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真昼の光の中 / 星降らない物置

中空のブランコ






木陰のアパート






干し玉葱

2017 / 06
嵯峨野
Nikon F100
Fuji 業務用フィルム 400

星が降り心霊が舞い飛んだ写真を36枚も撮った後、やっぱりあの空間、きちんと撮れなかったのは心残りだなぁって云う思いが渦巻いて仕方ない。そこで今度は自分の持ってるカメラで一番失敗が少ないF100に36枚撮りのフィルムを装填して、もう一度同じ場所へ撮りに行って来た。星降る画面の背後でどこを写したかはそれなりに判断できる程度には写ってたから、そのなかからここは思ったほどじゃなかったと云うところは省いての再撮影だった。
感覚的には新鮮味も何もない二番煎じの一本だったけど、内容的にはなにしろ心霊が舞う一本である程度どんな感じになるかを見た上での良いとこ取りの撮影になったから、結果はもちろんお気に入りが詰まった充実の一本になった感じだ。何ならここで全コマ一枚ずつ毎日アップしてもかまわないくらい。全コマといえば以前にフィルム一本、何でこんなのを撮ったんだと自分でも首を傾げてしまうようなのとかどうしようもない出来のコマも含めて全部アップして、自分の意識の流れのあとをつけてみるのも面白いかもと思ったことがあった。実行には移さなかったけどね。デジタルにはフィルム一本という区切り、纏まりが無い。フィルムはロールフィルムを使ってる分にはこれを結構意識する。この区切りの単位はそこに収めていく写真にも何らかの影響を与えているかもしれない。サージェントペパーズのようなコンセプトアルバムに比するコンセプトフィルムなんていうのも出来てくる可能性だってある。
それにしてもF100の分割測光は精度が良いというか、本当にめったなことじゃ外さないなぁ。影がくっきり出る雲ひとつ無い晴天の昼間、そこらじゅうに濃い影が落ちてる空間で、光の部分も飛ばずに影の中も潰れないできちんと捉えてる。確か説明書に分割測光を使ってる時は露出補正はするなと書いてあったと思うけど、それだけニコンのほうにも自信があったんだろう。おまけにオートフォーカスとプログラムオートで使ってるから、やってることはフレーミングしてシャッターボタンを押してるだけ。云わば超豪華な写ルンですといったところだ。
唯一の難点は見た目がいわゆるデジイチのおにぎりのようなずんぐりしたスタイルに移行していく過程のデザインになっていて、クラシックカメラのオーラが皆無なこと。最近のデジタルはクラシックカメラ回帰のようなデザインのが増えていて、これはこれで紛い物臭くてやめてくれと思うんだけど、そういうのに比べるとF100はダサいデジイチのそれもさらに古臭い形っていう雰囲気をどことなく纏ってるのが、何とかならなかったんだろうかと思う。でも性能の良さが見た目を完全に上回ってるのでお気に入りのカメラだけどね。

ちなみに最後の写真が前回の星降る物置と同じ場所。吊ってある玉葱の、群れを成す複雑な赤い色と枯れ草色が撮りたいと思ったポイントだった。




☆ ☆ ☆




無印フィルムで十分って云う感じがする。10本まとめてだとそれなりの値段になってしまうけど、一本当たりにしてみるとブランドがついたフィルムの大体半額くらいだし、結果は半額を確実に上回ってるものとして出てくるように思う。








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真昼の光の中 / 星降る物置

藻と空と堤防






反射とカーテン





植群






木陰と階段

2016 / 08
2015 / 08
2014 / 09
2017 / 06
小椋 / 河原町 / 忘れた / 嵯峨野
Canon Demi 17 / Contax T3 / Golden Half / Zeiss Ikon Ikonta Six
Kodak SG400 / Fuji C200 / Fuji Venus 800 / Kodak Tri-Xを自家現像

