2017/09/30
誰そ彼
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2917 / 08
2017 / 09 浜大津
Fuji Natura Classica
Fuji Natura1600
ちょっと浜大津で写真撮るのに飽きてきたなぁ。一応何か珍しいものでもあるかなと、この前の大津京とは反対の、なぎさ通り沿いを東に向けて膳所を過ぎた辺りまで歩いてはみたけれど、膳所や近江大橋の辺りまではほんとうに湖岸ラインが続くだけでもはや港ですらなく船も停泊してないし、時折遊覧船ミシガンが立ち寄る桟橋が湖岸の途中に取ってつけたようにあるだけ。他はもう広がる湖面と釣りをしてる人が散見されるだけって言う印象の空間が、果てしなく伸びてるという感じになってくる。散歩やウォーキングには良いところなのかもしれないけどカメラを持ってやってくるには、これがもう本当に意外なほど似合わない場所だったりする。
湖岸から離れて街中に下りてみるとなぎさ通りと湖岸道路の間の、林立するでもなく所在無げな空き地を挟んで建つ大きなビル群とだだっ広い道路の作り出す妙に閑散として寂れた空間の様子にちょっと気を引かれるところがあるものの、試しに写真に撮ってみようとファインダーを覗いてみても、その閑散とした荒涼さが何故か四角く区切られた視界の中には現れてこずに、ただ無個性で見るところもなさそうな灰色のビルが建ってるだけのイメージとなって、シャッターを切るところまではなかなかいかない。
住宅地のほうに足を向けても視線が引っかかるものもなく、というか視線にかかるものは大抵どこかで視線が引っかかったことがあるような空間ばかりで、結局大量の時間をただ歩き回って疲れるだけという、どうにもぱっとしない日々が続いてる。
大体いつも何だって被写体になると嘯いてるし、撮る人によっては道端のゴミでさえかっこいい写真になったりするのに、最近はそういう視点をどこかに置き忘れてきたような気分になってる。夏の暑い日々の、一体どこで置き忘れてきたんだろう。
今回の写真は云ってみるなら夕暮れ写真。でも自分で撮ってみるとセンチメンタルな雰囲気にもならずに、やっぱり随分とドライな写真になるなぁ。
日が暮れかけるのを待って撮ろうとしたんだけど、待ってみるとこれがなかなか夕暮れになってくれず、まず街灯がなかなかついてくれない。その後ようやく街灯が点灯し初めたのを切っ掛けに、まだ暮れるのには間があった頃合だったけれど痺れを切らしてシャッターを切ってしまった。ちっとも神秘的な光にならないと思いつつシャッターを切り始めたものだから枚数もあまり撮れなくて、早々と駅までの帰り道を辿ることになった。
浜大津の湖岸からJRの大津駅まで多少は歩かなければならない上り坂の大通りがある。あれだけまだかまだかと暮れていくのを待ったあげくいい加減に飽きてしまって帰ってきたのに、この帰り道の大通りの途中であっという間に辺りは暗くなり始め、ついさっき湖岸ではあれほど痺れを切らしていたのに、駅についた頃にはまったくの夜の闇と化していた。湖岸でもうちょっと日が沈むのを待ったほうが良かったかと思っても、もう遅かった。昼間だって写真撮ってると気づくんだけど、太陽の動きは思いのほか早く、見てる間に影も移動していく。動く気配のないものでもタイミング的なところはあるってことだ。
とそんな風に書いてみても、絶好のタイミング以外は絶対に駄目だというようなところも自分にはあまりないと思う。
スポットライトのようにドラマチックに足元を照らすに違いないと思っていた街灯は灯ってみるとそんな素振りさえ見せずに、明かりそのものもまだ明るすぎる薄明の中で灯ってるのかどうかさえもはっきりとは写ってくれず、路面電車の顔の一部は電柱の陰に隠れてる。それでもまぁ、それもその瞬間のわたしの眼の前にあった世界の様相であったことには変わりない。
どこで目にしたのか誰が云ったのか記憶にないんだけど、世界にはこれから撮られるはずのすべての写真が埋まってる。写真を撮るっていうのはそうやって世界に無限に埋め込まれた、これから撮られることを待ってる写真の一枚を引き出してくることだといった内容のことを読んだことがある。この考え方は結構好きなところがあって発言者が誰だったのかは忘れてしまったのに内容だけは妙に記憶に残ってる。
駄作も傑作もない、あるのは世界中に満ちた、無限に存在する中から引き出した一枚しかない写真だけだという考え方だと思う。そしてこういうのを頭の片隅においておくと、上のほうで書いたような迷いからも抜け出して、ひょっとしたらシャッターを押し込む指も軽くなっていくかもしれないと思わせるところがある。