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中空図鑑

白衣





落下するパイプ





中空の靴






宙に止まるメーター





煙煙突





逆さ漏斗ビル

2016 / 09 / 木屋町
2016 / 11 / 裏寺
2016 / 09 / 河原町
2016 / 12 / 仏光寺
2014 / 03 / 中書島
Nikon Coolpix S9700 / Nikon F100 / Nikon F3
Fuji 業務用400 / Ilford XP2 Super

撮れない撮れないと云いつつ先日ハーフカメラに装填したフィルムは予想に反して早くも全部撮り終えてしまった。通常の倍撮れるカメラだったから当分付き合うことになるだろうって書いたのに撮りきるのは意外に早かった。去年の秋にホルガに装填したリバーサルフィルムは先日現像から上がってきてたし、気分はまるで撮れないという穴倉の中にはまり込んだまま、さらに拘束された時空の真っ只中にいるわりに、その条件化で写真を撮っていく何らかのリズムでも掴んだのだろうか。大した写真ではないのかもしれないけどシャッターを押す指に力を込めることが続けられてるだけでもいいのかもしれない。ホルガなんていうのを、マイケル・ケンナが愛用してると聞いて、ある意味トイカメラ的に手垢がついたイメージのままに先日までまた使ってみていた。ホルガを使っていたからなのか、真四角フォーマットが最近は何だか新鮮だ。いや新鮮というよりも苦手意識が薄れたとでも云うほうが正確かもしれない。なにしろどんなレンズを使っても画角は狭くるしいし、フレームの中のどこに被写体を置いてもすべてそれなりに様にはなるんだけどここが一番決まってるというポイントが存在しないように見えるそのニュートラルな性質が戸惑わせて止まないフレームだったのが、決め決めの写真を撮ってやろうなんていう下世話な野心から少し離れてみると、その決まってるのか決まってないのか良く分からないけど妙に収まって見えるような性質が面白くなってきた。といっても面白くなってきたからといってまたいきなりハッセルなんか持ち出すのも大層だし、まぁそのままホルガを使い続けても良いんだけど、次のスクエアフォーマットは久しぶりにイコンタでも引っ張り出してこようかな。それはともかく露出のコントロールが出来ないホルガへ露出にシビアなリバーサルフィルムを入れるなんていうことをやってみた結果は意外と写ってるっていうものだった。室内でフラッシュを焚いたはずなのにまるで写ってないコマがひとコマあったのは、これはひょっとしたらレンズキャップを取り忘れてたからなのかもしれない。今回のは吊りさげられたイメージのコレクションとでもいうか、中空に展開するビジョンの集合体だ。大昔吊り下げられた横顔って言うタイトルで同人誌もどきを作っていたことがあって、その頃から中空に吊り下げられてるというイメージには個人的に親和性があるのかもしれない。作っていた仲間は美大の学生でそういえばポラロイド写真をアクリルとねじで作った手製のフレームに入れて付録にするなんていうこともやっていた。今でも覚えてるのは美大のその友人が書いた文章で内容は覚えてはいないんだけどタイトルをウルコングといい、この語感のよさは美大の癖になかなかやるじゃないかなんて思った。今になってちょっと検索してみたらラテンの楽器、ビリンバウの別名なんていうのがヒットする。でも友人はここから取ったというわけでもないだろうなぁ。まぁ当時面白がっていた友人たちの頭の中にしかもはや存在しないものだし、ネットでこんなことを始めてる今その痕跡だけでも留めておこうなんて思ってついでに書いてみた。ちなみに図鑑って云う観念はかなり好きだ。図鑑という観念とわたしの中でリンクするのは博物学の時代。図鑑は世界中の未知なる事物を集め分類することで世界を把握し記述しようとした驚異に満ちた時代が形となって目の前に現れてるもので、慎ましやかな本という形を取って目の前に現れた世界の雛形だ。驚きに満ちていた時代の世界がそこには封じ込まれてる。エルンスト・ヘッケルの図鑑はブルトンらシュルレアリストたちを狂喜させた。シュルレアリストたちも図鑑は大好きなのだ。ヘッケルはただひたすら精緻に描くことだけで事物を幻想の領域に押し上げる。それはものそのものをごろんと目の前に写し出せそうな、写真にはとても馴染みのある予感に満ちた観念だけど、さて写真でヘッケルの図鑑が開示した幻覚領域に迫ることが出来るだろうか。さらに物は集めることで、ただそのことだけで一つしかなかった時には見出せなかったものを出現させる。こういうことは既にやってる人も多いけどこういうのも写真にとっては親和性の高いものだと思う。また似たようなものを集めるというのも同じようなものばかりでつまらないと思う人もいるだろうけど、わたしはむしろ次はどんなのが出てくるんだろうと興味がわいてくるほうだ。図鑑を編むように写真を撮ってみる。事物を集積させることで世界を再構築させてみる。こういうのを写真でやってみるのも結構面白そうだ。腰痛は相変わらずで薬も効いてるのか効いてないのか良く分からない。この前診察に行った時、先生に薬効きませんか?なんて訊かれたけど、ましになったり痛んだりの斑模様の様相で、ましになった時が薬による加減だったのかそのときの体調加減によるものだったのか、自分でも良く分からずに返答に困ってしまった。このところ同じ病院にあるリハビリにもたまに通っていて、これがちょっと面白い。やってみるまでは体をひねくり回される荒療治なのかと腰が引けてたんだけど、自分にやるように割り当てられたのはマイクロ波を当てたり低周波を通したりするようなものばかりで、基本的に機械の前でじっと座ってるか寝てるだけ。特に低周波のはもうまるでマッサージしてるようで、それも今まであまり体験したことがないような体感具合のマッサージで治療がどうのこうのというのを若干外れても、あの不思議な感覚に病みつきになりかけてる。痛んでるところの硬くなった筋肉をほぐすような意味合いのもののようで、わたしの場合基本は骨のずれが戻らないと治らないと思うからこれだけで痛みが消えてしまうというものではないんだけど、やってもらってる間は気持ちいいからまた近々行ってみるつもりだ。



