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知覚の地図Ⅵ 甲斐田楽 / 頭部MRI検査のこと + そして村上龍「半島を出よ」を読み終えたこと = The Shaggsで関節が外れること。

風圧の旗





階層立体





隠された甲斐田案の家
Olympus XA2 / Ricoh Autohalf E
Lomography Colornegative 400

数日前に頭部MRIの検査。潰瘍性大腸炎の診察の時に、このところ少しめまいの気配があるなんてことをしゃべったら、こういう検査をする羽目になった。いわゆる閉所恐怖症には鬼門の検査だ。といっても検査自体は初めての経験だし、自分が閉所恐怖症なのか自分でもいまいちよくわからない。ディセントだったか、地底洞窟の細い裂け目を潜り抜けていくようなシーンがてんこ盛りの映画で、こんな裂け目で体が詰まって前にも後ろにも動けなくなったらと想像すると嫌な汗が出てきそうにはなったが、映画は明示的にそういう嫌な汗をかかせるようなシーンだったのは明白で、おそらくこういう感覚は誰にでもあるもの、私だけが特に岩の裂け目にはまって動けなくなることに極端な恐怖を感じるわけでもないだろう。と、未知なるものへの多少の身構え程度で検査へ挑むことになった。巨大なドーナツのような輪っかの機械をくぐる検査は以前にやったことがあるんだけど、あれはCTで放射線を使った検査、今回のこれは磁気を利用した検査で検査機器の見かけはよく似ているんだけど仕組みはまるで違うらしい。
機械の中に体の半ばまで入り込んでみると感覚までCTとはまるで違うのが即座に理解できる。かなり目の前近くを機械の内壁が通り過ぎていく段階で、妙な圧迫感に纏いつかれて、自分は閉所恐怖症じゃないと思っていたことになんだか自信がなくなっていく。もうこの段階で早く終わらないかなと目を閉じて心ならず我慢しているような気分になった。そして少しの猶予の後、いきなり耳元で大音響の騒音が鳴り響き、それが奇矯なリズムを伴って延々と続くようになる。検査開始だ。喧しい検査だとは聞いてはいたけどこれほどの騒音を垂れ流すとは思わなかった。とてもじゃないけど病院の機械が出すにふさわしい音とは思えない。耳元で削岩機を稼働させているような爆音の騒音がいつ果てるともなく続いて、目を閉じていると意識がその轟音の地平へと溶け出して大騒音と混じりあって限りなく不定形に広がっていくような錯覚に囚われそうになる。体の輪郭があいまいになって、そのたびに機械の外に出ている掌で自分の体に触り、ここに検査機に体半分突っ込んだ自分が横たわっているのを確認して、溶けだしてしまいそうな意識をつなぎとめているという、そんなあまり体験したことがない苦痛の時間が続いた。これは閉所恐怖症の人が途中で出してくれとわめきだすのも理解できると思った。めまいがするというので受けさせられた検査だったけど、めまいが生じている最中にこんな検査を受けていたら絶対に悪化していたと思う。苦痛の度合いで云うと、15分ほどただ検査台の上で寝ていただけなのに今まで受けたいろんな検査の中ではトップクラス。下剤を飲んだりという面倒さでは大腸内視鏡のほうがはるかに上だけど、もうやりたくないと思わせたのは確実にこちらの検査だった。

