとはかなり違う。
荒木経惟も、自分の撮った写真を前に、ここの、この電柱の並び方が良かったんだよとか、その場で目の前にあったものに対してどういう関心事でシャッターを切っていたのか、そういうことを日常会話として楽しそうに喋ってる。
荒木経惟の写真や言葉は私小説風を装ったりと、時に策略に満ちていてそのまま鵜呑みに出来ないところも多々あるようにわたしには思えるんだけど、この本ではそういうところはあまり感じられない。
また、写真に関する態度についてところどころで明かしているのも面白い。たとえば歩道橋を行く人の写真について、ぶれると物(ブツ)じゃなくなるから、自分はぶれるのが嫌いで、隅々までピントが合うように絞り込んで撮るとか、水溜りに落ちて吹き溜まったものの写真では、写真屋さんは町が表現しているものをそのままフレーミングしてくりゃいいんだよと云い、また、背中に太陽を背負って撮るのが一番面白い、なぜならのっぺりしたなにもない写真となって、そういう写真は見る人がそこに自由にドラマを組み立てやすくなるからという風に語る。
写真はちっとも真似をしようとは思わないんだけど、考え方は自分と近いものが一杯ある感じで共感するところが多かったりする。

荒木経惟って自分にとってはなんか妙な存在の写真家なんだな。真似したくなる写真でもないのに、機会があれば荒木経惟の写真を好んで眺めてる。言動を見れば共感する部分は多いのに気づくんだけど、それでも影響を受けてるのか受けてないのかよく分からない写真家だ。







最近再版されたみたい。本屋で中身を見てみると、こっちのほうがサイズも大きく、写真も大きく載ってるけど、その大きな写真を本の綴じ目を跨いで載せていた。1ページにつき写真一枚という形で載せてるわけでもないのは、いくら写真が大きくなったとはいえ賛否両論ありそうだ。


アグファもよく分からないなぁ。この会社、結構前に倒産したんじゃなかったか。フィルムは別の会社が名前を引き継いでどうのこうのっていうのはどこかで読んだことはあるけど、おそらく大手のOEMなんじゃないかな。
昔この名前で出ていたフィルムとはおそらく中身はまったくの別物だろう。




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重力の庭 Gravity Garden / 松江泰治写真集 「 Cell 」

集積階段






焼肉






駐車ライト






浮き草
2017 / 02 (1)(2)(3)
2015 / 10 (4)
長池 / 近所
Nikon F100 / Contax T3
Lpmography Colorne3gative 100 / 400

日本語の単語だと、一文字違いのトマス・ピンチョンだ。
ちょっと特殊な言葉使いでかっこいいと思ったんだけど、Gravity Gardenと英単語に置き換えて検索してみると結構ヒットした。それもここで使おうとしていた意味とはまるで関係ない単語として。
ユニークな言葉を使おうとしても大概先に誰かが発想してる。こういうことを知ると本気でげんなりする。

一見なんてことのない光景であっても、どこか空間の質感が特別に見える場所がある。そこだけ比重が大きくなってるとか、さも異質の重力がかかっているような気配。というかどんな空間でも様々に重力がかかっていてそれは均一じゃない。その重力のかかり方の比率は主観的、わたし個人の関係性において発生しているだけでまるで一般的じゃないんだけどね。だから他人にとっては何だか重要に見える空間でもわたしにはさっぱり関心を呼ばない場所であったり、またまるで逆に、わたしにとっては特別な印象として繋がれる場所が、他人にとってはまったくどうでもいい空間であったりもする。
万人に一様に重力がかかっている空間もある。風光明媚な場所とか観光の名所とか。でもその重力のかかり方をしている場所は最近ではちっとも関心を呼ばなくなってる。カメラを持って対峙して、今一番興味を引かれるのはわたしとの関係において発生する重力の密度だ。
でもその空間の密度を写真の形に出来るかと云うと、それはまた別の問題になったりする。なかなか思うようにはいかないものだ。