最初のは去年の夏に調子の悪いキヤノンのハーフカメラを使って小椋の干拓池跡で撮っていたもの。あとは結構以前に撮って出していなかったものの中からと、最近撮ったものから一枚。モチーフは見つけたらわりとよく撮ってる対象のヴァリエーションってところかなぁ。二番煎じともいえるかもしれないけど、同じ歌を歌うことは結構良くある。というか同じ歌しか歌えないか。こういう対象の範囲を広げたり角度を変えたりといったことをやってみたいというのもいつも心の中にはあるけどね。
調子の悪いカメラ、上手く取り込めないスキャナーも加勢した、ざらついたテクスチャだとか、荒れたりずれたりしたイメージを、くっきりはっきりまるで窓越しに実際に見ているように世界がそのまま写るものよりも好むのは、ひょっとしたら作家の筆跡も生々しい絵画的なものへのある種のコンプレックスなのかもしれないなぁと思う。泰西名画的な写真を絵画への従属として毛嫌いしているわりには別の形で絵画的な志向が紛れ込む。むしろ窓の外の光景のようにそのまま味も素っ気もなくそっくりに写るデジタルのほうが非絵画的という意味で写真的なんじゃないだろうかと、フィルムこそが写真だと思うわたしの思考を混乱させに来る。

☆ ☆ ☆

ところで、今年の初めにおみくじで凶をひいたこと。あの後暫くはリベンジしようと思って、最後には春日大社まで行ったのに結局リベンジは果たせずにそのままという状態が続いていた。今年は本当にあまり良くないことばかりが身の回りで発生していて、最近やっぱり放置したままだったおみくじリセットをしたくなって、先日八坂神社で半年振りにおみくじを引いてみた。
また凶だったら嫌だなぁと恐々お札を貰いに行って中身を見てみると、これがなんと結果は大吉の文字が輝いてるのを見ることとなった。おみくじ程度に何を大層なと思うかもしれないけど、何か体中の緊張がほどけて行く感じだった。
正直云ってこの結果でこれだけ気持ちが楽になるのはまったくの予想外で、それだけ最近の身の回りの出来事に我ながら精神的に鬱屈していたんだなぁと思った。これがきっかけでちょっとでも気が楽になる方向へ動いていけば良いんだけど。
で、細かいトラブルの一つとして、最近ヤフオクで落札した古いカメラのシャッター幕がよれよれの穴だらけというのがあった。大吉のおみくじを引いてるのでこの程度のトラブルなんかどうってことないという気分が勝ってはいるけど、試しにどんな写りになるのかフィルム一本使ってみて、現像の結果に愕然とした。

なにしろ、こんなのが36枚続いていたんだから。現像だけでインデックスも頼まなかったのは正解だった。
シャッター幕穴あき

全部に星が降り、心霊が飛び回る。
やっぱり古いカメラはオークションなんかでは手を出さないのが正解なんだろうと思う。手を出すとしたらオーバーホール前提は必至だろう。オークションのほうがリアルの中古カメラ屋ではなかなか見つからないような珍しいものが出てくるからどうしても見てしまうんだけどね。
ということでこの落札したカメラはシャッター幕交換とオーバーホールを頼むことになりそうだ。
落札したカメラはExakta Varexだった。


☆ ☆ ☆



意外とよく写るハーフサイズのトイカメラ。ハーフのモデルがこのカメラで撮りまくり、撮られまくった写真集も出てる。キティちゃんの絵柄は使ってるうちに結構簡単に剥げていってしまう。わたしのはもうキティちゃんの影さえもない。


ゴールデンハーフをハーフのモデルが使いたおす。ほとんど一発アイディアで出来上がったような写真集。でも意外と面白いよ。妙に生々しい日常写真がラフに撮り撮られて一杯並んでる。




燦爛 / André Kertész The Polaroids

燦爛







曲立頭

2017 / 04
2017 / 05
新祝園
Nikon L35AF / Lomo Diana MINI
Fuji Presto400 / Kodak Tri-X を自家現像

砕け散る光と収斂していく光、ってところかなぁ。シュルレアリストとしてはこういう現実世界から逸脱しかけてるような雰囲気の写真に撮れると、撮った本人がまず楽しくなってくる。何よりも一番に自分で楽しめないと何の意味があるって云うのか。
手段として写真を選択してるけど、昔から眺めていたシュルレアリストのいろんな作品を見てるほうが、写真の文脈の中に入って写真を横断していくよりもひょっとしたら自分にとっては有益なんじゃないかなぁとも思う。音楽にしてもそうだ。音楽的といえば昔からリズミカルに並んだような被写体を撮ったりはしてる。でもそういう絵解きのようなものに限らずに音楽から発想する写真のほうが、それがどういう形になるのかは写真にして見ないと分からないものの、写真から発想する写真よりも何だか刺激的なように思える。

