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冬の旅 / Fernando Arrabal Viva La Muerte, Opening

孤独な鉢





カフェの窓から





窓際





野球

2018 / 02-03
Minolta Capios 160A (1,2) / Ricoh AutoHalf E (3) / Holga120GCFN (4)
Lomography Colornegative 400 (1,2,3) Fuji RVP 100F (4)


「それじゃ、またね!」くらいの意味合いの関西弁「ほなね」ちょっと文字に書いてみると、この「ほなね」という三連のひらがなは音の響きはもちろん見た目にも何だか味わいがあるのに気づく。「そうだろうか?(違うだろう)」といった意味合いの「そやろか」も文字にしてずっと眺め続けていると何だか日本以外のどこか遠くの、たおやかな国の文字や音だといっても通じそうな気がしてくる。ちなみに「そやろか」というのはどちらかと言うと京都で、大阪では「せやろか」のほうが多いように思う。それはともかくこの二つ、あわせて「ほなね・そやろか」なんて並べてみれば、異物感を伴いながらも耳に届くリズムも整って、どこか名前のように見えないこともなく、これを「薄荷グリーン改」にしてもいいなとか、あるいは新手の漫才コンビの名前にも使えそうだとも思ったり、はたまた名前として組み立てるなら我が出生の地、壬生御所ノ内町と混ぜ合わせて、「御所ノ内ほなね」なんて、これは怪しい演歌を歌って人を惑わす暗黒演歌歌手然としてるし、「御所ノ内そやろか」という風に並べてみると、御所ノ内!と自分で名乗った瞬間にそうだろうか?と自分で疑問を投げかける、なにやら哲学の人のような雰囲気となる。とまぁあれやこれやどうでもいいことが何だかとりとめもなく頭の中を巡っている。それにしても「御所ノ内そやろか」は世界中に疑問符を叩きつけ続ける徹底的懐疑者のようで、名前として結構気に入ってしまった。「薄荷グリーン改」にするならこれかな。どこかで「御所ノ内そやろか」なんていうHNで、改行せずに映画や音楽のことを書いたり、写真を見せびらかしてる人がいれば、ひょっとしてそれはわたしかも。今回の写真は去年の冬に撮っていたもの。病院へ行く道すがら撮り続けていた写真だ。ほぼ一年前からの写真はそんなのばかりが目の前に積みあがってくる。気分はどうにもこうにも散文的でちっとも情緒的になれなかった時期の、そしてそれは今も振幅幅を大きくしながら続いてはいるんだけど、そういう難儀な精神状態で撮った写真なので、そんなに含みの多い写真にはなってないように見えていたのが、一年前の記事同様に「冬の旅」なんていうタイトルで纏めてみると再びそれなりに情緒的な部分もある写真に見えてくるのが面白い。大体「旅」という単語一つだけでもロマンチックな情緒を呼び込むのだろう。とはいうものの以前にも書いたようにタイトルは内容を纏めるようなつけ方よりも、一緒になって内容空間を攪拌し混沌化して広げていくようなもののほうが自分の嗜好にはあっているような気がする。ボリス・ヴィアンが「北京」とも「秋」ともまるで関係ない小説に「北京の秋」とタイトルをつけたように、ボリス・ヴィアンは昔、わたしのアイドルだった。意味するものと意味されるものの乖離なんていうと、ただの素っ気ない写真もまた構造主義的写真なんていう妙なものに変貌してくれるかもしれない。そういえばロラン・バルトも写真に関する本を出している。構造主義や現象学と写真は相性がいいのだろうか。


Viva La Muerte, Fernando Arrabal


ポドロフスキーや寺山修司に影響を与えたフェルナンド・アラバールの映画「死よ、万歳」のオープニング・シーン。催眠的というか、特に奇抜な手法や音を使っているわけでもない、素朴な子供の歌のような外見のもとで、聴覚体験はシュールレアリスティックと云う他ないものになってる。バックのイラストはローラン・トポールだ。最後のシュルレアリストたちの競演というところかな。



