穴の底の叢 / The hotel upstairs

穴の底の叢






叢の穴





錆色の枝





異界福助

2016 / 06 七条
2017 / 08 浜大津
2014 / 01 七条
2015 / 11
写ルンです / Fuji Natura Classica / FlashFujica / GoldenHalf
Fuji Natura1600 / Lomography Colornegative 400 / Fuji Superia Premium 400

二枚目の写真はたそがれ写真を撮っていた時のもの。あと一、二枚撮れば明日現像に出せるという状態で、フィルムを使いきろうと残りのコマを適当に撮ったものの一枚だ。単純に叢の丸いライトを撮ってみたものだったけど、出来上がったのを見てるうちにまるで写真の真ん中に白い穴が開いてるみたいと思い始めて、そんな風に見え始めるとこれほど適当に撮った写真もなかったんだけど、何だか意味ありげで面白くなってきた。今回のタイトルの「穴」はそんなところから思いついた。
あとはそのキーワードを自分の中で拡張してみて、何だか遠いところで合ってそうなものを選んでみた。三枚目のはまぁカウンター的なイメージで挟み込んでる。この鳥が留まった木の先っちょの写真はちょっと昔に撮ったんだけど、よくある雰囲気写真風で、こんな撮り方をしてたんだと自分では懐かしい。
一枚目のようにコントラストの浅いイメージは、メリハリの効いたイメージが好きな自分としてはどうしようもない出来のもの扱いだった。でも最近ちょっと好みが変わったというか広がったというか、こういう存在感の希薄な茫洋とした方向も狙ってみても面白いかなと思ってる。あるかないか分からないくらいにまで希薄化された何かの痕跡。そういうのは一般的にいえば失敗写真なんだろうけど。

☆ ☆ ☆

アップステア1
アップステア2
アップステア3

サンフランシスコのノースビーチにあるビルの上層部を利用した安ホテル、コロンバス・ホテルに住む住人の生きる形を、住人の生活の中にある事物を通して構築しようとした写真集。写真家は藤部明子という女性だけど、詳しくは良く知らない。よく知らないというわりにもう一冊、「memoraphilia」という写真集も持っていて、これで結果的にこの人の写真集は全部所持する形になってる。こんなことを書いてしまうと、よく知らないくせに結構なファンなのかと思われそうでもある。もっとも「memoraphilia」のほうは記憶の構造にでも分け入っていくような写真集なのかと思ったら、単純に過去に関わりがあった知人との交流がメインの私的な写真が集められてるものであって、期待は大きく外れるものだった。
まぁそれはともかく、この安ホテルを舞台にした写真集、登場する人たちの中には当然のことながら裕福な人などいるわけでもなく単純に見た目で判断したなら貧乏な人ばかり。でも裕福でもなさそうなのに何故かどの住人の部屋も生活に必要そうでもない雑多なオブジェで溢れかえってる。そして写真家はそのオブジェの奔流のような場所に身を浸しながらもひたすら個々のオブジェを拾い出すように写真として定着させていく。なんというか連想で汚部屋のようなものを思い浮かべるかもしれないけど、この写真集にあふれる事物は捨てるのが面倒臭くて溜まっていったものとは根本的に性格が違う。他人にはどうでもいいと思えるような事物もその住人にとってはその部屋においておかなければならない何かがある、そんなオブジェの堆積物だ。
写真集を開くとそういう部屋一杯のオブジェたちがどこか混沌としたものを孕む秩序として目に入ってくる。混沌はオブジェ群が持ち主本人だけの独自の基準で並べられてることからやってくるようで、この意味を持って雑然とした空間を成している様がなかなか面白い。
それにしても、わたしも結構物を溜め込んでしまって、すっきり整然と整理されたクールな空間とかとはまるで縁がないほうなので、こういう風に部屋の空間が形作られていくのは凄くよく分かるほうだったりする。そして人の周りに増え続けていく事物を通して見えるものこそがその人の生きていることそのものじゃないかとも思えてくる。
この写真集を観ていて良いと思ったのは決して貧困問題のような方向へと持っていこうとしてないこと。このホテルの住人、関わった人すべての生き方を尊重しようとしていること、そして結果的に積み重なった事物の形の中にその人の生きている形を見せようとはしてるけど、基本的にはオブジェへの関心に徹底して写真を撮ろうとしてることだった。

写真集は単純に写真を並べたものではなくて、ホテルの住人へのインタビューだとか、写真を撮影したその後の住人の消息などが挟み込まれて、文章量は少ないものの読める部分もあわせて多層的な楽しみ方が出来る仕上がりになってる。

