FC2ブログ

誰そ彼

夕闇の琵琶湖汽船






夕闇の路面電車






夕闇の水面反射






夕闇の街灯

2917 / 08
2017 / 09 浜大津
Fuji Natura Classica
Fuji Natura1600

ちょっと浜大津で写真撮るのに飽きてきたなぁ。一応何か珍しいものでもあるかなと、この前の大津京とは反対の、なぎさ通り沿いを東に向けて膳所を過ぎた辺りまで歩いてはみたけれど、膳所や近江大橋の辺りまではほんとうに湖岸ラインが続くだけでもはや港ですらなく船も停泊してないし、時折遊覧船ミシガンが立ち寄る桟橋が湖岸の途中に取ってつけたようにあるだけ。他はもう広がる湖面と釣りをしてる人が散見されるだけって言う印象の空間が、果てしなく伸びてるという感じになってくる。散歩やウォーキングには良いところなのかもしれないけどカメラを持ってやってくるには、これがもう本当に意外なほど似合わない場所だったりする。
湖岸から離れて街中に下りてみるとなぎさ通りと湖岸道路の間の、林立するでもなく所在無げな空き地を挟んで建つ大きなビル群とだだっ広い道路の作り出す妙に閑散として寂れた空間の様子にちょっと気を引かれるところがあるものの、試しに写真に撮ってみようとファインダーを覗いてみても、その閑散とした荒涼さが何故か四角く区切られた視界の中には現れてこずに、ただ無個性で見るところもなさそうな灰色のビルが建ってるだけのイメージとなって、シャッターを切るところまではなかなかいかない。
住宅地のほうに足を向けても視線が引っかかるものもなく、というか視線にかかるものは大抵どこかで視線が引っかかったことがあるような空間ばかりで、結局大量の時間をただ歩き回って疲れるだけという、どうにもぱっとしない日々が続いてる。
大体いつも何だって被写体になると嘯いてるし、撮る人によっては道端のゴミでさえかっこいい写真になったりするのに、最近はそういう視点をどこかに置き忘れてきたような気分になってる。夏の暑い日々の、一体どこで置き忘れてきたんだろう。


今回の写真は云ってみるなら夕暮れ写真。でも自分で撮ってみるとセンチメンタルな雰囲気にもならずに、やっぱり随分とドライな写真になるなぁ。
日が暮れかけるのを待って撮ろうとしたんだけど、待ってみるとこれがなかなか夕暮れになってくれず、まず街灯がなかなかついてくれない。その後ようやく街灯が点灯し初めたのを切っ掛けに、まだ暮れるのには間があった頃合だったけれど痺れを切らしてシャッターを切ってしまった。ちっとも神秘的な光にならないと思いつつシャッターを切り始めたものだから枚数もあまり撮れなくて、早々と駅までの帰り道を辿ることになった。
浜大津の湖岸からJRの大津駅まで多少は歩かなければならない上り坂の大通りがある。あれだけまだかまだかと暮れていくのを待ったあげくいい加減に飽きてしまって帰ってきたのに、この帰り道の大通りの途中であっという間に辺りは暗くなり始め、ついさっき湖岸ではあれほど痺れを切らしていたのに、駅についた頃にはまったくの夜の闇と化していた。湖岸でもうちょっと日が沈むのを待ったほうが良かったかと思っても、もう遅かった。昼間だって写真撮ってると気づくんだけど、太陽の動きは思いのほか早く、見てる間に影も移動していく。動く気配のないものでもタイミング的なところはあるってことだ。

とそんな風に書いてみても、絶好のタイミング以外は絶対に駄目だというようなところも自分にはあまりないと思う。
スポットライトのようにドラマチックに足元を照らすに違いないと思っていた街灯は灯ってみるとそんな素振りさえ見せずに、明かりそのものもまだ明るすぎる薄明の中で灯ってるのかどうかさえもはっきりとは写ってくれず、路面電車の顔の一部は電柱の陰に隠れてる。それでもまぁ、それもその瞬間のわたしの眼の前にあった世界の様相であったことには変わりない。