最後のは新祝園の駅から少し歩いたところにある華広場という公園にあった遊具。この公園には異様なデザインの遊具が並べてあってひときわ際立ってる。棚倉のぐるぐる椅子と云い、地方都市に飛びっきり異様なものが散見されるというのはどういうことなんだろう。

☆ ☆ ☆

最後の写真で使ったのは本当に久しぶりだったダイアナ・ミニ。もう目が眩むほどの圧倒的な低画質。これは後処理でちょっと弄くってこういう形に仕上げてるけど、出来上がったままの写真は本当にどうしようもないというか、トイカメラ好きでまともに写ってないものを面白がる自分でもこれはないだろうって云う仕上がりのものばかりだった。一応ゾーンフォーカスでピントを変化させられるんだけど、おそらくどこに合わせても、どれもピントは合わないと思う。このカメラでは初めてハーフで撮ってみて、巻き上げのいい加減な感触とか、こんな形で何時までも撮ってるカメラじゃないと思い始めてからは途中でもっと大きなサイズのスクエアフォーマットに切り替えて早く撮り終われとばかりに最後まで撮りきった。撮影途中でフォーマットの切り替えが出来て、ハーフサイズのほかに35mmフィルムで真四角写真が撮れるのが売りのカメラだけど、こんな面白そうな仕様のカメラなのに、カメラそのものの出来が酷すぎて再度手に取る気がしない。ロモは廉価フィルムを供給してくれてるのはいいんだけど、カメラ作りに関してはカメラとユーザーを舐めきってるとしか思えない。
と書いてみたものの、もっと遥かに逸脱した、水道の配管や板切れ、下着のゴムなどで作った冗談のような手製カメラで水着の女性などを盗撮していたミロスラフ・ティッシーという変人もいる。幸いにしてキュレーターが見出したから写真家として名を馳せることになったものの、そうでなければおそらくただの変質者で終わっていたと思う。もっとも本人は変質者で終わってもまるでそんなことに興味なさそうではあったけど。
ミロスラフ・ティッシーがどんな写真を撮っていたのか、どんな手製のカメラを使っていたのか、この名前で検索してみれば山のように写真が出てくるので興味があれば検索してみるのも面白い。おそらくその手作りカメラの様子はこれを読んで頭に思い描いたものをはるかに凌駕すると思う。
その変質者気質を発揮した写真なんかを眺めてるとその逸脱振りに目を見張るんだけど、比べればダイアナ・ミニの写らなさのつまらないところは派手に逸脱してるように見えても結局トイカメラという範疇に収まってしまう程度の破格に過ぎないというところにもあるんじゃないかと思う。

いろんなレベルで使う側を戸惑わせるばかりのカメラだけど、フラッシュはかっこいい。付属していたアダプターを使えば他のカメラにもつけられるから、同じハーフカメラのPEN SSE-2にでもつけて使おうかな。

ダイアナミニ




☆ ☆ ☆


ケルテス ポラ1

ケルテス ポラ2


ケルテス ポラ3

ケルテスはわたしの中では以前取り上げた稲越功一と同じタイプの写真家だ。茫洋たる現実世界を前にして、詩情豊かで端正なイメージとして世界を切り取ってこられる写真家。印象はモダンで瑞々しく、時代的にはまぁ同時代の写真家でないのは承知していても、そんなに古い写真家とは思えない。でも本当はブレッソンよりも前の世代の人で、これを知った時はちょっと吃驚した。またマン・レイなどのシュルレアリストが関心を寄せていたということだけど、ケルテスの写真が好きな理由としてその辺もわたしは敏感に反応してるのかもしれない。
決定的瞬間といったものとはほぼ無縁の静的で構築的な写真が特徴とでも言えるかな。スタイリッシュな写真を一杯撮って、この世界に残していってくれた写真家だ。構成的でどちらかというと直感ではなくて分析的な側面によってる印象なのに、詩的な要素も苦もなく紛れ込ませる感性も持ち合わせていて、この辺はもう作家の資質によってるんだと思う。わたしには十分すぎるほど欠落してる感性なので、真似しようと思っても出来ない。

この写真集はケルテスが奥さんを亡くした後、アパートの一室で窓から差し込む光の下にオブジェを置いて、その光の様子を撮り続けた写真を集めてる。これらの写真が奥さんを亡くしてしまった後の時間の結晶だということを情報として知ってしまうと、写真に込められた詩情もどこかメランコリックなものに見えてくる。寄り添うような人の形のガラス瓶が被写体として好んで取り上げられてるのも、そんな心情の現われなんだと思う。

