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知覚の地図XIII 托卵

人影





鎌影





居心地の悪い枯れた花





赤い紐
写真はホルガに135フィルムを詰めて撮っていたものを中心にいくつか載せてみた。撮ったのは2015年頃だ。

サミュエル・ベケットが美術に関する異様な評論「三つの対話」でこういうことを書いてる。
要約すると芸術家は失敗することを本領とすべきだといったこと。しかもその失敗は他人があえてしないようなやり方で失敗するようなものでなければならない。この文脈では成功を実現させる、あるいは完成までたどり着くためにはその裏でいっぱい失敗を重ねる必要があるといった意味合いの失敗じゃない。あくまでも純粋に自己完結していて、今まで世界に存在していなかったような失敗、そういう失敗こそが目指すべき唯一のものだと、そういうことを云ってる。そこからしり込みすることは戦列放棄であり、工芸品作り、日常であることに他ならない。
思うに学ぶこと、修練することは、誰もが認めるような何か見栄えのいいものへとたどり着くためじゃなくて、自分の失敗が過去に前例のないものであることを知るためにあるということなんだろうと思う。
前回の記事で幸福な失敗を生み出すカメラ、ダイアナのことを書いたので、ちょっと引き合いに出してみたんだけど、演劇なんていつのころからか関心の対象外になってはいたものの、自分はこういうところからもかなりの影響を受けているんだなと改めて思い知った。ベケットやイヨネスコの異様な不条理演劇も戯曲を読むのは結構好きだったし、ベケットはマルセル・デュシャンとも親交があったらしい。ダダイズムやシュルレアリスムの見慣れないヴィジョンに魅了されて、デュシャンは大昔、わたしの観念的アイドルの一人だった。逸脱、解体、相対化、個性からの解放、世界をとらえる新しい眼差なんていうテーマを巡ってベケットが「失敗」という言葉一つで導き出したような、そういう水脈のごとく続く思想の流れの中にわたしもいるんだと思う。
ただ失敗を目指せ!といえど、前回のダイアナにしてもそうなんだけど、今はその失敗であってもさえ毒気を抜かれて類型の中に秩序づけられ、理解され、了解可能な失敗として並べられていく。了解されないものは、本当はそっちのほうが本義なんだろうけど、失敗にさえたどり着けずに終わるのかもしれない。かなり前にビスケットカメラに関して書いたことでもあるんだけど、その逸脱がトイカメラ風なんて云う類型化されたカテゴリーに収められるほど、一つのジャンルとして理解可能なものへと変換されているなら、これは一見失敗に見えているだけで、本当の意味で失敗とは程遠い場所にいるんだろうと思うところもある。
とまぁちょっと屈折したようなことを考えながらも、ダイアナの記事を書いたのがきっかけで、あのあとフィルムを入れてしまった。ピンクのおもちゃ然としたカメラを持ち歩く気力や勢いを、わたしの体の中から呼び起こさないといけないはめになった。
フィルム装填 ダイアナ
ダイアナはおもちゃ然としてるくせに、フィルムはブローニーフィルムを使う。あらかじめ軸に巻いてある状態で売ってるフィルムを軸ごとセットして、その初端を巻き取り側にセットされてる空軸に巻き込んだあとは、撮影するたびに一コマ分の分量を巻き取っていくだけというシンプル極まりないやり方。巻き取り軸を回すいかにもプラスチックのおもちゃという安っぽいカチカチ音が子気味いい。フィルムと一緒に巻かれてる斜光紙に印字されてる枚数表示の数字が裏蓋に開いている赤窓から見えるので、それに従って巻き取っていけば、二重写しになることもない。あえて巻かない、中途半端に巻き取るといったことをやると意図的に多重露光や一部だけ重ねるなんて云うこともできる。