ネットで原著の図版をすべて見られるところがあったんだけど今でもあるのかな。興味があれば検索してみるのも一興かと。


図鑑なんていう話題をふったついでに。これも広義の図鑑といえるかもしれない。かなり有名なものなので知ってる人も多そうだけど、古書収集家のヴォイニッチという人物によってイタリアで発見された古書だ。ヴォイニッチ手稿という名前で知られることになって、手稿というように何かのコピーしたものではなく、手書きのこれがオリジナルだそうだ。内容はこの世界のどこにも存在しない植物のイラストなど、奇怪で不思議なイメージを集めている本なんだけど、これが特異なのはイメージに添えられてる文章が今まで誰も見たことがない言語で綴られていて、今でもまだ誰も解読に成功していないということ。要するに不思議なイメージに満ちているのにそのイメージの詳細や、この手稿がどういう意図の下に書かれたのかといったことを含めてすべてが謎のままだということだ。近代という痩せ衰えた時代に、かつて世界を覆っていた謎の姿を変えた復権としてミステリなんていうのもあるけど、ミステリには最後に必ず探偵が謎を解いてしまうしかない近代の呪いがかかっているのとは反対に、ヴォイニッチ手稿には謎そのものが手に取れる形で目の前に強固に存在してる。いつか解かれて何について書いてあるのか分かっても、おそらく正体を見てしまった幽霊のようなものになるだろうと予測も出来て、ならば永遠に解かれないほうがいい、解かれるべきじゃない謎としてこの世界に妖しい光を放ちながら存在し続けて欲しいとも思う。今では内容は書物になった形で手元において置けるようになったし、それ以外でも全貌を簡単にネットで見ることができる。何しろ誰も解読できた人がいないから、邦訳なんていうものもどこにもない。だから奇怪な絵を見て想像を広げていくしかない代物なんだけど、それだけでも十分に興味深いと思う。







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