線分収集家 The Line Collector / 哀歌

奇妙な配線ライン





蔦の跡





水辺の扉





十字通路

2018 / 02 伏見
2016 / 06 心斎橋
2017 / 09 浜大津
Minolta Capios 160A / Nikon Coolpix S9700 / Fuji NaturaClassica
Lomo400 / Natura1600

写真をみていて思いついたタイトルだけど、世界中のあらゆる線をコレクションしてる人が本当にいたら面白いだろうなぁ。直線から曲線から異様に折れ曲がった線からぐるぐると回りこんだ線と、ありとあらゆる線を収集して線で世界を定義しようとする人。きっと頭の中には幾何学的幻想が渦巻いてるに違いないと思う。ちょっと思い出したのがクーロンズゲートの妄人街。あの掛け軸の絵のなかの仙人の頭の中に存在する、物や観念にとりつかれてしまって、そのことだけを延々と考え続けることで人外へと踏み出してしまった人の集まる奇妙な空間。鍵穴に取り付かれて鍵穴のことばかり考えてるうちに自分が鍵穴になってしまった鍵穴男のように線分収集家も頭の中の幾何学的幻想によって異形へと変化していきそうだ。やっぱりちょっと間抜けで逸脱感のある、コクトーの線描のような最初の写真が自分としては面白い。ちなみに使ったミノルタのコンパクトカメラは姉からの貰い物。極めて音の静かなカメラで撮った本人にもシャッターが下りたかどうか分からないくらいだ。このおかげで周囲の注意をあまり引かずに写真が撮れる。画質もミノルタでまるで問題なし。今ではフィルムカメラ好きの間でもまるで話題にも上らない、数あるファミリーカメラの一つ扱いだけれど、結構な掘り出し物かもしれないと思い始めてる。この前のに続いて今回も日本の哀歌二曲。最初のは由紀さおり姉妹で次のは加藤登紀子が歌ってる。ちなみに加藤登紀子のほうは満州里小唄が入っていたレコードに集録されていた。どうも昔からわたしには、この二曲は似たような曲としてセットで頭の中に入ってるようなところがある。冷静に聴いてみると全然違う曲なのに何故なんだろう。七里ヶ浜のほうは逗子開成中学校の生徒十二人がボートの事故で亡くなったことを悼み記録に残そうとした歌。これは亡くなった子供の関係者でなければまったくの他人事なのに、表現が結構一般的、共有できるような形になってるから近しい存在を亡くした経験でもあれば問答無用で泣けてくる。琵琶湖のほうは最後の歌詞に七里ヶ浜と似たような箇所があるものの、全体的には旅情というか、放浪、さすらいの浪漫的な側面を歌ったものだろう。それにしても去年の夏琵琶湖に入り浸ってたのにこの歌はまるで頭の中に流れなかった。今度行ったらこの歌が耳元に蘇ってくるだろうか。


○ 七里ヶ浜の哀歌
Youtubeへ飛びます。

○ 琵琶湖周航の歌












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2018年冬、小倉。Let it Be / 満州里小唄

数列ソファ





夕闇停車場





ルーフ





駐車場





待合
2017 / 12
2018 / 01
写ルンです / Fuji Cardia Travel Mini DUAL-P

2018年、冬の小倉、去年の暮れから捕らわれ滞留を余儀なくされてる場所で。わたし個人に直接関係してくるわけでもないのが幸いなところではあるけど、この生と死が対峙してる場所で足を取られてると写真もまたすべてを飲み込んで逃れようもなく収斂していくこの場所から出られなくなっていく。で、足掻いてみるわけだ。今回の写真はそういう足掻きが色々と見え隠れするようなものになってると自分には見えてくる。そういう場所では捕らわれ淀んでいく状況そのものをあるがままに写し取っていけばいい、淡々と日記でもつけるようにシャッターを切っていけば良いとは思うものの、なかなか達観できない。満州里小唄はこの加藤登紀子のLPに入っていたのを聴いてから好きになった歌だ。歌手本人は左翼の化身のような人でわたしにはまるで賛同できない人種に属するけど、こんな歌を歌ってる部分ではそんなことは関係なくなる。でもあえてこういう戦時下の古い歌を選んでレコードにしたことには、わたしが気づいてないだけで何か左翼的なイデオロギーでもくっついていたんだろうか。気づかせない時点で例え左翼的イデオロギーが入っていたとしても大失敗に終わってるといえそうではあるけど。この加藤登紀子バージョンは今までまるで見つからなかったんだけど、こんなタイトルにしてれば検索には引っかからないわなぁ。検索に引っかかってくるのは知床旅情だとかこういう感じの歌ばかり歌ってるような印象の森繁久彌のもの。それと意外なのはこの歌がジャイアント馬場の愛唱歌だったことか。探せばジャイアント馬場が歌っているのも聴くことができて、あのこもった声は相変わらずだけど愛唱歌だけあって歌いなれてるのか歌は思った以上に上手い。