タイトルにもあるようにポラロイドの写真だというのも良い。
ポラロイドそのものはもう生産していないけど、今はインポッシブル・プロジェクトがフィルムを作ってる。でもこれはまだまだ未完成品っていう印象で高いお金を払ってまでして使う気がまったくしない。おまけに元のポラロイドとは明らかに画質が違うし、昔のポラロイド写真の持ってた雰囲気は出てこない印象がある。
昔の本家ポラロイドは唯一無比の存在だった。ポラロイドが生産を止めてしまったのは写真にとって本当に大きな損失だと思うし今も嘆く人も多いだろう。でも結局はユーザーが支援しなかった結果だということなんだから、あまり文句も云えないように思える。デパートの閉店セールに群がる客を見て、あんたらが普段やってきて買い物をしないからこんな状態になったんじゃないかと思うのと似た感じかな。







1000円2000円のカメラだったらまだこんなものかとその圧倒的な粗悪感も楽しめるかもしれない。でもこの価格はないと思う。
カメラの出来としてはまだミニじゃないほうのブローニーを使うダイアナFがいい。でもダイアナFも似たようなボックスカメラであるホルガに比べたら、あのホルガでさえもよく出来たカメラに見えるくらいの出来の悪いカメラなんだから、もう言葉もないというか。








木馬と下着 / Dave Clark Five - Because

木馬と下着






駅ガラス






繰り返すステップ






空中回廊から


2014 / 12 (1)(2)
2014 / 11 (3)
2017 / 02 (4)
Nikon F3 / Fuji CARDIA Travel mini DUAL-P
Fuji Venus800 / Kodak SG400 / Kodak Tri-X


下着といえば組み合わせは騾馬のほうがしっくり来るのかもしれないけど、ここは木馬が登場する。何だか文芸調の官能小説にでも出来そうなタイトルだ。そんな官能小説が本当にあれば増村保造辺りが映画化してそうな感じだなぁ。
タイトルに沿うのは最初の一枚だけで、ほかは内容的にはまったく関係ない。関係があって集めたとすれば全部京都駅で撮ったということくらいか。とにかく京都駅ではことあるごとに写真を撮ってる。表現なんていうことに矮小化させず写真の特性を活性化させるのに、同じ場所を執拗に撮るというのは方法論としては有効なんだけど、さすがに同じ京都駅で撮るのは今はちょっと飽きてきた。同じものをひたすら写すって精神的に強靭なところでもないとなかなか続かない。
撮った写真は後々、あの時代の京都駅はこんな風だったと京都駅の歴史を振り返る役に立つかと言うと、おそらく懐かしさも呼び起こさないようなドライな写真ばかりだろう。わたしはそれで良いと思って撮ってるんだけど、多少は本当にそれで良いのかなと思う部分もあるかもしれない。

木馬はバックの暗がりも含めて色の感じもお気に入り。見方によっては濁ってるとも云えそうだけど。


☆ ☆ ☆


Dave Clark Five - Because


ビートルズが活躍してた頃のバンドだ。アメリカのヒットチャートでビートルズの曲を1位から引き摺り下ろしたこともあるほど、当時は人気があった。パワーポップ系統のバンドだったので、しかもバンド名になってるデイブ・クラークがドラマーということもあって、ドラム強調の本来は喧しいのが特徴なんだけど、これはそんなバンドが歌うバラードになる。キーボードのマイク・スミスのソウルフルなボーカルを乗せたラウドな演奏こそがこのバンドの本領だと考えてる人には、この曲は唾棄すべき曲となってるかもしれない。
わたしはこういうミディアムテンポで和音構成が綺麗な曲って好きだけどね。あっという間に終わってしまう儚さも良い。
でも、いくら好きで当時売れたからといって、これを代表曲というのはビートルズの代表曲ってイエスタデイでしょといってしまうのと同じくらい違和感はあるなぁ。
デイブ・クラーク・ファイブはバンドとしては大成功したにもかかわらず、アイドル的な売れ方だったのでその後のロックの変化に乗り切れずに消えていった。デイブ・クラークが音源の一切の権利を持っているらしく、なぜか再版するのを拒み続けて、懐メロ的な復活も出来ずに人の記憶から零れ落ちていったグループでもある。
ちなみにジュリアン・レノンがこの曲をカヴァーしてる。