先日、村上龍の「半島を出よ」を読了。最初に出版された時に、北朝鮮の軍隊が福岡を占領するなんて、きな臭そうな話だなぁと興味を持つものの、あまりの登場人物の多さとその名前のカタカナの大行列に恐れをなして手つかずのままになっていた小説だった。それをようやく手に取ってみたわけだけど、これだけの世界を構築するのに必要だったとはいえやっぱりこの登場人物の入り乱れるような多さは手強く、結局最後まで巻頭の登場人物表は手放せなかった。とはいうものの物語の強さがそういう煩雑さをはるかに超えていて、結局物語の圧倒的な強度で最後まで読ませてしまう。
物語の強度を下支えしているのは云うならば「七人の侍フォーマット」といったものだろう。圧倒的な規模の北朝鮮侵略軍に、カリスマとは対極にいそうなイシハラのもとに集ったアウトローの少年たちのコミューン、イシハラグループが策略をもって対決するといった変形型「七人の侍フォーマット」。対決するイシハラグループは特殊な知識、技量を持つものがいるとはいえたった二十人ほどの素人の集まりで、従来的な組織の基盤にあるような何かの名目のもとに強い結束力で結びついているわけでもなく、イシハラがいうようにここにいるのも出ていくのもすべてお前の自由だというようなコミューンである一方、相手にする軍隊は鍛えられ装備も整ったうえに兵員の規模は300人に近いという、この絶望的な差をどうやって覆すのか、こんな状況を巡って進む物語が面白くならないわけがない。
物語は二つの軸に沿って進む。一つは北朝鮮侵略軍、物語の中では北朝鮮との関係を表面上断つために、北朝鮮反乱軍という名目で高麗遠征軍と称しているが、その北朝鮮の軍隊の目を通して現れる、いわゆる外部からの視点による現代日本の脆弱極まりない様相と、その外部の視点を説得力のあるものとして形作るための北朝鮮の多角的な描写から成り立っている軸。北朝鮮の視点といっても村上龍は北朝鮮で生活しているわけでもないから北朝鮮人が見る形をとっている村上龍の日本観ということになるんだが、その視線を通して現れるのは、人質を取られただけで右往左往し、テロリストに対してまずとるべき方策、これは物語中でも述べられている通り服従するか殲滅するかの、結局はシンプルな選択になる以外ないんだけど、その一番根本にある態度さえも決めかねた結果、相手が何者であるかも定位できずに何一つ有効な選択肢を採用できない日本政府の醜態だ。小説の中だけじゃなく、リアルな日本もまさにそんな風じゃないかと思わせる。人を最も効果的に支配し服従させる手段としての恐怖や暴力の使い方を熟知し、その目的のために、ためらいなく行使できるよう冷徹な相手に対して、人の命が世界で一番重いなんていう考えはほとんど足枷にしかならず、迫られた覚悟をわがものとしない以上、ただ立ち尽くし思考停止に陥るばかりだろう。またこの物語の中で描写される占領下の福岡の人の占領されたことに対する態度も、臭い物に蓋をするように福岡を閉鎖しただけであと何もやらない、あるいはできない日本政府への見限られたことに対する反発もあって、必ずしも抑圧された生活のほうへと進まずに、むしろ占領した北朝鮮軍に馴染んでしまうというのも、その生活人としての割り切り具合やしたたかさに、いかにも占領下のリアリティがあるんじゃないかと思った。でも小説としてみると膨大な資料に裏打ちされている分この軸はやっぱりどこか展開にもたついているところがある。おそらく誰もが登場人物の名前で苦労すると思うけど、政府の対策会議のシーンとか、ここにしか出てこない閣僚、官僚なんかが大半なので、あえて名前を覚える必要もないかもしれない。
そして物語を構成するもう一つの軸。こちらはこの侵略してきた大軍隊に戦いを挑むアウトローたちの生きざまを巡る様々なエピソードによって成り立っている、アナーキーなパートだ。北朝鮮の侵略に対して立ち上がるのはこのお話では自衛隊じゃない。物語として圧倒的に面白いのは情報小説的、政治シミュレーション的なポリティカルフィクションの軸じゃなく、この孤軍奮闘する後者の少年たちの戦いのほうだ。特に下巻後半の、北朝鮮侵略軍との戦闘開始以降の章は、その疾走感が半端なく、スリリングな描写を積み重ねてページを繰る手を止めさせない。意外なことに、硝煙の煙と爆風と吹き飛ぶ肉片の中で目を覆うようなシーンが幾層にも積みあがっていくのに、この章のタイトルはイシハラグループの一員、カネシロが放った言葉からとられて「美しい時間」と題されている。シーンの臨場感もそうだけど、このハードな外装のもとで命も何もかもが区別なく一瞬にして消え去っていく儚さを、これが世界の定理だとでも云うように見出して、こういう言葉を持ってこられる言語感覚もかっこいい。わたしはテロルのことのみを考え続けていたカネシロが極限の状況で見出したような、自分にとって美しい時間と明言できるほどの時間に出会ったことがない。いつかどこかで自分にとっての美しい時間を見出して「美しい時間は短いに決まってるじゃないか」なんて言うセリフを自分でも達観したようなそぶりで言ってみたいものだ。
このところ命の価値は長さだけなのか?とか、自意識は人にだけかけられた呪いなんだろうとか、そういったことがよく頭の中を巡っている。そういうわたしの頭の中にこのイシハラグループの言動と顛末は木霊のように響いてくる様々な音響を内に含んでいるようにも感じる。
たとえばイシハラグループの一人がこの最後の戦いのさなか、死の瀬戸際に追い詰められてこう思う。「これが死か。全然怖くなかった。自分の代わりは他にもいると思った。イシハラのところで得た経験によると自分の代わりはどこかにいて、自分は決して特別な存在ではない。自分が絶対だと思っている人は死に向かい合ったとき恐怖で錯乱するだろう」世界で一つだけの花がどうのこうのというような歌があるが、そういうのとは全く真逆の存在観だろう。世界に一つの花へと孤立させてそれが良しとする世の中でこういうことを言い切ってしまえるのはどこか風穴が開くような、解き放たれた感覚を覚える。もっとも代替不可能な唯一の存在となった村上龍がこういうことを言ってしまうのはちょっと鼻白む感じはするけど。
あと、エピローグのある印象的なシーンでイシハラグループの少年たちの名前が初めて漢字で記される個所がある。それまでヒノだとかトヨハラだとか全編カタカナで記されていたのがどこか非現実の世界であり神話的な感触を与えていた反面、ここで初めて自分と同じ地平に立つ者たちとして生々しい存在感で迫ってきて、これが思いがけず泣かせる。こういう言葉の使い方、ただ一か所に漢字を使うというだけである種特別な感情を引き出してみせるのはやはり作家の感性の発露なんだろうと思う。

