2017/06/10


2017 / 04
2017 / 05
新祝園
Nikon L35AF / Lomo Diana MINI
Fuji Presto400 / Kodak Tri-X を自家現像
砕け散る光と収斂していく光、ってところかなぁ。シュルレアリストとしてはこういう現実世界から逸脱しかけてるような雰囲気の写真に撮れると、撮った本人がまず楽しくなってくる。何よりも一番に自分で楽しめないと何の意味があるって云うのか。
手段として写真を選択してるけど、昔から眺めていたシュルレアリストのいろんな作品を見てるほうが、写真の文脈の中に入って写真を横断していくよりもひょっとしたら自分にとっては有益なんじゃないかなぁとも思う。音楽にしてもそうだ。音楽的といえば昔からリズミカルに並んだような被写体を撮ったりはしてる。でもそういう絵解きのようなものに限らずに音楽から発想する写真のほうが、それがどういう形になるのかは写真にして見ないと分からないものの、写真から発想する写真よりも何だか刺激的なように思える。
最後のは新祝園の駅から少し歩いたところにある華広場という公園にあった遊具。この公園には異様なデザインの遊具が並べてあってひときわ際立ってる。棚倉のぐるぐる椅子と云い、地方都市に飛びっきり異様なものが散見されるというのはどういうことなんだろう。
☆ ☆ ☆
最後の写真で使ったのは本当に久しぶりだったダイアナ・ミニ。もう目が眩むほどの圧倒的な低画質。これは後処理でちょっと弄くってこういう形に仕上げてるけど、出来上がったままの写真は本当にどうしようもないというか、トイカメラ好きでまともに写ってないものを面白がる自分でもこれはないだろうって云う仕上がりのものばかりだった。一応ゾーンフォーカスでピントを変化させられるんだけど、おそらくどこに合わせても、どれもピントは合わないと思う。このカメラでは初めてハーフで撮ってみて、巻き上げのいい加減な感触とか、こんな形で何時までも撮ってるカメラじゃないと思い始めてからは途中でもっと大きなサイズのスクエアフォーマットに切り替えて早く撮り終われとばかりに最後まで撮りきった。撮影途中でフォーマットの切り替えが出来て、ハーフサイズのほかに35mmフィルムで真四角写真が撮れるのが売りのカメラだけど、こんな面白そうな仕様のカメラなのに、カメラそのものの出来が酷すぎて再度手に取る気がしない。ロモは廉価フィルムを供給してくれてるのはいいんだけど、カメラ作りに関してはカメラとユーザーを舐めきってるとしか思えない。
と書いてみたものの、もっと遥かに逸脱した、水道の配管や板切れ、下着のゴムなどで作った冗談のような手製カメラで水着の女性などを盗撮していたミロスラフ・ティッシーという変人もいる。幸いにしてキュレーターが見出したから写真家として名を馳せることになったものの、そうでなければおそらくただの変質者で終わっていたと思う。もっとも本人は変質者で終わってもまるでそんなことに興味なさそうではあったけど。
ミロスラフ・ティッシーがどんな写真を撮っていたのか、どんな手製のカメラを使っていたのか、この名前で検索してみれば山のように写真が出てくるので興味があれば検索してみるのも面白い。おそらくその手作りカメラの様子はこれを読んで頭に思い描いたものをはるかに凌駕すると思う。
その変質者気質を発揮した写真なんかを眺めてるとその逸脱振りに目を見張るんだけど、比べればダイアナ・ミニの写らなさのつまらないところは派手に逸脱してるように見えても結局トイカメラという範疇に収まってしまう程度の破格に過ぎないというところにもあるんじゃないかと思う。
いろんなレベルで使う側を戸惑わせるばかりのカメラだけど、フラッシュはかっこいい。付属していたアダプターを使えば他のカメラにもつけられるから、同じハーフカメラのPEN SSE-2にでもつけて使おうかな。

☆ ☆ ☆



ケルテスはわたしの中では以前取り上げた稲越功一と同じタイプの写真家だ。茫洋たる現実世界を前にして、詩情豊かで端正なイメージとして世界を切り取ってこられる写真家。印象はモダンで瑞々しく、時代的にはまぁ同時代の写真家でないのは承知していても、そんなに古い写真家とは思えない。でも本当はブレッソンよりも前の世代の人で、これを知った時はちょっと吃驚した。またマン・レイなどのシュルレアリストが関心を寄せていたということだけど、ケルテスの写真が好きな理由としてその辺もわたしは敏感に反応してるのかもしれない。
決定的瞬間といったものとはほぼ無縁の静的で構築的な写真が特徴とでも言えるかな。スタイリッシュな写真を一杯撮って、この世界に残していってくれた写真家だ。構成的でどちらかというと直感ではなくて分析的な側面によってる印象なのに、詩的な要素も苦もなく紛れ込ませる感性も持ち合わせていて、この辺はもう作家の資質によってるんだと思う。わたしには十分すぎるほど欠落してる感性なので、真似しようと思っても出来ない。
この写真集はケルテスが奥さんを亡くした後、アパートの一室で窓から差し込む光の下にオブジェを置いて、その光の様子を撮り続けた写真を集めてる。これらの写真が奥さんを亡くしてしまった後の時間の結晶だということを情報として知ってしまうと、写真に込められた詩情もどこかメランコリックなものに見えてくる。寄り添うような人の形のガラス瓶が被写体として好んで取り上げられてるのも、そんな心情の現われなんだと思う。
タイトルにもあるようにポラロイドの写真だというのも良い。
ポラロイドそのものはもう生産していないけど、今はインポッシブル・プロジェクトがフィルムを作ってる。でもこれはまだまだ未完成品っていう印象で高いお金を払ってまでして使う気がまったくしない。おまけに元のポラロイドとは明らかに画質が違うし、昔のポラロイド写真の持ってた雰囲気は出てこない印象がある。
昔の本家ポラロイドは唯一無比の存在だった。ポラロイドが生産を止めてしまったのは写真にとって本当に大きな損失だと思うし今も嘆く人も多いだろう。でも結局はユーザーが支援しなかった結果だということなんだから、あまり文句も云えないように思える。デパートの閉店セールに群がる客を見て、あんたらが普段やってきて買い物をしないからこんな状態になったんじゃないかと思うのと似た感じかな。
1000円2000円のカメラだったらまだこんなものかとその圧倒的な粗悪感も楽しめるかもしれない。でもこの価格はないと思う。
カメラの出来としてはまだミニじゃないほうのブローニーを使うダイアナFがいい。でもダイアナFも似たようなボックスカメラであるホルガに比べたら、あのホルガでさえもよく出来たカメラに見えるくらいの出来の悪いカメラなんだから、もう言葉もないというか。