2019/12/12
最初の三枚はKodak No. 2 Folding Autographic Brownieというコダックの古い蛇腹カメラで撮った。ほぼ100年くらい前のカメラだ。長い年月を潜り抜けてくる過程で蛇腹が劣化し、穴だらけになっていたせいで盛大に光線引きしている。ただあまりにも穴だらけすぎてほとんど制御できず、というか一面真っ白なんていうのを高確率で生み出して、光が漏れる美しさどころじゃないので結局フィルム2本ほど撮って後は使わなくなった。蛇腹の修理をすればいいんだけど、修理費は高価でそれだけの費用をかけてまで使うようなものでもないし、たとえ修理したとしても穴のまったく開いていない蛇腹もこれはこれでつまらないと言うことで、今はわたしのカメラボックスのなかで眠っている。蛇腹がへたって使えないカメラとなってしまっているものの、それでも逆に言えば蛇腹を修理さえすれば今でもまるで普通に使えるカメラでもあるので、そういうところは道具としてはやっぱりどこか凄みはある。
きっかけは佐藤春夫に「化物屋敷」という怪奇小説の短編があるというのを知ったことで、最近ちょっと怪奇小説を連続で読んでいる。化物屋敷という語感が良い。幽霊屋敷よりもなんだか派手で、奥ゆかしさなんてそっちのけでストレートに迫ってきそうな迫力が言葉からも感じられる。そこで、「化物屋敷」が集録されている本を探して手に取ったのが創元推理文庫から出ている「日本怪奇小説傑作集1」というアンソロジーの一冊だった。「化物屋敷」は全三巻のうちの最初の巻に集録されていて、この本には他に明治から昭和初期にかけての文豪がものにした怪奇小説を中心にコレクションされていた。これで知ったんだけど川端康成なんていう作家も幽霊小説を書いている。まるで興味の対象外だった川端康成も解説で「死臭と霊気ただよう幽明の界を凝視しつづけた特異な作家」と紹介されると俄然興味がわいてくる。目的だった佐藤春夫の「化物屋敷」はまぁ特に凄いと思うところもなく、というかこれから本格的に始まるだろうという手前で終わってしまっているのが拍子抜けで、この屋敷に関しては同居していた門下生だった稲垣足穂も取り上げて小説にしているということを知ったのがどちらかと言うと収穫だったかもしれない。ちなみに佐藤春夫の小説のほうで石垣という名前で登場しているのが稲垣足穂のことらしい。稲垣足穂には「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」というお化け屋敷小説があって、賑やかな百鬼夜行のあとを、大人になってしまえばもう二度と見ることもかなわないとでもいうような喪失感で締めくくり、その郷愁に満ちた余韻が印象的なものだった。これが結構好きだったからこの佐藤春夫がらみの化物屋敷小説もそのうち探し出して読んでみたい。集録作家の中で夏目漱石、内田百閒、江戸川乱歩、夢野久作、谷崎潤一郎辺りはそれぞれ怪異幻想を扱って手馴れているのがよく分かって、というかそういう領域を得意としている面を持っているとこちらが認識して読んでいるから馴染みもあり安定して面白い。作品の選択も漱石なら「夢十夜」の有名な、薄気味の悪さで突出している「第三夜」なんかを持ってこずに「永日小品」から「蛇」なんていう掌編を取り上げていて、有名どころに頼ったような選別でもない。谷崎潤一郎は主人公の女優が自分が出演した覚えもないのに自分が主役として出ている映画が場末の映画館でかけられていることを、そしてその映画が人面疽の話で、夜中に一人で見れば気が狂うという呪いの映画だと知るなんていう謎めいたお話の「人面疽」を、江戸川乱歩は、まぁこの人の短編は全部が代表作みたいなものだから何を選んでも掘り出し物感はほとんどなくなってしまうんだけど「鏡地獄」が選ばれている。収録されている小説の中で予想外に面白かったのが小泉八雲の「茶碗の中」だった。結末を読者に委ねているわけでもないんだけど、読後感はこういったリドルストーリーとよく似ている。