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空蝉の木の影 / Anne Sophie Merryman - Mrs. Merryman's Collection

黒い雲が飛ぶ壁





配管の曲がり角






工事展望

2016 / 08
2017 / 07/ 05
Canon Demi EE17 / Olympus Pen EES-2 / Konica EYE
Kodak SG400 / Fuji 業務用400 / Fuji 100

季節が終わるまで毎回書いてそうな気がするけど、とにかく暑い。体の中から溶け出して、汗と一緒に気力も何もかも流れ出ていってしまう。このところ見つめるのは体の中に空虚に空いたからっぽの空間ばかりだ。
周りを埋め尽くす蝉の声を聞きながら、己が空虚を覗き込んでいると、空蝉なんていう言葉が立ち上がってくる。
空蝉っていうのは夏の季語で、もちろん蝉の抜け殻をさす言葉だけど、人の住む世、いうならば現実を表す言葉でもあるらしい。
昔の人はこの現世がからっぽの空虚な世界だと看破していたということなんだろうけど、なかなか侮れない認識だと感心する。
この言葉から木の幹に留まる抜け殻とおそらく世界樹のようなイメージが合わさって、無限の蝉の抜け殻をびっしりと纏わりつかせた巨大な木が頭に浮かんだ。
どこかへと溶け出したからっぽの空間を体の中に抱えて、その空蝉の世界樹の元に佇んでる。夏の暑さにへばりかけてイメージするのはそんな世界。写真に撮れるものなら撮ってみたいところだけどね。

まぁそんなことを云っていても始まらない。からっぽならわたしの中の空っぽの写真を撮り続けるほかないだろう。
先日撮り終えた写ルンですの現像をフォトハウスKに頼みに行った時、ハーフサイズで撮ったフィルムもCDに出来るようになりましたと教えてもらった。今まではハーフサイズのネガは同時プリントをしないなら、インデックスも作れずに家でスキャンするほかなく、36枚撮りで撮っていたら倍の72枚をスキャンしなければなかった。あまり上手くスキャンできないわたしのスキャナーではその作業はストレスかかりまくりだった。だからCDを読み込むだけで全部取り込めるとなると、これは本当に助かる。
で、どんなに便利になるのか体験したくなり、ものは試しにと久しぶりにフィルムを装填するのはハーフカメラにすることに決めた。
フィルムを詰めたのはキヤノンのデミEE17。今回の最初の写真を撮った、そこはかとなく調子の悪いハーフカメラだ。
27枚撮りのフィルムだったので撮れる総数は最低でも54枚。この気分だと全部撮り終えるのにひょっとしたらこの夏中かかるかもしれないと、装填した直後にやっぱり普通のカメラのほうが良かったかなと思ったけど、まぁそれもいいか。暑さにへばりかけて集中できないような時に、あまり考えずに流すように大量に撮るのも空虚さを埋めるリハビリになるかも。

2枚目の写真はちょっと奇妙な触感を狙ったものだった。そして奇妙な、まるで異界からの通信を傍受してしまったような不思議な感触を残す写真が並んでるのが、今回の「Mrs. Merryman's Collection」という写真集だ。

☆ ☆ ☆

Anne Sophie Merrymanが亡くなった祖母であるAnne-Marie Merrymanから受け継いだポストカード・コレクション。一度も会ったことのなかった祖母とそのカードを仲介して邂逅したAnne Sophie Merrymanは、そのポストカードのイメージを編集して一冊の本に仕上げた。1937年から1980年の間にAnne-Marie Merrymanによって集められたポストカード・コレクションにはどことも分からない異国の奇妙なイメージが数多く封印されていた。

メリーマン1

メリーマン2

メリーマン3

といった背景がある写真集なんだけど、この本は策略に満ちてる印象で、こういう成立過程も文字通りに受け取る必要もなさそうな気がする。
それはともかく、ポストカードを集めることで世界を旅してる気分を味わっていた古い時代の女性と、今や何時どこで写したかも分からなくなってるような古びたポストカードという、そういう有様が写真に想像力を広げる余地を生み出してるのが手に取るように伝わってきて、これはとても面白い。
そういう魅力的な背景に乗って展開されるポストカードの写真は、通常思い浮かべる観光地写真の範疇を大いに逸脱して、夢のように風変わりでサイケデリックなイメージで溢れそうになってる。この世界とは明らかにずれを生じているようなその写真群は、時間の彼方から届いてくる、意味の形も取れなくなってるようなかすかな囁きも伴って、まさに異界の扉が開きかけている状況を活写してるようで、目を惹きつけ、心が騒ぐ。
これは本の形で展開してるものだけど、実際に一品ものとしてAnne-Marie Merrymanが所持していたポストカードとそれを詰め込んだ古いトランクも存在していて、まるである種のオブジェ作品のような佇まいで写されてる写真も見たことがある。その圧倒的な事物感はおそらくこの心が騒ぐ感じを増幅して、異界からのささやきもまた本よりも生々しい感覚として迫ってくるんだろうと思うと、この実物も一度見てみたいものだと思う。