それにしても純文学から出てきてこの下巻のようなエンタテインメントもきっちり書けるというのは強みだろうなぁ。殺傷用ブーメランを操るタテノとか毒虫使いのシノハラとか、もう二,三歩極端な方向に踏み出していたら山田風太郎だもの。上巻のような何らかの現実的な情報をもらえそうな、そういう何かを得るための道具として小説を読む人には、この下巻のある種荒唐無稽さに失速してしまうかもしれない。
わたしはこういうの大好きだ。むしろ上巻の大量の資料を駆使してリアルに侵略の様子を描いていく部分は、この下巻の少年たちの活躍を見せきるための迫真の舞台作りだと捉えるような読み方をしていた。
聖戦の宴が終わって一つ残念だったのはこのブーメランを操るタテノがあまり活躍しなかったこと、上巻のほぼ最初から登場して主役級の謎めいたオーラを放っていたのに。話を進めるにつれてブーメランの使いどころを見失ってしまったか。






My Pal Foot Foot - The Shaggs

MRIのインダストリアルミュージックを思い起こさせる暴走する大騒音とはまた違った居心地の悪さ、関節が外れたような異界へ連れ去ろうとする、逸脱する音楽。一口で云えばへたくそなんだけど、そのへたくそぶりが上手くなることを目指している過程のへたくそさじゃなくて、こっちのイメージしているへたくそさとはまるで次元の違う方向へ暴走しているのが面喰う。このレベルでレコードを作ってしまったのが本当に凄い。どこかで読んだ話によると、どうも本人たちよりも父親が熱心だったようで、この父親の熱意がなければレコードとしてはこの世界に存在することもなく、ある意味奇跡的なこの音楽は私たちの耳にまで届いてこなかっただろう。「半島を出よ」風にいうなら、何をなすのもすべて自由だとでもなるのか、イシハラグループのあのはぐれもの集団のように、理解されようと多数のもとに寄り添うつもりもなく、また逆にへたくそであることに積極的な意味づけをするつもりもなさそうなこの有り様が潔い。実にあっけらかんと悪びれもなくへたくそ。ヘタウマなんて言う言葉も簡単に跳ね返してしまうだろう。フランク・ザッパはビートルスよりも凄いといったそうだけど、そういう評価の仕方は逸脱に対する従来的感性による言説で、ありきたりすぎてつまらない。



ちなみに何枚かアルバムをリリースしていて、最初はこうであっても回を重ねるごとに、おそらく本人たちも意図しない形で手慣れていくというか、上手くなっていく。ところが手慣れて良くなるかといえばこのバンドに限りはそうじゃなくて、上手くなるほどに楽園から追放されたかの如くつまらなくなっていくのが衝撃的だ。



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