どこで目にしたのか誰が云ったのか記憶にないんだけど、世界にはこれから撮られるはずのすべての写真が埋まってる。写真を撮るっていうのはそうやって世界に無限に埋め込まれた、これから撮られることを待ってる写真の一枚を引き出してくることだといった内容のことを読んだことがある。この考え方は結構好きなところがあって発言者が誰だったのかは忘れてしまったのに内容だけは妙に記憶に残ってる。
駄作も傑作もない、あるのは世界中に満ちた、無限に存在する中から引き出した一枚しかない写真だけだという考え方だと思う。そしてこういうのを頭の片隅においておくと、上のほうで書いたような迷いからも抜け出して、ひょっとしたらシャッターを押し込む指も軽くなっていくかもしれないと思わせるところがある。




スポンサーサイト

灰の中の線と形象 / 映画「パンドラム」

線と形象1





線と形象2





線と形象3





線と形象4

2017 / 09
大津港
Fuji Natura Classica
Fuji Natura 1600


浜大津から大津京まで歩いた日、ホテル裏の遊歩道から出られた港の岸壁から。ここまで歩いたのが切っ掛けで、この後、前の記事に書いたように二駅分サンダルで歩くことになった。地図によると、関係者立ち入り禁止の柵で囲まれた大津港マリーナという区画の北西方向にあって、琵琶湖浜大津港となってる。大きさでいうとなんだかこのマリーナの付け足しのような規模の港なんだけど、こんな名前がついてるところから見るとこっちが本来的な港なのかな。
曇り空のグレー一色の空間の中に線と形象が浮かび上がってる様子を撮ろうと思ってシャッターを切ったようなことを書いたけど、これがまぁその思惑を現像した結果だ。
なんというか、水墨画的なものに色目を使ってるような、あるいは日本画っぽい印象がどこかに漂ってるような、そういうところが自分としては面白い。日本画的というなら、背景をぼかして主題を際立たせるとかまるで関心もない、平面的であることへの志向というのかな、今回に限らず自分の写真にはいつもそういう要素があるように思ってるんだけど、こういうのは、絵画が持つ立体を平面に落とし込む特質を対象化するような事柄に興味があるからなんだろうと思う。
大体いつもよく書いてることで分かるように、写真が絵画的なモチーフでイメージを作ることは毛嫌いしていて、写真なら絵画の振りなんかせずに写真でしか出来ないことをやってみようよという立ち位置なのに、構造的には結構な絵画志向というようなものが自分の中にはある気がする。絵画への構造的な志向と云っても構図とか絵画的なイメージを組み立てるための方法論のようなものはある程度のところでどうでも良いと思ってるほうで、それはそういう方向じゃなく、こういう平面に対する志向みたいな形で出てきてるように思える。
それにしても、ナチュラ1600はやっぱり良い色に出てるなぁ。曇り空の中で眠くてあまり気を引く色彩でもなかったのに、フィルムに写しこんでみるとくすんだ淡い色の特質を思う存分発揮してるというかな。白い色の出方が繊細なニュアンス一杯で気に入ってる。

☆ ☆ ☆

久しぶりに映画のお話。
最近「パンドラム」という結構拾い物の映画を見た。ジャンルはSFスリラーっていうところ。
SFスリラーといえば今現在は「エイリアン・コヴェナント」辺りだろうけど、こっちのほうはエイリアンを見に来てる人は本当にこんな話が見たいのか?なんていぶかしく思うくらい宗教的で思わせぶりな内容に終始する駄作続きなのに反して、エイリアンの種はむしろこっちのほうに植え付けられたんじゃないかと思えるくらいの、まぁB級ではあるんだけど、とても面白く見られた映画だった。
6万人のコールドスリープ状態の移民を乗せて、はるか彼方の別惑星への宇宙の長い旅に出た蒔種船エリジウムのなかで、主人公がコールドスリープから目覚めるところから物語は始まる。ところが強制的に目覚めさせられたものの、なぜか宇宙船内は大半が電気が落ちていて真っ暗なまま、他の乗員はコールドスリープ中の上官一人を残して消えうせていた。主人公はコールドスリープの副作用で記憶の大半を失ってしまってる。やがて主人公同様に睡眠から無理やり目覚めさせられた上官とともに、この宇宙船のなかで一体何が起こったのか調べるために、上官の無線によるナビゲートを元に闇が淀む巨大な宇宙船内の探検を始めるといった内容。これだけでも面白そうでしょ。
特に前半の暗い船内をたった一人でケミカルライト一本を頼りに進んでいくところの恐怖感はエイリアンが本来与えてくれたはずの感覚そのものだったと思う。こっちも途中から化け物が出てきて、まぁこの最初の恐怖感はあまり感じなくなってくるんだけど、その代わりというか、眠っていた間に宇宙船で一体何が起こったのかという謎で後半は引っ張りまわされることとなる。結末はかなり意外なものが用意されていて、実は物語の途中にところどころで微妙に齟齬を感じる部分があり、それがこのラストへの伏線になっていたんだけど、おそらく初見でこういうのに気付く人はあまりいないんじゃないかと思う。
閉塞感たっぷりの宇宙船の中での暗闇の恐怖に、謎の化け物に襲われるサバイバルアクション、そして全編を覆う謎と思い切り意外な真相。こういうのを上手くさばいて目一杯エンタテインメントの形で綺麗に着地させた小気味良い映画だった。製作は駄目なほうのポール・アンダーソンだったんだけど、ちょっと見直してしまった。








