2019/05/29
虚空頌 機械式辻占師言行録Ⅲ


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2015 / 08 高瀬川タイムズビル (1,4,5)
2016 / 01 河原町オーパ (2) 鴨川 (3,8)
2014 / 09 花遊小路 (6,7)
Pentax K100D Super (3,8) / 写ルンです(2) / Wltra Wide And Slim(1,4,5) / Canon 7 (7)
Lomo Colornegative 100 (1,4,5) / Fuji Speria 400 (7)
虚ろな空間への頌(オマージュ)。それはわたしのなかの空洞に共振する。ところでこういう言葉を使うと最近はたちまち中二病なんていうレッテルを貼られて嘲笑されることのほうが多いようだ。薄っぺらい時代になりつつあるというか、またたとえばミステリを社会派が牛耳っていた頃のような伸び代の無い硬直した退屈な感性へと逆戻りしつつあるのか。ニコ動のゲーム実況で虚無という言葉を使ったあるゲームにこういう態度をとっている人を最近見かけて、これは中井英夫が放った「美とか幻想とか聞けばわけもなく失笑するだけの不気味な生物」の手合いだろう。わたしの周囲には幸いにしてこういう手合いはいないんだけど、こういう人は話をあわせるだけでも面倒臭いだろうなぁ。でも中二病っていうネーミングは「ヲタク」と並ぶ奇跡的なネーミングではあると思う。言葉そのものが独特の臭気に満ちたオーラを放ってる。言葉の意表をついてなお対象の全体を適切に掴みとるアクロバティックなセンスは驚嘆はするものの、繋がっていくだろう物事すべてを閉塞させて止まないような負のエネルギーに満ちて、こういう言葉はわたしは大嫌いだ。オブジェが生み出す虚ろな間なんていうのはどこか矛盾しているようでわたしには興味深い。何かを写すことで何もないものをフィルムに定着させる。オブジェが埋め尽くすだだっぴろい空虚。対象になにか充実したものを見ようともしないわたしの感覚のどこかに問題でもあるのかもしれないし、そんな何もないことを見せ付けるようなものを差し出されても困惑しか生まないのかもしれないけど、そういうものを写し取ろうとしてシャッターを切るのはとりあえず今のところは面白いと思ってる。キュートでポップでグラフィカルなんてことをよく書くけど、それに加えてなにもないことというのも付け加えてみる。視覚の力学だけで出来上がってる写真。そんなのが理想だ。
川上弘美が「晴れたり曇ったり」というエッセイ集で内田百閒の著作に始めて出会ったときの事を
へ、へんなものを、み、みつけちゃったよ。
仰天し、狂喜した。
と、書いてる。
これは内田百閒初遭遇の気分としては極めて的確に言い表していて、文学的にどうのこうのって云うんじゃなくて始めて読んで面食らった感覚を上手く表現するなぁと思った。わたしが始めて内田百閒に遭遇した時も、確か「北溟」というタイトルの、寂れた船着場に海のほうから雲のような塊が吹き寄せられていて、良く見るとそれには無数の握り拳大のオットセイが付着しており、みんながそれを拾って食べているので自分も食べてみるという、そんな感じの数ページに満たないどことなく夢魔のように不気味な、まるで言葉で描くシュルレアリスムの絵画といった掌編だったんだけど、そのときの感触は云われてみればまさしくこの変なものを見つけてしまったというものだった。ちなみにわたしが川上弘美の「椰子・椰子」に初遭遇した時の気分もまさにこれ。現代版内田百閒じゃないかと、ダンジョンのなかで宝箱を開けたら思わぬレアアイテムが入っていたような高揚感を味わい嬉しくなった。わたし個人の体験としては藤枝静男に初遭遇した時もこんな仰天、狂喜を味わってる。とまぁ、本を読んでこんな気分になるって、今までに何度味わったか数えて思い出せるほど稀な体験だったりするわけなんだけど、この稀なワクワクした気分を内田百閒のときほどではなかったにせよ蘇らせたのがこの本、川上未映子の「先端で、さすわさされるわそらええわ」だった。手にしたのは内容以前に本屋で目に留まった装丁がきっかけだった。「己の前に立ちあらわれるすべての純潔、すべての無垢、すべての清楚を手当たり次第に踏みにじること」と題された鴻池朋子の絵画が一面に配され、その上を半透明の、これは何の素材なのか固い手触りのカバーがかけられて、そのカバー越しに絵画が見えてる。著者のほかの本には何冊か目を通したことがあって、本屋でちょっと中身を眺めての第一印象は他の本で見られた尖がってる要素ばかりを集めた本っていう印象だった。なんとこれがデビューの本だそうで、ならば作家のすべてが最初の本に詰まってるという定説を地でいくものなのかもしれない。こういう装丁のかっこいい本は文庫でなんて買わない。もっともこれは文庫にはなってなさそうだけど。全部読んだわけでもないけど、もう内容を要約するなんていうこともまるで無意味なような中身で、いうなら言葉を発し、またそれを読むことが本来持っていたはずの過激さ、言葉を眼で追うリズムとか縦横に連鎖するような単語と戯れることの、忘れていたのかもしれない新鮮な感覚を呼び起こすというか、そういうもので満ち溢れた本という印象だった。この本のほかにももちろん川上弘美や最近妙に意識に残ってる円城塔、見つけたら買ってる多和田葉子の本など、日本の文学ってまだこういうものを受け入れるだけの余地があるんだと、全然捨てたものでもないなぁって思って楽しくなった。それにしても写真がシャッターボタンを押すことさえ出来れば誰にでも出来る一番自由な媒体だと思っていたけど、こういうのを読むと文学は未だにその自由さで群を抜いてるとあらためて思う。もうここにはカメラという装置さえ必要としない、言葉を発することが出来るだけですべてが自由であるはずの荒野に立つことが出来るのだから。何だかね、こんな本を読んでると表紙の絵画のタイトルにも触発されて、おさまりかえった上品な写真なんか撮ってる場合じゃないなと、気分は目一杯煽られてくるようだ。
レベッカをもう一度。これはもう圧巻というか、これが力量というものなんだよ分かったかとでも言わんばかりの、何の躊躇も無く気持ちいいほどストレートに声が伸びていく堂々とした歌いっぷりに、あっという間にねじふせられ圧倒される。暴力的に力強いくせに艶っぽくてちっともがさつじゃない。また他にもこの曲が好きな理由があって、リズムがわたしの好きなゲーム、クーロンズ・ゲートの大井路の音楽に似てるということ。これはクーロンズ・ゲートの中で一番好きな音楽だ。こういうリズムの刻み方ってどこか催眠的で知らない間にのせられてどこかに運ばれていくようなトリップ感がある。
クーロンズゲート 大井路