時間の彼方の闇の中から不意に浮かび上がり、また再び手の届かない遠くの闇の中へと消えていくような全体の雰囲気が良い。元になった話は古文書にあるものらしいけど結末はまるで違っていて、こういう趣向の結末にしたのは小泉八雲の独自の感性によるものだったらしく、結構モダンな感覚の持ち主だったことに気づく。本全体は文豪が残した怪奇小説という風変わりな切り口も含めて、普通ではあまり目にしないものも収集されているのが楽しく、確かに時代も違うし泉鏡花のものなんか今の文章作法とはかなり異なっていて読みにくいこと夥しかったりするんだけど、時代が違うんだから今の文章と違うのは当たり前、そういうことに文句をつけるのは辛いと注意書きされたカレーに辛いと文句をいうのと変わらないわけで、ここはむしろ読みにくさも楽しんでしまおうと、こういう態度が正しいんじゃないかと思う。本全体の印象は丸ごと恐怖にまみれた体験が出来るかと言うと、そういう方向で一点集中しているという風でもなく、冥界を扱ってそこから引き出すものは千差万別といった感じのアンソロジーだった。
そこで今回のタイトルだ。金字塔という言葉。小栗虫太郎の「金字塔四角に飛ぶ」というのでこの言葉に出会ったのがわたしには最初だったんだけど、これがピラミッドのことだというのはわりとよく知られている。では謎語像のほうはどうか。この言葉、上の怪奇小説アンソロジーに入っていた夢野久作の「難船小僧」に出てきた言葉で、スフィンクスとルビがふってあった。とはいうもののこれが金字塔のように一般化した漢字の使い方だったのかは実のところわたしにはよくわからない。タイトルの「難船小僧」にも「SOSボーイ」とルビをふっていたように、夢野久作は漢字に独自のルビをふるようなことを多用していたから、ひょっとしたら夢野久作しか使っていない漢字の使い方だったのかもしれない。それはともかくスフィンクスに漢字を与えるとしたらこういう風になるだろうと云う的を射てる感じはあって、妙に印象には残った。
この言葉を目にしてそういえば写真も云ってみれば謎語像なんだろうなぁと連想は飛ぶ。属性と遊離したオブジェはおそらく謎そのものとして立ち現れると予測する。もっとも謎そのものとして立ち現れた瞬間にそれを前にしたわたしは何らかの属性を与えて認識可能なものにしてしまうだろうから、オブジェが問いかける謎は一瞬にして認識の外に出てしまうだろうけど。そういう不可能な一瞬の残滓というのかそういうものが立ち現れた気配というか、そういうものがどこかに残っている写真を、可能なら撮ってみたいものだと思う。謎として語りかけるスフィンクスのような存在の写真。撮れるならば、そしてそういうものを眼にすることができるのならば、それは稀有な体験になるだろう。
ということで怪奇小説集から始めた言葉を強引に写真に結び付けてみた。
怪奇小説はこのアンソロジーの一冊を読了したあと、なぜか2巻目だけ買って手元に積読状態になっていた創元推理文庫の「怪奇小説傑作集2 英米編Ⅱ」とポプラ文庫から出版された「てのひら怪談」の二冊へと移った。これを書いている時点では英米編のほうは「ポドロ島」「みどりの想い」「帰ってきたソフィ・メイソン」「船を見ぬ島」と最初から順に四作を読み終えたところ。やっぱり恐怖の質は日本の感性とは結構異なるというのをあらためて思い知らされる。得体の知れないものへの畏怖、畏れと云ったものに裏打ちされている日本の怪談のほうがやはり身に馴染む。「ポドロ島」は怪奇小説としては知られた作品なんだけど、どこが面白いのか、どこが恐怖なのかわたしにはさっぱり分からない。以前読んだはずの記憶があるのにどういう話だったかまるで頭に浮かんでこないのはそのせいだったんだろう。猫を可愛がる気分が殺さなければならないという真逆の感情へと切り替わるのが恐怖を生み出す要因の一つとなるということなんだろうけど、わたしにはなんでいきなり殺さなければならないって思うんだよと疑問符がつくだけの展開にしか見えなかった。疑問から好奇心は生まれはするけど恐怖は生まれてはこない。この四作の中では「船を見ぬ島」が、受け取る情緒としてどこか「5億年ボタン」を思い浮かべるようなところがあって、永遠の耐え難さは伝わってくるものがあり面白く読めた。でもこれの持つ面白さは怪談と云った時に呼び起こされるわたしの感覚とは少し違うものだ。