日本公開時には残念ながらヒットしなかったそうだ。まぁこのタイトルじゃよほど興味を持った人しか見に行かなかったのも当然だと思う。




円と戯れ / Mort Garson - Ode to an African Violet

展望台1





丸窓





展望台へ途上





ゲートライト





展望台へ

2017 / 09
浜大津
Fuji Natura Classica
Fuji Natura 1600

浜大津の琵琶湖汽船の発着場。屋上の展望台へ上がる途中と、京阪浜大津駅近くの陸橋へ上り下りするエレベーターの乗り場から。琵琶湖汽船の展望台へ上っていくところは、目にして一瞬で気を惹かれ、これはシャッターを切らないとと思った場所だった。
円や球といった形に惹かれる。自然界に普通にありながら、誰かの意思が介在してるとしか思えない完璧な均整を保ってる、云うならばその中に容易く宇宙を内包しうる神秘の形態だ。
話は写真とはちょっと離れるけど、球体関節人形が好きなのも、この関節に埋め込まれてる球体の形がことのほか魅力的に見えるからで、球体関節人形はこの球体のおかげでその体の内側に完璧な宇宙を内包してると思ってる。この完璧な宇宙そのものの関節の球体に、大抵の球体関節人形にはゴムを通すためのスリットが開けてあって、実はこのスリットが見えるとわたしとしては人形のうちにあった関節の抽象性が一気に失われて、ただの関節を駆動させるための機構に過ぎないものにしか見えなくなってくる。このスリットだけで人形そのものが興ざめになってしまうわけだ。
ところが恋月姫の作る球体関節人形には、今はどうか知らないけど、わたしが興味を持って眺めていた頃のものには、この関節の球体にスリットが入っていなかった。これが結構な謎だったんだなぁ。あれでどうやって稼動する関節を実現させてるんだろうって。そしてこれは今も分からないままだ。一度2004年頃に京都三条のART ZOONで、「月の神殿」と題された恋月姫の人形の展覧会があって、その時にそれまで写真集でしか見たことがなかった人形の実物を見た。その展覧会では腕をつけてない状態でシーンを作っていた人形があったんだけど、それをを見ても結局この球体の秘密は解けなかったのが記憶に残ってる。
展覧会で見た人形は思いのほか小さく華奢で細部の細工が繊細きわまっていたのが印象的だった。秘密を知りたければ一体買えば良いというものだろうけど、作家性が極めて強く、美術品の如くオーナーに名前を連ねてしまうような代物なので、きっと高いだろうなぁ。
そしてもう一つ、窓を通してみる行為も好き。この場合丸い窓だからさらに魅力はアップしてる。窓を通して、ある区切られた領域として目の前に現れる空間は区切られ選ばれることでなにかその場にしかないような特別なものを纏い始める。窓を離れて眺めると、その特別な何かは夢から醒めたかのようにあっという間に霧散してしまって、目の前の空間はごくありきたりの日常としてそこに転がっているだけのものへと立ち返る。
似たようなものだと演劇の舞台、映画のスクリーン、そしてカメラのファインダーなんかが挙げられるかな。この三つは暗闇に縁取られてまた位相が異なった現れ方をするけど、基本は窓から眺める行為と通底してるように思う。窓に囲まれて目の前に現れるこの世界と明らかに切り離された何かがあるのを覗き見る。その覗き見る行為はどこか冷たく暗い欲望に裏打ちされてるような感情を伴ってる。ある種見る事のいかがわしさのようなものなのかもしれないけど、視覚が持つそういういかがわしさは、少なくともわたしにとっては魅力的に見えたりする。