三枚目の駐車場のライトと柱の写真は車の後ろの一部はもうちょっとフレームの中に入っていたほうが良かった。四枚目のは水面のグラデーションが上手くスキャンできなかった、もう一度スキャンしてみたい気分だけどしまい込んだネガを探し出すのに一苦労しそうで断念した。撮り終えたフィルムは数が多くなってしまって、有効な方法を思いつかずに上手く整理できなくなってきてる。
店で現像してもらってる場合はフィルムの先頭にナンバーを記したタグが貼られていて、一度これが上手く貼れなくて店の人にお詫びされたことがあった。わたしはほとんど意識してないタグだったので、なぜお詫びされるのか分からなかったんだけど、聞いてみるとこのタグのナンバーをフィルムの整理に使ってる人がいるという話だった。
みんなフィルムの整理には苦労してるんだろうな。


☆ ☆ ☆

T3
最後の花の写真を撮ったのがこのカメラ、CONTAX T3。
わたしの個体は若干アンダー気味に出てくるようで、これで撮ったカラーネガはほとんど壊れてるわたしのスキャナーだと結構読みにくい。ひょっとしたら元々ポジフィルム用にチューニングされてるのかな。
ヤフオクだと下手すれば今でも10万越えて落札されてる時もあって、コンタックス人気は衰えてない感じがする。
わたしが買ったのはヴォルフガング・ティルマンスが使っていたという理由でかなりミーハー的な動機だった。でもコンタックスのカメラはもう一つ持ってるTVSⅡとも、どちらも手にしている感触に独特のものがあってどこか馴染めない。一番はシャッターの感触で、ちょっと触れただけで落ちるくらい敏感すぎる。半押しの力加減は結構慣れが必要で、押し切るつもりもなかったのに、あっというまに全押し状態で一枚写真を撮ってしまったという事態になる。
よく写るカメラであるのは間違いないとして、わたしは昔中古を5万くらいで買ったんだけど、これでも値段相応かと言うとそれほどでもないかなと云うのが正直なところだったりする。使っている道具としての手に伝わる感覚って意外と思い入れに反映されるんだな。
と云う感じで、高価な買物だったわりにいまひとつ思い入れをこめられないところがあるT3だけど、最近使ってないしそろそろまたフィルム入れてみてもいいかも。

☆ ☆ ☆

松江泰治の写真集「Cell」
cell1

cell2

cell3

とってもユーモラスでしかも俯瞰好きの琴線に触れまくる写真集だ。わたしは本屋さんの店頭、写真集の棚で初めてこれを手に取ってみた時から欲しくて仕方なかった。結構高い写真集だったからなかなか手が出せずに、ヤフオクで手軽な値段で出品されてるのを見つけてからようやく手に入れることが出来た。
一見どうやって撮ってるのか不思議に思うんだけど、航空写真並みの視点から大判を使って撮った写真の、ごく微細な一部を正方形に切り取り、極端に拡大して一枚の写真にしているということらしい。
松江泰治によると人の眼はきちんと見てるようで本当のところはそんなに見てはいない。この作品群はそういう視点から、大判で細部まで写りこむ方法で撮った細部を微細に切り出すことで、見ていながら見ていなかった光景を見えるものにするといった意図で撮られてるらしい。
写真そのものは切り出す全体の大判写真を提示してるわけじゃないから、元がはるかに大きな写真だったというのは直接的には説明はされてないんだけど、大判で撮ってもこれだけ小さな部分を切り出すとざらついたテクスチャになったりするから、非常に小さなポイントを凝視しているのだという感覚は良く伝わってくる。この感じは盗視という感覚に非常に近い。密やかな誰も注視していないところをたまたま息を呑んで盗み見ているといった感覚だ。キャンディッド・フォトなんかが近そうに思えるけど、盗み見ている感じはこちらのほうが格段に強くなってる。人の秘めた生活の一部を遠くから知られずに覗き見ているんだという、この下世話でちょっと背徳感を裏打ちにしているような感覚がなかなか楽しい。
被写体は圧倒的に人。カメラの前で取り繕わない、人のユーモラスで愛らしい様子が写真集全体に散りばめられてる。人の様子を写すものとして、雑踏を写したものとはまた別の感触があって、人の存在に対する親愛の情はむしろこっちのほうに満ちているような気がする。
それに、この写真集の成立はかなりコンセプチュアルなものなんだけど、イメージの出来としてもきちんと絵として成立しているのがいい。コンセプトなんか関係無しでもイメージ的にだけで見るに耐える画像に仕上がっている。全部真四角のフレームに納まってる写真で、真四角フレームだと途方にくれる場合が多いわたしにはスクエア・フォーマットの使い方、絵の作り方で非常に得るものが多い感じがした。