それにしても貧民窟のような場所でも、ホテルというだけで壁の塗装のはがれ具合までも何だかお洒落に見えてきてしまうのはどうしたことなんだろう。正直このホテルに自分も住んでみたいと思ったくらいだ。










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It's A Beautiful Summer Day / You're so cool! - True Romance

小寺医院への道





灰の中の線 大津港






輝く夏の光

2017 / 10 墨染
2017 / 09 浜大津
2017 / 09
Fuji Natura Classica
Fuji Natura 1600

今回はごたごたと面倒くさいことは書かない。単刀直入ストレートなタイトルで。でもごたごたと考えて撮ってるものも基本的にはこういうことをいつも心に置いてシャッターを切ろうとしてる。
それにしてもあれだけ不快な夏の暑さで今年は特にへばってたのに、もう簡単お手軽なカメラしか持って出る気になれすに、そんな軽くて負担にならないカメラでも凶悪な暑さに歩き回る気力を奪われて早々に退散していたのに、いざタイトルをつけるとしたら気分としてはこういうタイトルになるんだなぁ。
そういえば去年の夏の終わりにも「さらば夏の光」なんて感傷的なタイトルをつけてその年の夏に見た光景を記事にしてた。夏真っ盛りの不快さは思い出の中の夏となると一気にどこかに吹き飛んでしまうようで、夏のイメージはいつも甘美なものとして記憶に積もり続けるのかもしれない。

最初のはいつも通ってる医院へ行く道の途中の曲がり角。もう何時だって眺めてる場所なんだけどこの時はちょっと視線が引っかかったような気がして写真を撮ってみた。シャッターを切った直後に、しまった、来年終了のフィルムの一コマを無駄に使ったかと若干後悔したんだけど、現像が仕上がってみれば意外と見栄えがする結果となってる。視線が引っかかった何かがここには写しこまれてる。
二枚目のはツィッターに載せた写真。眺めてると何かこれも良いんじゃないかと思い初めてこっちにも載せてみることにした。「灰の中の線と形象」で載せなかったものの一枚だ。
最後のは琵琶湖疏水の入り口付近にあった船着場。まさしく晩夏の光の場所。

☆ ☆ ☆

それにしても雨が降り続く。合間に一,二日曇りの日があった程度で、もう一週間以上降ってるんじゃないかなぁ。写真撮らずに過ごす時間が積もり続けて、何を見てどんな風に感じて写真を撮っていたのか忘れそうになってる。日を置いてもスイッチが入るように撮影モードに入れる人もいるのかもしれないけど、わたしはどうもそのタイプじゃなくて、日頃絶え間なくシャッターを切っていないと道を見失いそうになるタイプのようだ。

☆ ☆ ☆

You're so cool! - True Romance

雰囲気は懐かしい輝きに満ちた夏の日。トニー・スコット監督の映画「トゥルー・ロマンス」で使われたハンス・ジマーの曲だ。タイトルバックに流れた後、コールガールのパトリシア・アークエットがクリスチャン・スレーターに、アパートの屋上で告白するシーンで再登場、一途で本当に可愛らしいヒロインの告白を盛り上げる。この辺り、まだ物語の序盤なのにシーンの良さと音楽の良さで何かもう早くも心掴まれて、感情を揺すぶられる。





来年の3月で製造終了となるフィルム。使うなら今のうちだ。まぁ売れ行き具合で終了になったんだと思うけど、終了とアナウンスされたとたんにこういうのは品薄になったりする。買占め状態なんてならないで欲しいなぁ。





隙間構造体 / Jim Jones at Botany Bay

フェンス越しの家





隙間すべり台





見えないストライプ

2017 / 06 嵯峨野
2017 / 07 嵯峨野
2017 / 05 木屋町
Olympus Pen EES-2 / 写ルンです / Konica EYE
Fuji 業務用400 / Fuji 100

隙間構造体とは何かと問われても、返答に困る。なにしろ写真見て思いついた言葉に過ぎないのだから適当といえばこれほど適当なことはない。でも適当に繋げた単語で出来上がった言葉が、それまでに存在さえしていなかった新たな何かを出現させるかもしれないという可能性はある。言葉があるゆえに存在が可能になったもの。そういうものがあったとしたらそれはそれで面白い。