☆ ☆ ☆

フジフィルムが出していたカメラ、ナチュラクラシカとそれ専用のフィルムのような印象だったナチュラ1600の組み合わせは結構お気に入りの雰囲気に絵を仕上げてくれる。最近この組み合わせにちょっとはまり気味で、撮り終えてはまたこのフィルムを買い足して連続で使い続けてる。
全体にざらついた粒子感も好きだし、若干スミが入ったような色合いも良い。でもこの色の感じ、家のスキャナーで読み取っても全然こんな感じに読み取ってくれない、もうこの色の感じを引き出すにはお店頼りになってしまって、このフィルムを使った時は店でデータCD化してもらうのが常となってしまった。
しかしこのところのお気に入りで気分よく使ってるのに、あろうことかフジフィルムはこの魅力的なナチュラ1600をどうやら来年で生産終了させるつもりらしい。これは本当にがっかり。これでカメラも含めてナチュラ関係のものは全滅することになる。こうなるとまだ売ってるうちに一杯使っておこうと思ってるけど、いつか復活すると良いなぁ。

☆ ☆ ☆

Mort Garson - Ode to an African Violet

シンセサイザー黎明期のサイケデリック・エレクトロ・ポップという感じか。植物と植物を愛する人のための、温かいアース・ミュージックという副題がついて、ヒーリング・ミュージックのような体裁をとっているものの、どこかモンド感の漂うサイケデリックな雰囲気がある。もとはマットレスのプロモーション用に作られたものらしいんだけど、そんな限定された用途を容易に超えていくものがあるように思えるなぁ。
1976年のアナログシンセのチープな音が曲想を盛り上げて、なんだか儚くおぼろげな美しい音空間を作ってるのが心地良い。




リンクを収得しようとして商品ページをみてみれば、あなたはこの商品を○○年に買いましたとあったので、自分のはアマゾンで買ったんだったと思い出した。それにしても今は無茶苦茶な値段の中古しか出品されてないなぁ。自分のはストラップが切れて一度地面に落としてるし、外側もちょっと塗装がはがれたり傷ついてきたりしてるから、もう一台予備に欲しいんだけど、またフジフィルムが新品で販売してくれないかな。







漂光 / William Basinski - Watermusic II

びわ湖大津館1





浮遊する光





落下する光






幕間

2017 / 08
びわ湖大津館 / 大津京 / 浜大津
Olympus Pen E-P3 / Canon Demi EE17
Fuji Premium 400

びわ湖大津館の中で撮っていた写真と街中、そして大津港の商業施設。
薄暗い館の中はデジのほうが撮りやすいと思ってフィルムカメラは使わなかった。でも使っていてやっぱりデジカメはあまり面白くない。操作のすべてが、その結果に対してそうなって当たり前という感覚しか呼び起こさないし、上手く撮れたものも手酷い失敗をしたものも等しく大した手ごたえもなくて、奇跡が起きそうな予感なんてまるで訪れてこない。他のものなら手軽で便利で高性能なのはすべてにおいて優位に立つと思えるけれど、こと写真に関してはそうは話は簡単ではないようだ。あとで、別の建物だったんだけど似たような光の状況でナチュラクラシカを使ったら、感度1600のフィルムを装填していたこともあって、特に破綻なく撮れてた。だからびわ湖大津館も、明るいレンズと高感度のフィルムを使えば、この程度なら撮れていたと思う。こう考えると残念なような気もするけど、もう一度フィルムで撮り直しに行くかといえば、手もつけられないほど失敗したわけでもないので、そこまでする気にもなれないというのが本音なところかもしれない。
それにしても窓から差し込んでくるような間接光とか、どうして美しいと思ってしまうのかなぁ。その感覚的な根拠のようなものを探ってみても、個人的なものへと還元できるようなものじゃないというところまでは辿れても、意外となぜこういうものに惹かれるのか根本的な部分で分からないところがある。なせ差し込む間接光のようなものに惹かれるのか、ということについての写真とか撮れると結構面白いかも、なんて思った。