先日3か月ぶりの定期診察で病院へ行ってきた。もっともわが潰瘍性大腸炎はほぼ寛解状態なので、診察といっても、どうですか?調子いいです。トイレは一日何回くらい?一回か二回くらいかなぁ。出血はしてる?いや、してないです。じゃこのまま今の薬でいきましょう程度の会話でおしまい。一応診察としていつもの、お尻に指を突っ込まれて出血はしてないねとのやり取りはあったけど、それさえもごく短時間。あとはその日の血液検査と尿検査の結果を聞いて特に問題なしとのお墨付きをもらって診察室を出た。次はまた3か月後。ひょっとしたら大腸カメラをやるとか云われるかなと思ってたけど、それもなかった。大腸カメラ、検査そのものは鎮静剤を使うとほとんど苦痛はないものの、2リットル近い大腸洗浄液を飲むなんて云うのから始まる前準備がもう精神的にも体調的にも負担が大きくて、できればやりたくない。
指定難病の経済的な補助を受ける資格を持っているから高額な薬を使わなくてはならない場合もそれほどの負担はない。今回の領収書を見てみると補助がなければ9万近く払うことになっていて、こんなもの、文庫本でさえブックオフの100円文庫で漁ってるのに払えるわけもなく、そうなると治療を断念する以外になくなっているところだ。
ただ、補助を受けるのに審査があって中等症以上だけが該当するという制限は何とかしてほしい。不治の病であり軽症状態でも薬を使って維持する必要がある病気なので、軽症へと移行したからといって経済的な補助を切られれば、その対象から外された軽症状態でさえも維持できなくなる可能性が出てくる。さらに患者数が激増しているようで、希少性というのも変な言い方だけど、そういう病気の希少性が確保できなくなり一般的な病気になった時点で潰瘍性大腸炎そのものが指定難病の対象から外されることもありそうと、色々と先行きには不安な要素がごろごろと転がってる。国としてできるだけ出費を抑えたいというのもわかるんだけど、患者の状況に関してもうちょっと細かい配慮ができないものかとも思う。といっても安倍元総理の持病だから、何かちょっと配慮しただけでも優遇してるとか、またくだらない揚げ足を取られそうでもある。
最近自分の中で人気急上昇の食べ物がキャベツとアンチョビのソテー。サイゼリヤのつけ合わせメニューにあったもので、なんだかちょっと物足りないと思った時に200円で追加できたので注文してみると、これが素朴な家庭料理風の、優し気でどこか懐かしい味がして美味しかった。メニューにも「復活!」なんて云う言葉が添えてあったからサイゼリヤでの人気メニューだったのかもしれない。
サイゼリヤは貧乏人の味方というのもあるんだけど、潰瘍性大腸炎のわが身にとっても食べて大丈夫というメニューがいくつかあったから、食べに行ってもその中から同じものを注文するしかないんだけど、外食時にはよく利用する。イタリア料理というとなんだかイメージとしては真っ赤だったりして色の持つエネルギーだけでも大腸に悪そうなのに、オリーブオイルは潰瘍性大腸炎には意外と刺激が少ないオイルとして油分の補給には重宝する食材だったりする。なんだか店の人にも顔を覚えられてるようで、ドリンクバー飲み放題状態で食事の後もいつも本を読みながら長時間居座ってるから、今日は窓際の席、あそこが空いてますよなんて云う風に明るい席へ案内してくれる。でも限られた同じものしか注文しないから、あの人あの料理がよっぽど好きなんだろうなぁと思われてる確率が高い。
食べ物に関して、潰瘍性大腸炎は意外なことにあまり明確な制限がない。というか辛い香辛料なんかは別にして、これが必ず悪影響を及ぼす、必ず再燃のトリガーになるというような食品が特定されてない。暴飲暴食を慎むなら寛解に近い状態ではほぼ好きなように食べることができる。だからなのかわたしの主治医も良い効果が期待できる食べ物の話はするけど、こういうものは食べるべきじゃないといった話はまるでしてこない。病気に対する影響は腸を通過していく食べ物ならどれも何らかの形で存在するんだろうけど、でもそれが患者に影響してくる度合いは同じ潰瘍性大腸炎であっても人によって千差万別で、何が良くないかは自分の体で実験して自分なりの食べるとやばいリストを作るしかない。
とりあえずキャベツとアンチョビのソテーはわたしには大丈夫な食べ物だった。
200円のこの幸せは結構大きい。その場所に夢中になる本の何冊かを携えていればなお幸福になれる。