メリーマン4

それでこの本、ばらすのも無作法なので何とは云わないまでも全体に策略に満ちているのに加えて、もう一つ物理的な仕掛けがあり、最後の二枚のページが赤い糸で縫い合わされてる。これを解くとちょっと驚くような何かが出てくるらしいんだけど、実はもったいなくてこの赤い糸、未だに解いてない。こんな仕掛けは実際のところ有難迷惑そのもので、わたしの気性としてはこういうのはそのままにしておきたい気分のほうが先に来る。
だからこの糸でとじてある秘密についてはわたしは未だに何なのか分からず謎のままになってる。ここまで放置しておいて期待値をあげた後では、実際に開けてみたら何だこんなものかと思うに決まってるから、今ではなおのこと謎を白日のものに晒せなくなってしまった。













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暑中お見舞い申し上げます

2017暑中見舞い





2017祇園祭1





2017祇園祭2






2017祇園祭3





2017祇園祭4






2017祇園祭6

2017 / 07
祇園祭 室町通
Olympus Pen E-P5

祇園祭でも撮ってこようと思って夕方に出かけた時のもの。ちなみに前回書いた長刀鉾の粽を全力確保する決意のことだけど、決意が結実したのか今年は無事に手中に収めることが出来た。
それにしても暑すぎる毎日に、まだ夏は始まったばかりというのに早くも気力は加速度的に減退して、カメラ持って出かける気になかなかなれなくなってる。ここへ行けばきっと面白い写真が撮れるなんていう予感めいたものがまったく頭に上ってこなくて、ここへ行ってもどうせ大した物も見つからないだろうという思いのほうが先に来る。
今回の写真を撮りにいったのは夕方だったんだけど、撮り歩いてるうちに思ったのは太陽が頭上にある時よりもやっぱり多少は過ごしやすくなってるなっていうことだった。この感じだと昼間は壊滅状態になってる気力が、夜だとなんとか蘇って来る可能性もある。そんなこんなで夏の間は夜の撮影に徹するかなぁなんて思い始めた。実のところフィルムは夜の撮影に弱くて、というか撮れる人には撮れるんだろうけど、自分はとっても苦手で、今までほとんど撮ったことが無い。今回のもフィルムじゃ無理だと、もう最初からデジカメ持参の撮影だった。
でも夜にフィルムも使ってみたいんだなぁ。そういえばこういうことを書いてみて思い出したけど、この室町通を歩いてる時に、二眼レフを構えてる若者を一人見かけた。こんなに暗いところで昼間でも見難いウエストレベルファインダーを覗いていたけど、その有様を見ていて夜の空間をフィルムでも撮れるんだと思った。まぁ本当に撮れたかどうかはあの人に結果を聞いて見なければ分からないけど。
夜をフィルムで撮る、これは今後のちょっとした課題になるかも。

今回の写真はブロドヴィッチ先生に怒られそう。祇園祭を新鮮なイメージで撮る方法を誰かに伝授してもらいたいところだ。










言葉へ、あと数歩 / ALEXEY BRODO-VITCH

玄関の豚






オブジェ展覧会






陸橋公園

2017 / 05
嵯峨野
Zeiss Ikon Ikonta 521/16
Kodak Tri-X

最初のはこの前のと続けてしまうと、動物置物シリーズみたいだ。
陸橋は俯瞰でブランコを撮った場所。この高架下の雰囲気は結構好きだ。

まだまだ続く嵯峨嵐山の写真。別に嵯峨野でなくてもかまわない写真と云ったけれど、でもこういうのも嵯峨野で見たものだし嵯峨野でしか見られないというなら、これもやっぱり嵯峨野でなくてはならなかった写真なのかもしれない。
最近は体感として似たような写真ばかり撮ってるなぁって思う。ハーパーズ・バザーのアートディレクターで知られるアレクセイ・ブロドヴィッチは「何かを見て、前に見たことがあると思うならシャッターを切るな」と云ったそうだけど、まぁなかなか実行するのは難しいにしても、こういう言葉はいつも心のどこかに留め置いておくほうが良いのかもしれない。