☆ ☆ ☆

琵琶湖畔で夏の中ごろから写真を撮り続けている最初の拠点は大津京だった。そしてその後浜大津の大津港辺りが増えて今のところ拠点は二箇所となってる。
この二箇所、同じ側の琵琶湖湖畔の、陸地側にゆるやかな弧を描いてやや入り込んでる部分の両端に位置して、それなりに距離を置いてはいるんだけど、お互いの場所からそれぞれ離れた場所にあるもう一つの場所を湖面を挟んで見ることが出来る。大津京のびわ湖大津館がある柳が崎湖畔公園、ついでにいうと遊覧船ミシガンが停泊する桟橋もある場所なんだけど、最初にそこから湖面の向こうを眺めた時は小さく林立するビルが見える場所というだけだったのが、その向こう側に見えていた浜大津側に立ってみると、どういう施設が見えていたのか理解でき、また最初に降り立ってこちら側を眺めていたびわ湖大津館の周辺も小さくではあるけど区別できるのに気づくと、お互いに向こう側に見えるものが何か分かるようになって、視界に入る空間が具体性を帯びてくることとなった。
ちょっとね、二つの場所が具体的なものとして把握できてくると、どちらからでもいいけど向こう側まで歩いてみようかと思い始めたんだな。でも思いついたはいいものの、地図で見るとこのくらいなら歩けそうという感じにも見える一方、歩くにはちょっと遠すぎるようにも見える結構判断のつきにくい距離に見えた。
浜大津と大津京の間は京阪の今時珍しい路面電車が走っていて、浜大津から行くと、三井寺、別所、そしてJR大津京駅に隣接する皇子山駅と、間に二つの駅を経由する距離感となる。一度この路面電車に乗ってみて、三井寺まではかなり近かった以外、そこから先は皇子山まで普通に駅間を移動するような感覚だった。ローカルの路面電車はその土地の生活空間に入り込んだような雰囲気もあり、妙に旅情があって面白い。でもこれを歩くとなるとやっぱりいろいろと微妙かなというのが正直なところだった。
そんなこんなでこの程度ならそんなに苦にせずに歩けるんじゃないかと思いつつも、暑いさなかにそんなことをするのは嫌だと思うところもあって躊躇いが続いていたんだけど、数日前にちょっとした気まぐれで躊躇いを押しのけて歩いてみることとなった。
きっかけは浜大津の港で、遊覧船ミシガンの発着場である琵琶湖汽船の乗り場の北西側に広がってる船が集まってる部分が、関係者以外立ち入り禁止になっていて、これじゃ港っぽい写真が撮れないと、その先に入れるところがないかさらに歩いていったことだった。
長々と柵で囲まれた立ち入り禁止の区域を過ぎるとホテルらしいビルの裏側が遊歩道のようになって港の縁に出られるところに出くわした。様子を窺うとホテル専用でもなく、ここから短距離ではあったけどどうやら港の縁を巡ることができそうだった。やったと思って、ようやくそこで柵に邪魔されずに写真を撮りつつさらに歩いていったら、どうも琵琶湖疏水の開始地点のような、川の入り江に似たところに導かれて、遊歩道はそこで行き止まりになっていた。
そこからは先に進めずに、もう一度ここへ入ってきたところまで戻り、湖岸に沿った大通りに出てから写真を撮るためにいろいろ脇道にちょっかいを出しながらも行き止まりになっていた辺りまで進んで見ると、そこは思ったとおり琵琶湖疏水の開始地点だった。
琵琶湖疏水は京阪の路面電車の三井寺駅の脇を通っていたはずだから、港で写真が撮れる場所がないかと歩き回ってるうちに駅一つ分歩いてきたということになる。
こうなるとあと駅二つ分くらいなら歩けるんじゃないかと思いついて、その道をさらに先へと進んでみることにした。道はその先で湖岸に沿って湾曲し、その部分を越えて直線状になったところまで出てくると、先のほうにイオンの看板が小さく見えているのに気づいた。あれはおそらく大津京にあったイオンセレクトの建物だ。そう思うと何だか目標が目の前に現れたみたいで、気分はもうこのまま進んでみるほかなくなってしまった。やがて湖岸の琵琶湖競艇場の長い施設の脇を通り過ぎ、左手少し離れたところに皇子山競技場を眺めて歩き続けて、茶が崎を超えて少し行った辺りで、大津京で歩き回って見慣れていた場所にたどり着いた。それまで点としてしか存在しなかった場所が線として繋がっていくのは単純に面白い。こんな場所へと繋がっていたんだという感覚は探検家が新大陸を発見したような気分を想起させる。
それなりに猛暑は収まって普通に行動してるなら汗もほとんどかかないような気候になっていたし、気分的には予想していたほど距離があったとも思わなかったんだけど、それでも体感していた以上の運動量だったのか、この時はたどり着いた時点で結構汗ばんでいた。おまけにサンダルなんかで長時間歩くものじゃないと、その足腰の疲れように、これは家に帰ってから痛感した。
結局この日は途中から向こうに小さく見えるイオンの看板にたどり着くのが目的になってしまって、琵琶湖疏水に行き当たった辺りからあまり写真を撮れなかった。でもこの琵琶湖疏水の辺りはまた足を伸ばして写真を撮ってみたいと思ってる。
この日見つけた港の汀で、曇り空の中、水中から突き出た杭や張られたロープが水面に反射して、グレー一色となった空間に浮かんでるような抽象的なイメージに夢中になって写真を撮っていたんだけど、この曇り空の港で目にしたものがグレーの中の線と形象に還元された空間として上手く写真に撮れてるかどうか、暫くフィルムを取り出せないので期待は宙吊りになったままとなる。