写ルンです偽装

最近撮りに歩き回れないものだからフィルムの消費も滞って、カメラ関連のものに散財していない。そんな状況の中でカメラ関連というほど大層なものでもないけれど久しぶりにこんなものを買ってみた。写ルンですを立派なコンパクトカメラに偽装するケースだ。これはクラッセWもどきのデザインとなっている。シルバーとブラックの二種類が出ていて、両方とも上半分を開いてなかに写ルンですを収納するだけで、遠目にはフジの高級コンパクトフィルムカメラ、クラッセWに早代わりする。まぁ全体に漂うおもちゃっぽさは否めないけれど細工は結構上手くできていて、さらにこれを使うとハンドストラップしかつけられなかった写ルンですが、ネックストラップで両吊りできるようになるのもありがたい。シルバーのほうはフジフィルムのロゴ入りストラップもついていて、わたしが買ったのはこのシルバーのほうだ。カメラとしてはシルバーのほうが個人的にはクラシカルな雰囲気に見える。でもフジの商売に乗せられて、そのうち気がつけば手元に黒も揃っていたなんていうことにもなってそうではある。黒にはストラップを同梱していないというのが、シルバーを買ったものには次にもう一つ、安い価格でケースだけと云う具合に黒いほうも買いやすいし、黒を買ったものには黒にはついていなかったストラップが物欲のターゲットになると、何だかせこい印象だけど細々とした商売の仕込がフジは上手そうだ。





昔早川から出た全集を最後に今に至るまで一切再刊されてないのかな。「うたかたの日々」は文庫にまでなっているのに。


写真を撮るにはほとんど役に立たない。




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ワッフル





グラデーション






四角いリズムで






乾燥した水面





三連
2016 / 12 京都駅
2016 / 04 丹波口
2017 / 12 鴨川
2015 / 09 伏見桃山
Fuji Cardia Travel mini DUAL-P (1,2) / Olympus XA2 (3) / CONTAX T3 (4) / Olympus PEN F (5)
Kodak SG400 / Fuji 業務用400 / Kodak Gold 200

グラフィカルでポップでキュートでシュール、いつだって頭の中でこの呪文を唱えながらの撮影だ。この前の「○」に続いて今回は「□」に関する視覚的考察といったところか。とはいっても四角い形というのは街のいたるところに溢れかえって、あまりにもありふれて「○」ほどには感覚的には躍り上がらない。それにこれは四角の写真だと云ってしまうと、あぁなるほど四角いものの写真ですかと、それで適当な落としどころにあっさりと落ち着いてしまうところがあってこういうのもつまらない。確かに四角い形に拘って撮ってはいるんだけどそれに収まりきれない部分がないとやせ細ったイメージにしかならない。それは四角い形を扱っていても切り取り方の感覚によっては痩せ衰えたものにもなるし混沌としたものを含む得体の知れないものに変貌するものもあるということなんだろうと思う。大体これは何々を表現しましたなんて作った側が明言できるようなものなんか大抵は面白くもなんともないものとなってるし、どうせ撮るなら自分にも明言できない得体の知れない何かが寄り添ってる写真を撮りたいと思ってる。それにしてもこの呪文の中でシュールというのが一番扱いにくいかもしれない。なにしろ写真は与えられたものでしか構成できないから。その辺に飽き足らなくなってくると演出写真のような方向へ向かいがちになるんだろうけど、わたしは自我意識でべったりと塗りつぶしたような演出写真は嫌いだからなぁ。おまけに描かずに写し取るという写真の特質。この描かないということは写真を写真として成立させている最大の要因だろう。最近読み始めてちょっと面白がってる本。川上弘美の「椰子・椰子」得体の知れない非日常の要素が日常の中に平然と交じり合ってる不思議世界を語りだしてる内容で、作者自身が見た夢をコアにして実質は夢魔に近いような世界なんだけど、語り口がのほほんとしてるというかあっけらかんとしているというか、怪異譚という手触りとも違う、ちょっと体感したことがないようなユーモラスな幻想空間を味わわせてくれる。日記として書かれた一月の八日、曇りの日に松もとれたので冬眠に入り、二月の三日、晴れの日に冬眠を終える。その間一緒に冬眠させた子供が二倍の大きさにふくらんでいるのを湿度の関係だろうかと考え込む。文庫の解説を書いてる南伸坊が内田百閒を引き合いに出していて、確かに思い切り切り口の変わった内田百閒っていう感じだ。内田百閒好きとしてはいきなり波長が合ってしまい、続いて読むのに何冊か手元に置いておこうと思って他の著書を漁ってみたら、一体どれから手にすればいいんだと途方にくれるくらい、結構な数の本が出ていた。芥川賞作家なんだけど、それだけ人気がある作家なのかな。







Cibo Matto - Sugar Water

ビデオのほうは手抜きのミシェル・ゴンドリー風だけど、音は水底で流行るポップソングなんていう言葉が頭に浮かんで、その低体温っぽい感触がなかなかクールだ。