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浅い夢 / 夢の書物

浅い夢の夕暮れ





窓辺の人





ポスター





光る自販機





組紐生物
2018 / 02 小倉
2015 / 10 近所
CONTAX T3 / Olympus Pen E-P5
Fuji 業務用400

以前小椋の干拓池跡で疎らに鉄塔が建つだけの地平線と逆光が零れ不安に広がる雲を撮った写真を載せたことがあって、その時は確かジオヤーさんだったと思うけど、まるで夢の中で見た光景のようだといったコメントを貰ったことがあった。ジオヤーさん最近ご無沙汰だけど元気にしてるかな。で、この雲の写真を眺めていてそんなことを思い出し、これもまた浅くまどろむ夢の中でいつか訪れたに違いない場所だと思って、こういう纏め方にしてみた次第。他の写真もどこかそういう雰囲気を持ってるように思うものを選んできてる。ただ内在させてるイメージ空間の輪郭がはっきりとしてるせいか、浅い夢の中でかすかに覚えてるような茫洋とした質感はあまり感じられない写真だとは思うけど。逆に目に写るイメージがはっきりと輪郭を持っていてもその内在させてるイメージ空間は茫洋としてつかみどころがない触感を持ってるっていうのもあるとは思うし、狙うならそういうもののほうが含みが多いものになりそうな気がする。他人が語る夢の話が好きだ。夢と云っても将来何になりたいとかそういう類の夢じゃなくて、まどろむ中で垣間見てしまうような類の夢、じっとりと汗ばんでくる微熱を伴ってさ迷い歩いてるような、ふらふらと息苦しくて地に足がつかない、奇妙で夢魔的な空間や、意味へと届きそうで届かない断片的な物語。そういうのを聞いたり読んだりすると、獏とした不安、見てはいけないものを見てしまったかもしれないという薄気味悪い後味、毛穴がざわめくような感じといったものを享受できたりする。他人の夢なんか関わりが持てるような繋がりがまるでない、所詮他人事の最たるものだと思う人もいるだろうけど、わたしは積極的に関係が持てる。こういう感覚において他人の夢の話には興味深い繋がりを持ちえることがある。まさにシュルレアリスム的な興味だろうと思う。他人の夢を垣間見るという観点で、わたしの好きな書物が何点かある。たとえば赤瀬川原平の「夢泥棒」たとえばつげ義春の「つげ義春と僕」といったもの。これは本当に睡眠時に見た生々しい夢の記録を纏めてある。赤瀬川原平のほうは何しろもう一つの顔が画家なわけだから、文章と絵を総動員して見た夢の視覚的な再現伝達には半端じゃない労力を費やしてるようだ。つげ義春のほうはこの書物に収められた一つが夢に関するものだった。こちらは後に漫画作品へと姿を変えていったものもあって、生々しい夢からどうやって作品へと形を整えていったか窺い知れるところもあるのが興味深い。アンリ・ミショーは夢とはちょっと違うかもしれないけど、メスカリンやLSDを服用してどういう世界を垣間見ることが出来るか自分の体を実験台にして記述していった書物だ。「荒れ騒ぐ無限」というタイトルが本当にかっこいい。ただこれは相当ぶっ飛んだ人体実験の内容なのに、医師の監視の下とはいえ危険な薬の力を使って精神の、脳髄の未知の領域へと踏み込んでいく話なのに、そんなに云うほどぞくぞくしなかった記憶がある。まぁ読んだのは大昔のことなので今読み返してみるとまた違った印象を持つかもしれないけど。夢といえば大御所の内田百間の掌編夢魔小説やその師匠たる漱石の、怪談として秀逸な第三夜を含む「夢十夜」なんかもある。見渡してみれば夢そのものを扱い多方面に枝を張った巨大複合分野なんていうのが成立しているようで、夢というのは興味の対象としては古臭いようでもいつも気になる結構大きな存在なんだろう。