それにしても暑い。カメラ持って歩き回る気力がなかなか出てこない。夏のイメージは意外と好きなんだけど、体感する夏はやっぱり大の苦手だ。おまけにこれを書いてる今はまだ梅雨も明けてなくて、鬱陶しさが倍増してる。このところデジカメを持って出てるのは下手にフィルムを入れてしまうと、雨が降り続いたりしたら撮影途中のフィルムがそのままになってしまい、撮り終えられずに現像できない状態が続くと思ったからだったんだけど、デジカメを持って出た結果として、今度は現在撮ってる途中のフィルムもなかなか終わらないなんていうことになってる。
春の終わり頃から時折つれて歩いてる写ルンですは一応あと10枚ほどで撮り終えるところまで来てる。でもそれからがなかなか進まずに最初のほうで何を撮ったのかも忘れてしまった。

さて京都市内は今、祇園祭で盛り上がりつつある。去年、いつも買ってる長刀鉾の粽は、売り切れなんていう出来事に阻止されて手に入れられず、代わりに近くの菊水鉾のを買ってそれは今でも玄関に吊ってある。間に合わせで買ったというと菊水鉾から呪いでもかけられそうだから口が裂けても云わないものの、やっぱりいつもの贔屓の鉾の粽が欲しい。今年はとにかく買い逃したくないということで、今週辺りから長刀鉾の様子伺いを始めた。月曜日に前を通った時はまだ骨組みの下半分を組み立ててる最中で売店の影も形もなかったんだけど、12日には曳き初めのニュースをやっていたから、祭りの準備は始まると急速に形を整えていくようだ。
ついでにといっては何だけど久しぶりに鉾の写真でも撮り歩いてくるかなぁ。どこかで見たような写真ばかりしか撮れなくて、一体わたしの言葉から何を学んだんだとブロドヴィッチに怒られそうだけど。



☆ ☆ ☆


ブロドヴィッチ1

ブロドヴィッチ2

わたしが持ってるブロドヴィッチに関する本だ。どうやら1998年にパリで開催されたブロドヴィッチの展覧会の図録のよう。まぁ安くで見つけて、スタイリッシュな写真が一杯載ってるというので買ってみただけだったので、本の素性までは気にもならなくて調べなかった。だからこれを書くまで展覧会の図録だということは知らなかった。ブロドヴィッチには「BALLET」っていう20世紀の伝説的な写真集があるらしいけど、そっちは未見だ。
レイアウトカンプなども含めて、ブロドヴィッチがアート・ディレクターを務めた紙面が集められてる。分量的にはあまり多くないので見ごたえはそんなにはないかな。使用されてる写真にはアヴェドンだとかマン・レイだとか昔の有名どころが揃い踏みだ。とは云うもののあくまでもブロドヴィッチのアートディレクションの中で扱われてるというだけで各写真家の掘り下げはほとんどなされてないから、写真家についてはどういう写真を主に撮っていた人なのかということさえもこの本からはほとんど伝わっては来ない。反面いろんな写真家の写真がファション的なフィルターをかけられるとどうなるかといったものはそれなりに伝わってくる。
でもファッションに関わる事物の宿命なのか、やっぱりハーパーズ・バザーなどが牽引していた時代の雰囲気のなかにあるっていうようなのが多い気がするなぁ。ここで見られるような雰囲気は嫌いじゃないけどね。









