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機械式辻占師言行録 / 打ち捨てられた月のための

チェアーズ





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沈む家





影の会話






赤いポスト





辻占
2015 / 12
Olympus 35 DC / Lomography Colornegative 400 (1)(2)(3)(5)(6 )
2013 / 02
ハチカメラ (4)
(4)(5)(6)はスクエアフレームにトリミング

辻占というのは言葉では知ってはいたけど、辻で占いをするんだろうとその程度の認識でしかなかった。最近本を読んでいて辻占というのが確かに辻で占いをすることなんだけど、占い師が辻に立ってなにやら占うというのでは必ずしもなくて、夕方に辻に立ってその場所を行きかう人々の話す声、ざわめきのなかから聴こえてくる言葉に、御神託を見出すという行為のことだと知った。夕方、おそらく逢魔時辺りの時間帯のことだと思うけど、その異界とこの世界が溶け合いそうになっている特別な時間に、辻という境界性の高い場所に身を置いて、意味としては形を成さないようなざわめきのなかにかすかに交じり合ってる彼方からの通信を受信する。なんかこれ、わたしが写真のことを考えてる時に頭に思い浮かんでることと良く似ている。ひょっとしてわたしが写真を撮っていることの意味合いって、写真で辻占をやっているということなのか。写真に逢魔時を呼び込んでオブジェの呟きを顕現させ、異界から届いてくる声に耳を傾ける、そんなことをビジュアル的な領域で成立させたいと思っているんじゃないか。そう考えると写真機は冷たい機械であると同時に境界を縦横無尽に横断するマジカルな装置でもあり、云うならば逢魔時発生装置でもあるのだろう。と、いつもの如く逢魔時だとか異界だとかもう何だか思い切り傾向性のある言葉を乱打しているけど、だからといって禍々しくも不安を誘う曇天に黒雲だとか、闇が集う森だとか、そういういかにもそれっぽい定型文のようなイメージで作るのはまるで面白くないしやる気もない。できることなら日常のあっけらかんとした昼間の遍く光の下で、決して地面に寝転がったりなんかはせずに、普段の立ち上がった目の日常的な位置からむき出しのオブジェの中へと分け入り、そのささやき声が聞こえてこないか試してみようと思ってる。まるで中井英夫が「虚無への供物」で謎めいた大伽藍などではなく、戦後の新興文化住宅を反世界へと一気に反転させたように。試みるならばこのほうが困難さゆえにはるかに面白い。今回の最後の三枚は普通に撮ったコマを四角くトリミングしてる。最近四角いフレームに物凄く興味を引かれていて、以前これほど苦手だと感じていたのが嘘のように写真といえばまずこの枠組みが頭に浮かんでくる。そこで以前に撮ったものをもしも四角いフレームで撮っていたらどういった感じのものになっていたんだろうと、ちょっとした好奇心に導かれて試してみたものだ。以前はトリミングは可能な限りやらないという何かの原理主義のような思考だった。この考え方はある部分わたしの中で未だに場所を占めていて、トリミングしてしまうと端正に思い通りの絵にはなるんだろうけど、同時に収まりかえって勢いの無い写真になってしまいがちだと思っている。特にレンジファインダーのようにファインダーで覗く世界とレンズが捉える範囲が微妙にずれてるカメラの利点はここにあって、完璧を期したつもりで撮っても、思うようには撮れない部分が写真に付加され、それが構図からずれてるだとか、余計なものが写ってるだとか、意図しては撮れないような不安定感、動き、ダイナミズムのようなものを呼び込む可能性を開いていた。トリミングしてこういうものを整理してしまうとこの可能性は完全に閉じてしまう。でも最近のわたしはそんな風に不完全さを可能性に転化させるようなことを考える一方で、この傾きや位置が思い通りじゃないことに我慢ならないとなると、トリミングは可能性を殺すなんていう頑なな思いとはうらはらに、わりと躊躇いなしにトリミングしてしまうほうが多くなってる。この辺の嗜好は何時までたっても着地どころを見出せずにわたしの中で揺れ動いてる部分かもしれない。イメージの開かれた可能性を殺してしまっても何か得るものがあるのかどうか、この辺りのことでトリミングしている時に思ったのは、こうやって後で手を加えることはシャッターを切った瞬間に写真の中に凍結してしまった時間に再び新たな時間を加える行為なんじゃないかということ。フィルムは時間経過によって劣化していき、そういう風に時間を取り込んで変化していけるのはフィルムの特権だと以前に書いたことがあった。こういうトリミングもそういう考え方の延長に位置づけられるんじゃないかなと思ったりした。潰瘍性大腸炎なんていう厄介な病気になって一番頭を悩ますのは食事の問題だろう。