アマゾンでも中古を出品してる業者がいた。でもこれ、買う人いないだろう。




ロモのやっすいフィルムの中でオーソドックスなネガフィルムとなると、この感度100のがお気に入り。感度400はもう一つだなぁ。
先日ビックカメラに買いに行ってフィルムの冷蔵棚の中を見れば、置いてあったロモのこのフィルムは消費期限が来年の夏くらいのものばかりだった。若干古いのが置いてあるままといった印象で、ひょっとしてロモはもうフィルム作るのをやめてるってことはないだろうな。あのアナログのトイカメラで遊びたおしてたロモもデジタルの製品を少しずつ増やしてるし、その延長でフィルムの生産をやめるなんて云い出さないで欲しい。



コンセプトが前面に出てくるものは写真に限らず美術なんかでもあまり好きじゃないんだけど、これは写真としても面白かった。
ただ、どうもどこかでこういうのを見てるような気がするという感覚が本を開くたびに呼び起こされて、後で気づいたのはグーグルマップに感覚的に近いんじゃないかということだった。無限にクローズアップできるグーグルマップがあれば、きっとこんな感じのイメージが得られるはずだ。でもグーグルマップは無限にクローズアップできないし、やっぱりこの写真集が唯一無比の存在であることには変わりないんだけどね。




浸潤 Shadows Within and Without

駐輪場





天女






不安







密枝
2017 / 04 (1)(2) (4)
2017 / 05 (3)
新祝園 / 近所 / 高の原
Canon Autoboy FXL / Olympus μ2
Fuji Presto400 / Kodak TriX を自家現像。


ー 口の中にも握った拳の中にも影ができるだろうが。

昨日「スウィートホーム」を見ていたら、伊丹十三演じる謎の老人山村の台詞にこんなのがあった。悪霊と化した屋敷の住人間宮夫人の潜む闇へ入りこもうとして山城新吾演じるTVディレクターが撮影用の照明を持ち込もうとする場面で、その行為を咎めた時の台詞。なんかね、どんなものでもその内に闇を内包しているという風に読み取ってみると、ちょっとかっこよくて印象に残った。
真っ二つに切断されて上半身だけで床を這い回る古舘伊知郎とか、ローファイのSFXがちゃちなんだけど趣向を凝らしてなかなか楽しい。CGI全盛になってからこういう楽しさは本当に映画から霧散してしまった。
映画は監督をした黒沢清と製作総指揮だった伊丹十三との間で生じた訴訟騒ぎのせいで未だに封印されたままで、そのトラブルがこの映画にかえってカルト的な価値をつけてるところがある。そういう封印された映画なんていう余計な要因に釣られて期待を膨らまして見ると肩透かしを食らうかもしれないけど、でもふつうにホラー映画としては結構しっかりと、つぼを押えた作りの映画になってると思う。
山村老人の辺鄙なガソリンスタンドの雰囲気といったところまでも、おそらく製作陣がこれまでに影響を受けたアメリカのB級ホラー映画の雰囲気を持ち込んで、そういう洋画ホラーの洋館物のタッチのなかに和風のじめじめした気味悪さを混ぜ込もうとしてる意図はきちんと伝わってくるような仕上がりになってる。訴訟の影響を未だに引きずって、封印されたままにしておくなんてちょっともったいない映画だと思う。
ちなみにゲーム版の「スウィートホーム」というものもあって、このゲームを世に送り出した製作チームはこれの発展系としてのちに「バイオハザード」を作ることになる。そういえば、ジル・バレンタインのコスチュームはどことなく「スウィートホーム」での古舘伊知郎の珍奇なコスチュームを連想させる。ゲームの「バイオハザード」はやがてハリウッド映画としてシリーズになるほどヒットして里帰りすることになるわけだけど、あらゆるものが因果の巡る網の目の中にあるって云う感じがするなぁ。
もうひとつ、この映画の製作総指揮をした伊丹十三とわたしは誕生日が一緒。伊丹十三の映画はわたしには一回見たらそれでいいと、見ている間は楽しめるものの正直そんなに後を引かない映画になってるんだけど、こういうところではちょっと親近感がある。