☆ ☆ ☆

William Basinski - Watermusic II

BGM風にこういう音楽を置いてみた。水辺で撮ってる写真なので、と云っても今回のは直接水は写ってはいないけど、タイトルは一応写真とは照応してる。
聴く側の事情など一切無視してドラマチックな起伏もまるでなく、でもある一定レベルで持続する美しさが存在する。そしてただそれだけしか存在しない。
この端正な音的イメージを視覚的に展開してみたいところだ。バシンスキー自身が自らの音楽に映像をつけたビデオを作製してるけど、わたしが感応してるのはああいうイメージでもないんだなぁ。



それにしてもこれが、この調子で一時間近く続くというんだから、付き合う側も大変だ。


眞晝の汀への旅

海上警察





連鎖波頭





湖畔の古びたビル





桟橋

2017 / 08
浜大津 / 大津京
Canon Demi EE17
Fuji Premium 400

最初のは、遠くから見ると汀の広々とした空間をどこか引き立てる雰囲気を纏っている建物という感じで、これはちょっと写真に撮っておかないとと思いながら近寄ってみると、なんと予想外に警察の建物だった。海じゃないから海上じゃなくて水上警察とでも言うのかな。近寄って眺めてるとパトロールに出かけるのか、琵琶湖に開いた裏手のドックから警備艇らしい船がタイミングよく出航していった。
二枚目のは何枚か波頭を撮った中で一番波に見えなかったもの。半透明のゼリーのチューブみたいだ。
古い建物に気を惹かれて撮った写真は、古い建物の雰囲気とはちょっとずらして撮ってみようと思ってシャッターを切った。そして最後はオーソドックスな桟橋のスナップ。

この夏撮ってる写真を眺めてみれば、暑さに辟易しながらそれでも撮りに出かけないと何も始まらないと思って、なんだか意に反して動こうとしない体をむりやり押し出してるようなところがやっぱりどこかに見られるというか、これが撮りたかったという強い意志もなく撮ってるせいか、雑然とした仕上がりになってる写真が多い。ブログにどれを載せようか選ぼうとしても、この夏の写真は決まらないことが多くなってる。
暑さに加えて撮ろうと思えるものを探す注意力も散漫になり、今までに見たこともないような感覚を覚えさせるからというよりも、そのはるか手前でこういうものを撮れば絵になる可能性が高いと前もって理解してるものへと注意は焦点を合わせようとする。いろいろとごちゃごちゃとフレームの中に現れてくるものは魅力的な混沌を形作るでもなく、意識の注視点を見失った雑然としたものとしか現れようとはしない。
目の前の空間と回路を繋げない。繋げると思ってファインダーを覗いてみても、確信は解きほぐされてまさしく炎天下に放り出された氷の欠片のように溶け出していってしまう。こういうのが今夏に撮ってる自分の写真の総体的な印象だ。

それに湖岸ってそう何日も通って写真撮る場所でもないのかなと思い始めてる。水平線の写真なんて、どう変化付ければ良いのか皆目見当がつかない。

この前の記事のタイトル、「真昼」を後で「眞晝」に変えようと思って忘れてた。難しいほうの漢字を使ってかっこつけてるのはどちらかというとダサいと思うほうだし、写真を写眞なんて書くのは極力避けるのに、この場合は「眞晝」のほうが良い。でもこういう旧字体、PCで上手く表示されるかな。
タイトルの元ネタは辻邦生の小説。もう忘れ去られた作家扱いの人なんだろうか。