腸は内在するものでありながらも外部に開かれていて、食べたものは必ず腸を通って何らかの影響を与えていく。でもだからといって刺激を受けるのが怖いからと、ものを食べずにいるのはどうやっても不可能だ。ところが食事制限といったものが一番に出てきてもよさそうな病気なのに、この病気に関しては食べ物の制限については余り明確な形で定義されていないようにみえる。わたしの主治医も食べ物に関してはこの食べ物は絶対に食べては駄目といったようなことは特に何も云わないし、極端なことをしない限り、常識内で普通に食べていてもかまわないとする医者も多いようだ。理由は病気の原因そのものが不明であるのと同様に、どうやら医学的に食物が本当に潰瘍性大腸炎と関係があるのか、その因果関係が証明されていないからということらしい。食べ物に関してはこの食べ物を食べると必ず潰瘍性大腸炎を発症する、あるいは症状を再燃させるといった食べ物はなくて、その関係になにかありそうであってもそこは食べる人との相性のようなものに落ち着いてしまう。つまりある食べ物がある人の症状を悪化させたとしても他の人に必ずそういう状態をもたらすわけでもなく、それを食べてもまるで平気な人もいるっていうこと。まぁ常識的に唐辛子の塊のような食べ物は傷ついた腸壁を通過して絶対にいい影響は与えないと、そのくらいの判断は出来はしても、他の一般的な食べ物に関しては自分の体と相性が良いのかどうか自分を実験台にして確認していくほかないという感じになっているんだと思う。ネットでちょっと検索をかけてみるだけで、患者がこれはあまりよくなさそうって思ってる食べ物が一杯出てくる。牛肉豚肉は駄目、鶏肉、魚はまだ大丈夫、でも生の魚はやめたほうがいい、貝は全般的にどうやら無理そう、自分からは積極的に食べないからどうでもいいけど牡蠣はまず問答無用でアウト、乳製品は駄目、パンも駄目、コーヒーも駄目、砂糖も駄目、無類のカレー好きなのにスパイスの効いたものもまず全部駄目、油も全般的に駄目、そんななかでオリーブオイルはまだ使える、魚の油も大丈夫、ベジタリアンはどうするのと思ってしまうくらい野菜なんかの食物繊維はおそらく大半が駄目、牛蒡蓮根なんかはもってのほか、水溶性の食物繊維であるバナナは大丈夫、いやバナナも水溶性と云っても食物繊維に変わりないから良い影響は与えない、と、こういうのが延々と連なって目の前に積みあがってくる。食べ物だけに飽き足らず、コーヒーを飲みながら本を読むような時間までもわたしから奪っていきやがる。一応ね、そんな中でもこれはおそらくみんなが食べても大丈夫という食べ物も僅かにあって、でもそのリストアップされたものを見れば低刺激のおかゆだとかうどんとかそんなのばかりだったりするんだな。その絶対安全食品だけとっていれば潰瘍性大腸炎が再燃する可能性は低くなるのかもしれないけど、これはもう他のレベルで体を壊してしまいそうだ。一応世間の最近の話題にも乗っておくとして、数日前に新しい元号が「令和」と決まった。知識だけは豊富だけど言語的なセンス皆無の有識者とか云う人たちが集まって決めるようなものだから大したものは出てこないだろうと思っていたら、これは意外とそんなに悪くない。平成なんていう空気が抜けていくような音的イメージしかないものよりはずっといいと思った。「れい」はこの決定となった本来的なものをまったく無視して、極私的な音の響きの印象だけで云うと「零」であり「冷」であり「霊」であり「光線」であり、虚無や反世界へも回路が開けそうな予兆も覚えてわたしには何だかとてもかっこ良く聞こえる。平成なんていう響きでは本来的な意味も何もどのような形でも虚無への回路は絶対に開かないだろう。ただ元になった万葉集にはこの「令和」の「令」は「令月」という単語で登場して、元号にはそこから一文字取ったということらしいが、これ、「令月」そのままのほうがかっこよくないか。もとからイメージ豊かな言葉なのに、そのイメージを無効にしてまでどうしてそこから一文字だけ取ったんだろう。昭和と同じく「和」と結び付けてあるのは昭和生まれとしては決して嫌じゃないにしろ、元号には元の単語そのままでは使えないなんていう制限でもあるんだろうか。もし令月をそのまま使い、日出づる国の元号に「月」が入ったならば、太陽のもとに月まで包み込んでパーフェクトだったのに。


Vashti Bunyan - If I Were - Same But Different


どちらかというと歌そのものよりもVashti Bunyanの娘であるWhyn Lewisの、古代のどこかの神殿の壁画のように文様的で静謐なアートワークのほうが好みに合ってるかも。歌共々ルナティックって言う形容が意外なほど良く似合う。







こっちもルナティックといえばルナティックなのかも。創元社から出版されたこの文庫版中井英夫全集、刊行当時結局全巻揃えられなかった。持っていない巻は数冊なんだけど、今になって揃えたくなってきた。



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