こんな風に書いてみて、写真も何回も見たくなるようなのがいいんだろうなぁなんて思った。


☆ ☆ ☆


汚いガラス越しに見えた駐輪場、天女の色っぽい腰つき、陰鬱な鯉のぼり、異界の茂み。

自らのどこか深いところからから滲み出す闇と、その自らの滲み出す闇に浸されそのなかに沈み込んでいく事物。最初の小汚い窓ガラス越に眺めた駐輪場と最後の写真はそんな感じだろうか。

最初のはガラスの汚れがどう出るか偶然任せで試してみたかった。最後の茂みの写真は最初から対象は異様な感じで目の前にあったし、それが切っ掛けでシャッターを切ったものの、こういう異様さをブーストされたようなイメージに結実したのは半ば偶然の産物だった。
そういう偶然を呼び込むのも才能のうちと思ってるので、そういう才能を振るえるほどにのばしてみたいものだ。偶然とかチャンスを呼び込むって、他の表現分野でも意外と重要な要素になってるんじゃないかと思う。それを足がかりに自分では乗り越えられなかった方向を見出せるかもしれないし、そうやって表現を拡張していった先人たちは一杯いると思う。特にシュルレアリスムの信奉者なら、こういう考え方には馴染みがあるんじゃないかな。
だから失敗や思いもかけなかったものは本当は喜ばなくちゃいけない。成功したものよりもそこから引き出せるものは多いかもしれない。意図通りに出来たものなんかよりもよほど面白い。


fxl
使ったカメラはキヤノンの昔のコンパクトカメラだ。これ、上面のスイッチでストロボをオフに固定しておけるのが意外なほど便利。この手の昔のファミリーコンパクトカメラは上手い下手は別にして、とにかく何かが写ることだけは絶対に保障しておかなければならない、予想外に暗かったからといって撮影に失敗してしまうのはどうしても避けるべきだというような設計になってるから、ストロボを使わない設定にしていても電源OFFにするとリセットされて、やたらとピカピカ光るカメラとなるのがほとんどだ。わたしは最近はストロボも躊躇無しに使ってるからこういうのはあまり関係なさそうに見えるけど、どうしてもストロボを使いたくないという時もあって、そういう時にいちいちストロボの設定がリセットされないのは単純なわりに使い勝手はかなり向上する。
このFXLを防水仕様にしたカメラとしてAutoboy D5というのがある。中身は同じなのに見た目はまるで違って、マリンスポーツにいかにも合いそうな、水の中に落としてもすぐに分かるような派手な外観になってる。たまにオークションに出てくるのを見て入札しようとするんだけど、最終的に妙に高い落札額まで上がってしまうので、未だに手に入れていない。コンパクトな防水カメラは電池蓋の爪が折れてビニールテープで止めてるオリンパスのμ2を持ってるだけなので、安くて使い易いコンパクトな防水カメラを画角違いで何台か欲しい。









青嵐 / 森山大道 「大道 東京」

こいのぼり





翠明





翠門





樹霞

2017 / 04
2017 / 01
2016
2017 / 01
高の原 / 新大宮 / 近所
Nikon L35AF / 写ルンです シンプルエース / Fuji Natura Classica
Fuji 業務用400 / Kodak SuperGold 400

この前鯉のぼりを撮ったので、こんなの披露出来るのは今しかないだろうと思って載せてみることに。他も年は違えど5月に撮ったものと思って選ぼうとしたものの、結果は必ずしもそうは行かなかった。まぁ適当に、実際は一月に撮ってるようなものでも、今の季節っぽいかなと見えるようなのを並べている。
五月はねぇ、わたしの季節なんだわ。この世界に初めて触れたこの月が体調も気分も一番状態がいい。いつものほほんとして闘争心の欠片もないって云う、春の朧な性格を貰ったのは負の刻印と云えないこともないけど、それでもやっぱり五月が好きだ。