最後の一節だけが唐突に短調になるのが解せない。明日の望みへと思いを繋ぐ良い部分なのに雰囲気台無し。戦時中のものに明日へと繋がる希望なんかを語らせないと、陰気に転調して台無しにしてやると、これがひょっとして左翼的イデオロギーのささやかな発露なのか。










極私的

近未来的支柱





ボールと縄






青い壁画





回転橋






茫洋とした何か
2017 / 05
Diana Mini
Kodak Tri-X

誰かと共有するつもりもないような極私的な視線。形を成すかなさないかの境界で揺らぐイメージにすらならないイメージ。視線の外周をかすめすぎていく何か。そしてそういう何かを捉えるために焦点をずらす眼と世界。世界は無意味だと、そういう主張をするほどにも意味を持たない、無意味な事物の繋がり渡る集積。後で見て言葉になるのはそんなところなのかもしれないけど、これは本当に後付けで云ってるだけで、撮っている間そんなことを考えてるわけでもないと思う。ぼんやりとした視線ほとんど具体的な事物が目に入らないような半眼で眺める世界の、その世界に茫洋と分け入っていく視線の隅に垣間見えたように思った何か得体の知れないもの。自分ではそういうものの痕跡気配をフィルムの感光面に封じ込めるためにシャッターを切りたいと思っていつもカメラを携えて歩き回ってはいるものの、出来上がる写真の中に見えるものはすべてわたしにとってはいつの間にか既知となったものばかり。期待するのもむなしく得体の知れないものなどどこにも写ってはいない。こういう眼の定めで歩いていると後ろからクラクションを鳴らされるのは常態となってしまって、これは気をつけていないと、とことあるごとに冷やりとして我にかえる。先日四条の十字屋に入ってみて、今はここは一階がカフェ、地下一階が以前の十字屋の面影を少し残す雑貨ショップと成り果てていて、音楽のオーラもほとんどなくなってしまった場所に化してはいたんだけど、まぁそれはともかく何とまぁ様変わりしてしまったものだと思いつつ店内を歩いてる時に目についた12インチのEPレコードのジャケットがあった。エマーソン北村と言うミュージシャンのレコードだったんだけど、ジャケットの写真はどう見てもサブカル狙いの、怪しげで尖がった感性を見せびらかしてるようでどこか薄っぺらい底が見えてるようなものだった。でもこのジャケットでどんな音がおさまってるのかちょっと興味が出てきて帰ってからYoutubeで探してみたら、出てきたのがこういうものだった。



十字屋でみたレコードに入ってるものでもなさそうだったけど、意外と音は、こういうものにありがちなモンドミュージックっぽいところも希薄で、ふわふわした優しげなラウンジミュージックのような雰囲気。このある種気持ちのいい音の連鎖はあのジャケットで妙な期待を抱いてしまうと肩透かしをくらいそうだ。ちなみに十字屋でみたジャケットはこういうものだった。



最近ちょっと音楽づいてる。ウクレレなんていうのを衝動買いしてしまった。これでストレンジャー・イン・パラダイスだとか、リバー・オブ・ノーリターンだとか、好きな曲を弾けるようになりたいな。




もうほとんど最初から壊れてるといってもいいような破綻カメラ。一台で真四角フォーマットとハーフサイズが、フィルムを入れ替えずに撮影途中で切り替えられるなんていう、妙に豪華な仕様になってるのがまるで不釣合いにみえる。