ちなみに漱石の「夢十夜」は青空文庫にあった。




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青い光

テニスコートの隅で





点と線





犬と橋






草木の地






陸橋を潜る

2015 / 04 山科
Nikon FM3A / Konica Big mini F / Fuji Tiara
Fuji Provia100 / Kodak SuperGold 400 / Fuji C200

2015年、桜を撮りに春の山科疎水の辺りを歩いていた頃に撮った写真。去年の夏大津へ行くのにJRの山科駅を通過する時、電車はこの小高いところを流れる疎水の縁と展望台の一部が見える山裾を回り込むように通って、そのたびにそういえば最近ここへは降りてないなぁと思ってた。それにしても撮ってからしばらく経ってるのに写真を見ればこの辺りを歩いていたのがまるで昨日のことのような思い出せる。こういうのは小難しいことを考えて撮ろうがどうしようが、やっぱり写真の大きな効用のひとつだろう。今回はどうやって纏めようか思いつかずに放置していた写真を集めてみた。最初の写真は撮った時からこの色合いで頭の中にインプットされた写真だった。一応今回の代表としてこの写真から青い光なんてタイトルにしてみたけど、これは青じゃないといえば青でもない微妙な色だなぁ。ましてや光じゃなくて壁の色だろうなんていうことは口が裂けても云わない。光といえば最近ソニーのデジカメのCMでネイチャーフォトグラファーとか云う人が出てきてやたらと光がどうしたこうしたとかっこつけてカメラ構えてる姿を背景にして云ってるのを見たけど、写真撮ってる人がこういうことを云ってしまうのは傍から見て陳腐だなぁと思った。写真撮っていればそんなことは当たり前のことなのに、当たり前のことをいかにもドラマチックに大層に云うのはどちらかと言うとかっこ悪い、とこれは自分に向けての感想でもあったりする。二枚目のはこれはちょっと極端かと思って出しそびれていたもの。でも極端化と曖昧化は表現の有力な手法だと信じてる。私事であまり自分の時間が取れない、しかもストレスかかり放題の環境になってしまって、時間の隙間を作ってはたまにカメラ持って出かけても気分的に写真を撮れなくなりつつある。そのうえ撮影行為には迷いばかりが増大してそういう気分を増幅しようとしてくる。時間のほうは仕方ないにしてもこういう時は立ち戻るべき写真といったものが、色々な外圧がその陰のうちに隠してしまおうとするもの、忘れそうになってる何かをもう一度手元に呼び起こす役に立つんじゃないかと思う。そういうものを自分の捉われてしまった枠組みを外れて自分が影響を受けた外部の写真に求めるなら、自分にとっては今だとスティーブン・ショア辺りか。ローライ35を片手にアメリカを広く旅して、目についたもの建物ウィンドウディスプレイテレビ地平線ホテルでの食事汚れた便器出会った人などをとにかくひたすらに撮り続けて纏めたAmerican Surfaces。コダックの現像袋を模したカバーに入れてあるというギミックも楽しいこの写真集が砂漠に染み入る水のようにわたしの皮膚を通して今のわたしに親和性を呼び起こしてくる。ローライ35という、云ってみるなら写りのいいお手軽コンパクトカメラで手当たり次第に、でもそういうことをやること自体がコンセプチュアルな行為ではあるんだけど、それでも見たものをとにかく切り取っていく撮影行為は小難しいことを考えがちな時には引き返してくる道をいつも暗示してくれるように思う。ただいつも書いてることだけど、どんな撮影行為をとるにしても最終的には美しい写真として完結させること、それはポップアートやサイケデリックなどを横断した眼にはたとえ退屈さや奇矯なものに積極的に裏打ちされてはいても明確な美意識として存在するものなんだけど、American Surfacesは、あるいはスティーブン・ショアの写真はこういう部分をいつもきっちりと足固めしてるような写真として眼に映る。ただそのことによって自分にとってはスティーブン・ショアの写真は立ち戻るべき写真の姿の一つでありながら回りは登り難い壁で固められてるような印象ではある。