今回のはある種の目隠し写真だ。感覚的には覗き穴の暗い欲望的感覚の変種って云うところもあるかもしれない。
見えないことへの考察と云ってみたいところだけど、そんなに云ってしまうと何だか物凄く大層な写真のようにも見えてくる。実際には今回のはそんなに大層なものじゃない。それでも写真が徹底して見えることに対する何らかの感覚的な考察であるとするなら、その裏側には必ず対になる見えないことという何かが寄り添っているようにも思う。
まぁこんな持って回ったような言い方をしなくても、単純に隠れてる部分があると想像力が働く余地が生まれてくるっていうことだ。今回のはあからさまに隠してる部分があるんだけど、こんな風に露骨に目隠しが入ってなくても、空間的にも感覚的にもどこか見せないところがある写真は、全部見せてしまう、全部説明しきってしまうような写真よりは、そういう余地が生まれて幾分かは面白くなるんじゃないかなと思う。

一方で自分の感覚の中には、写っているものしか写っていないというような、事物主義というか、表層に留まり続ける写真も結構好きだという部分もある。こういうのと隠匿された何かを予感させる写真の二つがわたしの中で共存するのは矛盾のような気もするんだけど、これ、考えてみたら両方とも「謎」というキーワードで括れそうな気もする。写ってるものしか写っていない、写ってるものがすべてという、写真が内に孕むことを当たり前に期待してしまうようなものが見当たらないことへの謎と、隠されてる何かを予感させる、云うならば付加されてるものの謎とでも云うのかな。方向がプラスマイナスの逆のほうを向いてるだけで根は謎めいているということで一致してるんじゃないかと思う。
とまぁこんなことを考えてると、やっぱり全部を説明しようとする写真が一番あからさまで白茶けていて面白くないという結論へ落ち着いていくことになりそうだ。

で、こんなことを云った口の根も乾かないうちに書いてしまうんだけど、今回の写真の「説明」だ。
最初のは嵯峨野の路地を歩いてる時に傍らのフェンス越しに撮ったもの。フェンスの向こうの細部を失った空間が気に入ってシャッターを切った。でもわざわざ嵯峨野なんかに行ってまでして撮るようなものでもないなぁ。二枚目は以前載せたブランコに乗ってる子供を俯瞰で撮った写真と同じ場所。最後のは木屋町の路地にかけてあった案内板で、おそらく廃業した店の案内だけが残っているんだと思う。偶然見えてる赤い色が上手い具合にアクセントになってる。


Jim Jones at Botany Bay - scene from The Hateful Eight

タランティーノ監督の映画「ヘイトフル・エイト」の途中で出てくる歌。西部劇にいかにもな雰囲気を添える曲で、音楽のクレジットにエンニオ・モリコーネの名前があるからこの人の曲だと思ってたら、実際はニュージーランドの古いフォークソングなんだそうだ。
もう早弾き自慢のギターとは対極の位置にあるような素朴なギターにのせて、これは出演してる女優ジェニファー・ジェイソン・リー本人が歌ってるんだけど、なかなか味のある歌に仕上がってる。ちなみにこの女優さんはあのヴィック・モローの娘だ。
映画はタランティーノの撮った西部劇ミステリなんていう紹介のされ方をしたらしい。確かに後半毒薬をコーヒーに仕込んだのは誰かという謎を中心に進みはするけど、でも紹介とは裏腹にその辺はミステリ好きを満足させるほどには展開しないで血飛沫飛び散る別方向へ進んでいく。映画そのものも膨大な台詞の応酬とかいかにもこの人の映画っていう感じなところもあるものの、会話の話題の中心が南北戦争のことだったりしてどうも馴染めずに、どこかから回りしてる印象のほうが強い。
それよりも髭面のカート・ラッセルが吹雪で閉ざされた山小屋の中でライフルを持って立ってる雰囲気なんかまるで「遊星からの物体X」で、なんだか「物体X」へのオマージュ映画なのかなんて思ったりした。手洗いが小屋からはかなり離れたところにあって、夜の暗い猛吹雪の中その間をロープで道を作ってるところなんか、画面の感じそのものがまるで「遊星からの物体X」以外のなにものでもないって云う感じだった。









1/B1 ☆ 映画「プリデスティネーション」

1/B1





包囲されたバイク







柵と色

2017 / 08
大津京 / 浜大津
Fuji Natura Classica / Olympus Pen E-P3
Fuji Natura 1600

まだまだ続く大津写真♡
なにしろ7月くらいから今に至るまでここでしか写真撮ってないし。今年の夏はカメラ持ったらとにかくJRで10分ほどの京都にとっては手頃なリゾート地に足繁く通ってた。大吉おみくじの東が良いよという吉方のお告げに従っての場所選択だったけど、本当に琵琶湖湖岸は吉方だったのか、東でももっと違う方向だったんじゃないかと、とにかくここで撮った写真ばかりを前にして変化に富んだ選択をできるかと頭を悩ましながら思ってる。それに夏の開始を皮切りに頭の中に琵琶湖湖岸が勢いよく流れ込んできてスイッチが切り替わったために、ここに通いだす直前に撮っていた写真がかなり綺麗に頭から弾き飛ばされてしまってる。先日そういえば琵琶湖に来る前に何撮ってたんだかと見直してみて初めて、ああこういうのを撮ってたんだと思い出す始末。この頃、嵯峨野で写真撮っていた後のおそらく梅雨の間とその直前くらいに撮っていたものはほとんどブログには出してない。涼しくなってきたらこの弾き飛ばされた方面にちょっと接続しなおしたほうが良いかななんて思ったりしてる。