「てのひら怪談」はネット上で公募した怪談をそのネット上で共有、楽しさを分かちあうというというサイトが母体となって、そこで展開され受賞した作品を集めて一冊の本にしたもの。一話で原稿用紙二枚という制限のある、本にすれば二ページで完結する怪談が山のように集録されている。この800文字という制限が意外と上手く機能して、つまらないものは一瞬にしてやり過ごせるし、面白いものはまさしく怪談的なコアの部分を効果的に切り出すことに成功している。これから怖くなっていくんだろうかと思わせつつ、だらだらと続いていくだけというようなものがひとつもない。なによりも巻頭を飾る「歌舞伎」と題された作品の出来が素晴らしく、わたしの恐怖感覚とも見事に共振するような内容だったので、わたしはこれで一気に引きずり込まれることになった。回りの世界が狂い始めたのか、その世界を眺めているわたしが狂い始めたのか、あるいは世界もわたしもバランスを保っている世界に得体の知れないなにか異様な世界が浸潤してきたのか、そのどれともつかない不安な場所から立ち上がってくる事象の薄気味悪さ。モンスターや殺人鬼なんかまるで出てこないけど、じわっと鳥肌が立つような嫌な感じは伝わってきて、これをアマチュアが書いたんだとちょっと吃驚した。巻頭にこれを持ってきた編集者の選択眼がいい。もちろん収集された話が玉石混合であることは避けられないんだけど、最初に盛り上がったテンションの高さは未だに下がらずに続いていて、ピンとこないものは何しろ800文字だから速やかに読み飛ばし、この怪談のごった煮のような様子を楽しんで読み続けている。この冒頭の「歌舞伎」以外だと今のところ既読の分からでは「ガス室」と題された一編がお気に入りとなっている。この二編を並べてみて、どうもね、わたしは彼方から電波なり何なりにのせて微かに届いてくる意味も不明なメッセージといった類のものに惹かれるんだろうなぁと再認識した次第だ。
The Caretaker - The Story is Lost
VIDEO The Caretaker - It's just a burning memory
VIDEO 英国のミュージシャン、ジェイムス・リーランド・カービィによるプロジェクト The Cartakerによる曲。ダーク・アンビエント系の音楽になるのか、ムーディなサイケデリックっていう感じがする。
上の曲は元ネタを知っているけれど、下のは知らない。ちなみに知っている上の曲はJeannine I Dream of Lilac Timeという古い曲。以前エロール・ガーナーのピアノ演奏をここで紹介したことがある。それにしてもこの人が作る曲は、この二曲以外のものも含めて引用してくる元曲の選択が見事に同一の雰囲気、印象の曲を探してきているというか、自分が持ち合わせているはずもない記憶の奥深くへと緩慢に沈殿していくかのようにノスタルジックで、そしてそれが極めてわたしの好みにあっている。といってもこの一連の関連していく曲群は曲を重ねるにつれて甘美な音場を離れて崩壊していく。なにしろテーマの一つが認知症だというんだから。こういうのを聴いていると、ノイズ混じりの茫洋としたこういう音でしか表出し得ないものがあるということ、これは写真も同じだよなぁって思う。フィルムの粒子でしか表出し得ないもの、フィルムを通してみる眼でしか見えてこないもの、そういうものが絶対にあると思うし、デジタルがフィルムのすべてに取って代われるなんていう考えは傲慢のひと言に尽きる。
これは音楽以外にもヴィジュアルもシュールで良い。こんなロケーションをよく見つけてきたものだと思う。最後の後ろからの人のショットと煙草の煙は若干の余計な付け足し感はあるけど。