午睡 / ジャン・ボードリヤール 「消滅の技法」

眠りうさぎ





手すりと光窓


2017 / 06
嵯峨野
Olympus Pen E-P5 / Konica Eye
Fuji 100

相も変わらず嵯峨野巡り。といっても観光スポットではほとんど撮ってないから、嵯峨野である必要もあまりなかったりする。
嵯峨野、嵐山と名前はもう観光地そのものの場所だけど、行って見ると意外と観光スポットは少ない。竹林の道や渡月橋の辺り、猿山に近隣の寺社くらいじゃないかな。トロッコ列車に乗ったり保津峡の川下りなんていうのもあるけど、だからといって観光地として多彩な印象になるというほどでもない。
桂川もちょっと広すぎて川縁を歩いても気を引くポイントとかほとんどない。先日試しにあまり人が通っていない右岸のほうを歩いてみたけど、舗装した道と川の反対側である山裾と空を覆うような樹木が続いてるだけだった。対岸から見ると木々のトンネルの中を抜けていくようなイメージにも見えてはいたんだけど、木々は実際にはトンネルというほど空を覆ってない。おまけに桂川を対岸へ渡ろうとすると橋は渡月橋しかなく、両岸の散策路を遠くまで歩いてしまうと、向こう岸に渡りたくてもいちいちこの渡月橋のある場所まで戻ってこなくてはならない。それほど探検しなくてもそのうち桂川では船遊びくらいしかやることがなくなってしまう。
で、思いの外大味な場所なので、そろそろ写真撮る場所を変えようかとも思い始めた。
この前引いた大吉のおみくじによると、吉方は東だということだ。嵐山は京都の西で、真逆の方向ではないかと思い至って愕然とする。でも東と云っても東山の辺りもあまり新鮮な気分で撮れそうもない。ということで思いついたのはさらに東に行って大津辺り、琵琶湖の湖畔はどうだろうということだった。大阪には頻繁に行くんだけど、何故か滋賀のほうには足どころか意識さえも向いたことがない。
水辺の写真とか夏にうってつけのようでもあるし、一度行ってみるかなぁと思い始めてる。

嵯峨野は観光客に混じって歩いてみると広いのに限定された観光スポットしかないなぁっていう印象だけど、一つだけ目に留まった場所で御髪神社って云うのがあった。日本で唯一つ髪の毛の神様の神社だそうで、世の男性には救いの神に見える人も多そうだ。そういう男性のための福音をもたらすべく、珍しいのでここは探検に行ってみたい。観光客の歩くルートとも離れてるし、おそらく人通りはほとんどないと思う。

今回の写真はちょっとクールでしょ。こういう撮り方が細部を捉えるとはあまり思ってはいないんだけど、最近はここという位置からさらに下がって広くフレームで切り取るような撮り方をしていたから、こういう接近戦に近いような撮り方をやったのは久しぶりだった。自分で撮って眺めていて思ったのは余白のとり方といったところかな。イメージの抜き加減というか何もない空間を上手く取り入れるということだった。ずっと昔から思っていたことだけど特に縦構図の場合は日本画なんかが参考になるんじゃないかなぁ。掛け軸とかまさに縦構図の完成形のようなのが多いし。


☆ ☆ ☆


社会学者、思想家であるジャン・ボードリヤールが書いた写真論の本。
消滅1

というか、論というほど筋道だって論理的に何かを解き明かしてる風でもなく、覚書に近い思考の断片が連なって、その断片が照応しつつ、輪郭が浮遊しているような不定形の内容空間を形成してる感じだ。そして本はそういう言葉で綴られてる部分とボードリヤールが実際に自分で撮った写真の二部構成になっていて、写真のほうが全体の三分の二くらいと、文章の分量よりも多い。
この本の言語空間はポストモダン的な立脚点から展開していく写真論とでも言うのか、世界を記述する方法として、従来的な表現する主体のようなものよりも客体のほうに重点を置いた方法を試行して行くような展開になってる。矮小な自己で世界を染め上げるよりも、事物そのものに語らせるべきだというような方向性。

消滅2

もうほとんど冒頭の部分に、写真に撮られるのを望んだのは光景のほうであって、あなたが気に入って撮ったと思っているのは実は勝手な思い違いだと、その光景が演出しているのであって、あなたは単なる端役にしか過ぎないというような一節が目に入ってくる。ちょっと前に書いた荒木経惟の本の中に街が表現してるものを切り取ってくれば良いんだよといった件があって、自分はそういう考え方が気に入ってると云うようなことを書いたけど、こういう考え方とボードリヤールの論調は根を同じにしてるように見える。
主体があるイメージで染め上げて表す世界像といったものとは真逆の世界の記述方法の提案は、カメラという機械が指し示す世界像とは意外なほどしっくりと馴染んでるように見える。カメラのレンズは人の眼よりも冷静で正確で、何の修練もなしに誰でもがシャッターボタンを押すだけで世界を切り取れる。ボードリヤールが語る世界の記述法はこんな道具が一番活躍出来そうな世界でもある。

