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知覚の地図Ⅳ

逆ハート





緑のホース





家路





丸い




踏み切り
Konica EYE / RIchoh Auto Half E / 写ルンです
Fuji 100 / Lomo 400

グラフィカルでポップでキュートでシュールと、そろそろ違う感じのものも撮ってみたいと思いつつもいつもの如く目指すのはこの辺りだ。これにくわえて寡黙さもめざしているのにこれは毛の先ほども実現できずというところか。云うことなど何もないのに云いたそうな気配だけは立ち上っている。最後のは冥界に通じていそう。
今年になって始めての更新。喪中でお正月も出来なかったしちっとも盛り上がりのないままに時間が経過していった半月だった。そのわりに低空飛行を続ける気分のままに葬儀後のいろんな事務処理に引きずりまわされて、それはいつまでたってもまだ始まったばかりのように遅々として進まない状態のまま、なんだか気疲れのみを重ねていくようにわたしを翻弄している。みんないいようにこれをやれあれをやれといってくるけど、わたしは難病なんだぞと、そんな人間を引きずりまわして楽しいのかと文句の一つも云いたくなる。もっともこれだけストレスをかけられて潰瘍性大腸炎は絶対に再燃すると覚悟していたのに、今のところそんなに酷い揺り戻しもないままに平穏状態を何とか維持している。意外とわたしは神経が図太いのか。
まぁそれでもこの半月のことをちょっと書き記しておくと、孤独のグルメの年末スペシャルを見ようと思っていた大晦日、なんと関西での放送局であるテレビ大阪のみがわたしのテレビでは受信できないという呪われたような大トラブルのせいで見ることも出来ないまま、潰瘍性大腸炎では蕎麦は食べないほうが良い食品になっているせいで年越しうどんなんていう得体の知れないものを食べて年越し、年を越してすぐの真夜中に買い忘れていたおやつでも買いにいこうと思って近所のコンビニに行けば、顔を知られてる店員にいきなりあけましておめでとうございますと声をかけられ、ふいをつかれて喪中なのに思わず明けましておめでとうございますと返事をしてしまったことから新しい年が始まった。結局お正月の間新年の挨拶をされると、喪中であることを説明するほどでもなければ、そのうち面倒臭くなってそのまま挨拶を返しまくっていた。フォトハウスKでもそうで、本当に久しぶりにフィルム一本最後まで撮り終えて現像を頼みに行ったらここでもお正月の挨拶。病気だからなかなか写真撮りに出かけらずに、あまりこれなくなってるとは云ってあったけど、喪中を理由に挨拶拒否するのもなんだか躊躇われてしまった。大晦日に見逃した孤独のグルメは元旦にはもうネットにアップされていて一日遅れで見ることができたんだけど、韓国特集のような内容で、お正月に反日国家のことなんかなにが悲しくて見ていなくてはならないのかと興ざめもはなはだしく、ドラマ中に三度あった食事シーンも三度とも最後には全部のおかずをご飯の上にぶちまけてまぜまぜして食べるなんていう汚らしい食べ方を見せられたのにも閉口。フライパンにのせたまま客の前に出したり、ステンレスの容器によそって平気なご飯の出し方も、それは厨房限定の調理器具だろうと思うとまるで美味しそうに見えなかった。主人公の井之頭五郎は西洋の雑貨輸入業で韓国とは直接関係がないものだから、通りすがりの人物とぶつかった時にその人物の持っていた茶器を割ってしまい、その代用品を韓国へ探しに行くなんていう取ってつけたような理由で韓国行きの方向へ持っていっている。茶器に何の意味もないのは結局韓国で立ち寄った店の店頭ワゴンに二束三文で売っていたのを見つけてそれでお終いだったというのでもよく分かる。ついでにワゴンセールの茶器をありがたがっている日本人はセンスがないとでも云いたいのか?ひょっとしてあの時、神戸のサンテレビでさえ映っていたのに、よりによってテレビ大阪だけ映らなかったのは、こんな番組、見る価値もないという天からの啓示だったのかも知れない。こんなことやってると孤独のグルメも長くないんじゃないかな。でもこちらは病気のためにほとんど食べてもいいものがなくなっているのに、あぁ病気じゃなかったらこういうのが食べてみたいとかちっとも思わなくなっていたのは、番組のせいだけじゃなくて、もはやこういういろんなものが出てくる食事というものが自分にとっては別世界での出来事のように思い始めているということなのかもしれない。
テレビドラマといえば19日に一回目の放送があった大河ドラマ「麒麟がくる」。内容どうのこうのという前にあのギトギトとした、振り切るほどに彩度をあげた色彩に面食らう。テレビが壊れたのかと思った家庭も多かったんじゃないか。蛍光色に近い草の緑や空の青の、頭が痛くなるような色彩が画面を埋め尽くしていて、さらに最後のほうに出てきた堺正章の頬は赤く丸く塗られてまるで猿メイクだ。もっとも堺正章は昔猿の役をやってはいたけど。まるでサイケデリック・ムービーでも作りそうな勢いでこれもまた迷走する大河の一つの表れなのか。この勢いのまま突き進んで、よく言えば夢魔のようにシュルレアリスティックな明智光秀を見せてくれるようになるのか、単にセンスの悪いこけおどし的な色彩デザインの映像の垂れ流しに終始することになるのか、ドラマ本体以外の関心事も色々と呼び起こしそうだ。
この半月、木幡に住む姉の家にたまに遊びに行って過ごしていた。そのたびにカメラを持って出て木幡周辺の写真を撮り始める。去年結局カメラに詰めたフィルムはたったの三本で、そのうちの一本は去年の内に撮り終わり、残りの二本のうちのあと残りわずかだった一本をこうして今年に入って木幡での数日で最後まで撮り終えることができた。その後は去年の最後の一本を内に抱えこんだままだったFM3Aを持ち出している。これは去年の春に撮り始めてどうしても撮りたかった被写体を撮った、その時のたったの一枚で中断したままになっていた。とにかく停滞していたフィルムの消費が多少は動き出す感じで今年の初めを過ごしていたのはまず単純にいい兆候だろうと思う。あとやることもないし写真への関心も削がれがちな中、結構本を読んでいた。といっても暇つぶしの娯楽本ばかりだったけど。去年の終わりから続いていた怪談話や妙に文学っぽく太宰治や夏目漱石なんかに溺れかけてみたり、今年は絶対にトマス・ピンチョンのどれかと「失われた時を求めて」を読破してやろうとか、本を巡る興味は写真を撮りにいけない代償のように活発化しているようだ。と、興味が拡散していくさなか、今読んでいるのは村上龍の「半島を出よ」で、文庫が出た当時に買ったまま放置していたものを今さらのように手に取っている。なにしろ巻頭の登場人物一覧に、北朝鮮側の登場人物の区別しがたい名前が山のようにそれもカタカナで連なっていて、これは絶対に覚えきれないと降参状態の本だった。太宰治に関してもしも太宰がツィッターをやっていたらなんていう成りすましアカウントで展開しているのをチラッと見て、面白いことを思いつくもんだなぁと笑ってしまった。
人が死ぬ時、永遠に続く周りの世界の中でその一人の人格が消失してしまう、一人の人格が消失してしまっても周りの世界の連続性は断ち切られない。こういうのが一般的な捉えかたなんだろうけど、でもそうじゃなくて






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