☆ ☆ ☆


daido tokyo 1

daido tokyo2

daido tokyo3

森山大道の写真集。というか2016年初頭にパリのカルティエ現代美術財団が開催した同タイトルの展覧会の図録だと思う。分量的には前半がカラー写真、後半がモノクロ写真の、ページ数でいくとほぼ同量の二部構成になってる。面白いのは後半のモノクロの部が別に単独の形で出版されてる写真集「犬と網タイツ」をそのまま集録してること。どうやら「犬と網タイツ」として撮られた写真群そのものがこの展覧会のためにカルティエ現代美術財団から依頼されたものだったらしい。いちいち確認はしてないけど、別途出版された「犬と網タイツ」の全写真がそのまま掲載されてるんじゃないかと思わせるくらいの大ボリュームとなってる。
要するに「犬と網タイツ」にかなりの分量のカラー写真を追加した一冊になっていて、単純に「犬と網タイツ」の内容を知るには「犬と網タイツ」を入手するよりもかなり得な写真集となってる。ちなみにこの写真集には犬も網タイツも出てこない。ボリス・ヴィアンの「北京の秋」のようなタイトルのつけ方だ。
ただ、「犬と網タイツ」がそのまま内包されているかというと、話はそこまで旨くできてはいなくて、まず印刷の仕様が異なっていて、こっちのほうは黒い紙にシルバーのインクで印刷、全体に白い部分がグレーがかった仕上がりになってる。また1ページに4枚の写真を並べているところがあって、1ページ1枚の写真を載せていた別途写真集ほど余裕を持った編集になっていなかったりもする。まぁそれでもまるで印象が異なっているわけでもないし、由来から言えばこちらがオリジナルともいえそうなので、やっぱり盛りだくさんのお得な写真集になってると思う。
モノクロを撮っているとどうしても森山大道が撮ってきたような写真に捉われてしまうようなところがあったりするんだけど、当の本人はそういう自分のスタイルにそんなに云うほど捉われてるようでもなくて、その辺の拘りのなさというか自由であり続ける感性はやっぱり凄いなぁと思う。これだけ森山大道風って云うスタイルが世間に広まってしまうと、本人はもう本当に撮りにくくなると思うんだけどね。
カメラやフィルムにもまるで拘らなくて、今やニコンの安いコンデジで撮ってるというんだから、この自由さ、ただ写真を撮るということができればそれでいいという、その一点に拘り続けてるだけという身軽さは凄いと思う。デジタルのカラーで撮ってる写真はどちらかというとデジタル特有のペラペラのイメージになってる印象なんだけど、だから駄目だと否定もしないで、デジタルがそういうイメージを生み出すならそのペラペラ加減をむしろ楽しんでやろうって云うところも見えて、そういうところの許容量の広さも興味深かったりする。
何だかもう散々見飽きてきたような気もする森山大道の写真も、新しい写真はどんなものかと実際に見てみるとちっとも飽きてないことに気づいたりする。見慣れて馴染んだ森山大道の刻印が押されていながら、それと同じ場所でまるで新しいイメージが生み出されてるのに見入ってしまってる自分がいる。
全体はまさしく都市の断片を撒き散らしたパズルのような写真群で、森山大道によって仕掛けられたパズル越しに見せる都市の表情は極めて異様で新鮮だ。

この本のレビューの、単に説明補助のために撮っただけの写真なので、遊びでちょっと日付を入れてみた。荒木経惟なんかは好んで日付入れてるけど、いつも撮っているような写真にこれを入れるのは結構勇気がいる。スナップ写真は一気にスナップっぽくなるとは思う。でもこういうのが効果的に見えるイメージをあまり作らないから自分の写真に入れるとやっぱり浮いてしまうかなぁ。

☆ ☆ ☆

GONTITI / 28

どこかで耳にしたような印象の曲だと、さっきまで悩んでた。喉元まで出掛かっていて、でもその正体がつかめないもどかしさで悶絶してた。さっきようやく思い出したんだけど、ピッチオーニの曲だ。旋律の端々でピッチオーニのArizona Dreamingを連想する。









奥山由之の新作の写真集が今月の二日に出版された。わたしは予約しておいたのでもうすぐ手元にやってくる。
ということで一応情報だけ。ポラロイドで撮ってるくらいの情報しか見てないから、中身については今のところ何も書けない。