1/B1なんてタイトルに書いてみて、要するにこれはあるものとあるものの狭間のことだと思い至ると、境界域だとか現実世界に開く異界の入り口だとか、見えるものと見えないものの接線だとか、こういうのって写真に撮ってみたいもののひとつだし、なんだか写真のタイトルにもぴったりなんじゃないかと思えてきた。
今回のは歪な感じっていうのかな。最後のは自分では特にそんな感じがする。おそらく構図的にはもっとおさまりの良い位置があるのかもしれないけど、構図的に収まりきったイメージとかあまり面白いと思わないほうで、どこか崩れて不安定なほうが見ていて落ち着かなくて面白い。大体構図とか結局のところ他律であって、他人が良いと判断したものの総計にしか過ぎない。そんなもので絵を作って面白いのか。この写真は構図が良いですねなんて云われたら、あなたの感覚で組み立てたところなんてどこにもないと言われてるようなもので、本当は怒らなければならないんじゃないかなんてことも思ったりする。


☆ ☆ ☆

Predestination トレーラー


またまた映画の話。
ロバート・A・ハインラインの小説「輪廻の蛇」が原作と知って、よくもまぁこんな小説を映画にしようと思ったものだと興味がわいた映画だった。
元の小説はタイムトラベルを扱った結構短い短編小説で、タイムパラドックスの思考実験のような話。原因から結果へと流れていくこの世界の理の関節をすべて脱臼させてみたらどういう世界が出現するかといった内容で、出口のない迷路に入り込んでしまったような袋小路の論理が生み出していく悪夢の世界を体験できるお話だった。わたしが読んだのは大昔の話で「輪廻の蛇」は長い間絶版になっていたようだ。それがこの映画のリリースが切っ掛けで再版されたらしくて、これは映画の好影響の一つだったと思う。

理詰めの部分を全部放棄して、理由は分からないけどこんなに奇妙な世界が出現するって言うポイントだけで作ればかなりの妄想映画になったかもしれない。でもここではそういう方向をとらずにあくまでも迷宮を彷徨う論理の筋道を辿って映画の世界を作ってる。この脱臼した論理の世界を頭の中で考えてみると何だか脳みその表面がチリチリとざわめいてくるような感じがして止むことがなく、そういう感覚はこの映画の作り方のほうが上手く表現できていたんじゃないかと思う。

で、この映画、こんな事情で映画の表面的なストーリーでさえも書けるようなものじゃない。一応連続爆弾魔の犯行を防ぐために時間を縦横無尽に駆け巡るって云うストーリーにはなってるんだけど、爆弾魔の話って結局のところタイムトラベルを発生させパラドックスを生起させるための切っ掛けに使われてるに過ぎなくて、あくまでも映画の目的は、一体どこが始まりなんだ、一体どこが終わりなんだと、この脳みそがざわめく感覚を生み出すことだったと思う。
しかも物語の中盤手前くらいまでほとんど登場人物二人の会話劇のような様相を帯びてるのも意表をついて面白い。
時空エージェントであるイーサン・ホークが70年代のとあるバーでバーテンに身をやつしてる時、バーにやってきたしょぼくれた中年男に面白い話を聞かせてくれたらビールをおごるという約束で二人の会話が始まる。中年男は自分がまだ少女だった頃、と前置いて身の上話を始める。
もうこの、自分が少女だった頃なんていうフレーズだけで、その会話劇に引き込まれること間違いなしだと思う。

ハインラインには「夏への扉」っていうタイムトラベルテーマの、こちらは長編の小説がある。「輪廻の蛇」のように異様な話じゃなくてもっと読みやすいし、なによりもこの小説には本筋とはあまり関わらないのがちょっと残念だけど、家の扉のどれかが夏に通じてると信じて、冬になると夏への扉を探し始める愛すべき猫ピートが出てくる。映画にするにはこっちのほうがずっと相応しいように思うのに、ハインラインの小説は「輪廻の蛇」以外に「宇宙の戦士」が「スターシップ・トゥルーパーズ」なんて云うのに姿を変えて映画になったのが一般的に目につくくらいで、これはなぜか今までに一度も映画になったことがない。