消滅3

ただね、唯一の欠点はこの本、極めつけに難解なんだな。
客体を中心にすえて、主体や主体が生み出すイメージとの関係などを従来的に受け入れられていたものから様々に読み直し相対化していく思考の集積物のような文章部分は、今回これを紹介しようとまた少し読み直してみたんだけど正直この独特の難解さに辟易してしまった。輪郭線がふわふわと浮遊して形を変えていくようなこの本の言論空間はおそらく云っている内容そのものはそれほど難解でも重厚なものでもないと思うんだけど、なにしろボードリヤールの言葉使いが、言葉の厳密な定義もなしにボードリヤール流とでも云うような使い方をしているために、普通の書物のように内容を理解する方向へはなかなか進めない。使われている言葉に対して自分が理解してる意味を与えてみて、こういうことを云っているんだろうと推論するようにしか読めず、こういう風な意味で使ってるんだろうと推測して与えた意味がボードリヤールがこの本で使ってる意味と同じなのか良く分からないという箇所が多い。
で、本当に理解できてるのかどうか何度読んでも確証が得られないようなテキスト部分の言語空間は、面白いけど頭が痛いという感じで、つまらないから思い切り良く切り捨てるということも出来ない難儀なものとなってるんだけど、それとは別に、というより分量的にはこちらのほうが多くなってる写真の部分、これはテキスト部分とは対照的に難儀な様子もなくてなかなか面白い仕上げになってる。社会学者が書いたから文章がメインの本だと思いがちだけど、分量から見てもこの本は写真集であって、はぐらかされるような文章部分はおまけだと思って読むと意外と得したような気分になれる。掲載されてる写真は自分にとってはわりと気を引くものが多かった。とても素人が撮った写真とは思えない、と書くとこの本の趣旨に反してしまうのでそうは書かないけど、並べられた写真は非常に興味深い。それにこんな風に実際に写真を撮って論の実践してる写真論の本ってそんなにないんじゃないかな。

消滅4

ちなみにボードリヤールのメインフィールドである社会学のほうの著作「シミュラークルとシミュレーション」は映画「マトリックス」の発想の元になった本でもある。





カメラがポストモダン的な機械だというのがよく分かる。もっともそんな面白い機械を手にしても、せっかくの脱主体化に恐れをなして従来の表現領域に取り込もうという人がほとんどだけど。


E-P5は外付けのファインダーと標準のズームをつけて使ってる。外付けのファインダーがかっこ悪い。何でこんな不細工なアクセサリーにしかならなかったんだろう。チルト機能なんかいらないからもっと繊細なデザインにして欲しかった。バルナックライカなんかに乗せる、筒状のミニチュア望遠鏡のようなファインダーに比べると、あまりのダサさに目の眩む思いだ。






真昼の光の中、垣間見えるもの / Simple Use Film Camera かっこいいひねくれカメラ

嵯峨野川縁1






嵯峨野川縁2






嵯峨野チョコレート八つ橋





嵯峨野鏡台

「森で木が倒れるとき、その音を聞くものがいなかったら、そもそも音はするのか」
ロバート・J・ソウヤーのSFミステリ「ゴールデン・フリース」に出てきた一節。移民宇宙船の航行途上で船内のコンピュータが乗員に対して殺人を犯す話で、語り手を当の犯人のコンピュータが勤める形の倒叙タイプのミステリだ。犯人は最初からコンピュータだと分かっていて、船内のすべての情報を犯人であるコンピュータが制御している中で、探偵役の主人公がどうやって真相に迫っていくのかが読ませどころとなる。今のところ半分ちょっとすぎくらいまで読んだけど、ミステリとしての出来はいまひとつ、真相を巡ってのコンピュータとの騙し合いのような展開にはなってない。どうやらコンピュータが犯した犯罪の動機にとんでもないものが用意されてるようで、この辺りの意外性でミステリ的な興味のすべてを納得させようというような趣向らしい。
まぁそれはともかく、こういうお話のなかに上の一節が出てきた。設問としては形を変えていろんなところで見るような類のものかもしれない。物語のほうの主人公はこの問いかけに対してYesという答えだったけど、わたしはどちらかというとそんな音は存在しないと考える。
シュレーディンガーの猫っぽい世界のほうが流動的で面白いと思うほうだし、誰が聞いていようがどうしようが、そんなこと関係なく音がするというような世界は固定的で静的すぎて退屈だろう。観察者の存在によって世界は始めて固定化される。観察されない世界はYesもNoも重なり合ったどちらともつかないものとしてある。それは一体どんな世界なんだと想像すれば眩暈を起こしそうなほど不思議な世界となるだろう。
何かね、ゴールデン・フリースのこの件を読んでるときに写真のことを思い合わせてた。写真も対象と対峙し見ることで目の前にあるものとそっくり重なってはいるものの何か新しいものを生成させ引き出して一枚の絵を作ってるんじゃないか。観察すること徹底的に見ることで垣間見えてくるものがあると信じるから写真機を持って街に出かけようとしてるんじゃないか。
観察されなければ、徹底的に見られなければ存在を顕現しようとはしない何か。そんなのが、それだけとはいわないけれど写真を撮る有力な動機、対象になるんだろう。
逆に世界には未だに観察されない、徹底的に見られなかった何かが層を作ってそこらじゅうを埋め尽くしてるなんて考えると、世界は発見されていない宝の山の中にあるとも考えられて、何だか楽しくなってくる。

