2018/09/03
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2016 / 01 向島
2015 / 10 田辺
2018 / 06 京都駅
2018 / 01
2018 / 02 近所
Olympus Pen F / CONTAX T3 / Holga 120GFN / Fuji Cardia Travel Mini / Minolta Capios 160A
最近の自分のトレンドはグラフィカルでポップでキュートでシュールってところ。この写真は最近のものでもないけど既にこういう要素でシャッターを切ってる気配がある。相も変わらず贔屓目に見てもほとんど意味を持たない写真。写真に意味を持たせることに恐怖心でも抱いてるんだろうかと自分でも訝しく思うくらいだ。深部へ向かわずにただひたすら表層を横滑りしていくような感じ。世界はそういうものだとまず最初に認識しているのかもしれない。対象に意味を求めない。被写体に特別な存在感を認めない。そんな認識で写真を撮るなら、関心はむしろ対象よりもその対象に向かう視線にあるような気もする。被写体よりもそれを見ている視線のほうに重心が傾いてる。ならば眼差しについての写真が撮れないものかと思う。なんだかそれはきっと儚げで美しい写真になりそうな予感をはらんでる。なによりも被写体が他者性だとしか見えない異物感に躊躇する自分にとって、眼差しこそは自分のうちにあり、自分そのものである可能性だと云えそうだ。宮川淳という昔夭折した天才的な美術評論家がいた。今眼差しなんていう言葉を使って思い出した人だけど。この人の思想に自分はかなりの影響を受けてるんだろうと思う。宮川淳の本は本当に美しかった。美術評論なんていう内容で、レトリックや言葉そのものを美しいと思った本は初めてだったし、この人の本以外でそんな思いを抱いたものは未だに一冊も出合ってない。眼差しという言葉に絡めてあの本の言葉、レトリックのように美しい写真を撮ってみたい。こんなことに思いを巡らせてる内にまた宮川淳の本を読んでみたいと思い始めて、本棚の奥深く、埃をかぶり凍りついた古い記憶そのものと化してあるものへと分け入ってみるのもまた一興か。「紙片と眼差しとのあいだに」や「引用の織物」といった宮川淳の著作についていつか何か幾ばくかの自分の言葉を添えてみたい。