嵯峨野で撮ってはいても観光地には立ち寄る気にはなかなかなれない。と云っても一応はその辺りまで足を伸ばしはするんだけど結局シャッターを切らずに戻ってくるっていうような撮り方をしてる。せっかくだから竹林の道なんていうところも行ってはみるんだけど、ちっとも写そうという気分になれない。
で、嵯峨野に行っては特に嵯峨野でなくても良いような街の写真ばかり撮ってきてるんだけど、撮ってきた自分の写真を眺めてるとやっぱりこういう普通に見える場所を撮る時には審美眼のようなものを問われてるんだろうなぁと思うこともある。

少し顔をのぞかせているものっていうのも気を引く対象かも。その向こうに何かここからは見えない世界があるって言うような予感、そういう含みがあるのが何だか楽しい。

嵯峨野玉葱祭
2017 / 06
嵯峨野
Nikon F100 / Olympus Pen EES-2
Fui業務用400



☆ ☆ ☆


最近こういうカメラを買った。

ロモシンプルユースフィルムカメラ1

ロモシンプルユースフィルムカメラ2
今すぐには使わないからまだ封は切ってないけど、ロモが発売したレンズ付きフィルム。要するにロモ版の「写ルンです」だ。黒地にオレンジのロゴがパンキッシュで、無茶苦茶かっこ良く見えて衝動買いしてしまった。アナログマッドネスなんていうフレーズもいい。モノクロはこういう外観なのに、カラーフィルムが入ったほうはボディに色が入ってこれほどかっこよくはなかったので、あくまでもこのモノクロタイプのがお気に入りだ。
もう一つ好奇心を刺激されたのは写ルンです同等のものとして発売されながら、フィルムの入れ替えが出来るようになってるということ。よくシンプルなカメラを写ルンですのように使えるとか表現したりすることがあるけど、これは写ルンですのように使える写ルンですそっくりのカメラといったところか。フィルム交換が出来るレンズ付きフィルムってかなりひねくれた存在で面白い。
一応フィルムの交換は感電注意の但し書きつきで自己責任ということになってるけど、やり方はロモのページに堂々と紹介してあった。

Simple Use Film Camera (レンズ付きフィルム) 詳細な使い方をご紹介

今のところアマゾン、ヤフー、楽天と、どこを覗いても扱ってないようで、ヨドバシカメラなんかにもおいてなかったから、結局ロモのウェブショップで注文することになった。送料が高くてここで買うのは嫌だったんだけどなぁ。アマゾンに置いてくれないかな。
ロモのショップでは結構売れてるようで頻繁に入荷待ちになってる。

ちなみに写ルンですのほうは一台、10枚ちょっと撮って、今撮影の真っ最中だ。ここにきて雨の日が続いてるから、濡れても気にならないカメラは持って出るにはちょうど良い。







ソウヤーのSFって昔読んだときは凄い面白い印象があったんだけど、今読んでる気分は、あれ?思ってたほど面白くないっていうのが正直なところかなぁ。これもミステリ風の発端で一応ミステリとして進んでは行くんだけど、半分すぎても主人公はコンピュータを疑うことすらしないで探偵らしい行動に向かわないし、犯人のコンピュータが好き放題にやってるだけの展開が続いてる。しかも動機は完全に隠されてるから、一体何がやりたいのかさっぱりわからないままに、犯人であるコンピュータの行動を見物させれらることとなる。謎を小出しにし、ところどころでひっくり返して驚かせつつ、興味をひっぱっていくようなところもほとんどない。J・P・ホーガンの「星を継ぐもの」辺りの強烈なミステリ趣向を期待してると、完全に肩透かしを食らうと思う。
元々倒叙ものが好きじゃないっていうのもあると思う。最初から犯人がわかってるってもうそれだけで読む気力の半分くらいは失ってるもの。