それとサイゼリヤのテーブルに置いてあるキッズメニューに載っている間違い探し。これが9月になって新しくなっていた。子供相手にしてはいつも凶悪なクイズで、前回のは何度か通ってるうちに10個の間違い全部発見できたけど、今回のはまだ6個くらい。目が開いてるか閉じてるか、花が一つ多いか少ないか、なんて云うわかりやすいもの以外は、微妙に角度が違うとか微妙に幅が太いとかそういう意地の悪い違いが多いので、大人でも頭をひねること確実だ。さて9月の新作は残り4つほどの間違いを全部発見できるか。




自粛世界へと世界が変貌してから、本を読むのはまぁいつものことで、読む量が増えたといった程度なんだけど、久しく遊んでいなかったゲームに手を出して、そっちのほうに結構はまってる。といっても新しいソフトを買ってどうのこうのといったものじゃなくて、ゲームをやらなくなった頃に手元に買い置いていたものに、ほぼ10年近くたってから手を出したという形。自粛を要望され始めた時にまずドラゴンクエスト8を、そしてその後ファイナルファンタジー12と、両方ともプレイステーション2っていう2世代前のハード用に出されたゲームで、その古臭いゲーム機に乗っかって10年前の世界へと旅してるっていうわけだ。ドラゴンクエストのほうは、買った当時、これを遊び始めてしまったら次のナンバリングのが出るまでまた2年か3年くらい待たなければならないんだろうなぁと思うと、始めるのはもうちょっとあとにしようという気分になって、それがそのままゲーム自体から遠ざかったのに巻き込まれて放置されることになったもの。ファイナルファンタジー12のほうはこのソフトに搭載された新システムが斬新すぎて、何もしてないのにその場をうろうろしてるだけで戦闘が終わってしまっていたりと、システムが判らないというよりもこれで本当に想定されてるような進み方をしてるんだろうかと疑問だらけの状態になった。これでいいのかなんて思って遊ぶのも嫌だ。そこでこんなに勝手に戦闘が終わるのがこのゲームのまともな遊び方なのか確認してから遊び始めようと思ったんだけど、そう思ったのが運のつき。結局確認しようと思ったまま10年近く温存する形となった。
10年前の無印12から始めて、この世界は高画質で体験したいと思いだしたら止まらなくなり、結果として最近新たな装いでリリースされたリマスターバージョンにまで手を出して、それを遊ぶために今年の終わりころには次世代のプレイステーション5が登場するというのに、終わりかけの現行プレイステーション4を買ったりするくらい熱中してしまった。
ゲーム内容を事細かく書いてもあまり意味もなさそうだからそういうのはまぁ書かないとして、10年後にタイムカプセルでも開くかのように始めてみたファイナルファンタジー12に対して一番初めに思ったことは、当時このゲームは酷評と嘲笑に晒されたゲームだったんだけどその当時のゲーマーたちの、そしてわたしも含めてものを見る目のなさについてだった。いったいあの時自分は何を見ていたんだって、本当に呆れ返る。当時この世界を構築したスタッフは、斬新であるが故に向けられたその理不尽なまでの無理解に対して、心底口惜しい思いをしたと思う。10数年後にリマスターという形で再び世の中に出現して、今度は世の中がようやく追いつき高評価に包まれてる状態をみて、少しは溜飲が下がったかな。
シナリオは製作者が病気で途中降板したらしくて、終わりのほうは急ぎすぎという感じがするものの、砂漠の中に出現した中東風近未来都市の、装飾に満ちた絢爛豪華な様相とか、この魅力的な世界構築へ向けた描写力、説得力は半端なく凄い。映像上のリマスターはワイドテレビに対応したのと解像度を上げた程度でポリゴンやテクスチャにほとんど変更は加えていないように見え、ならばこの描画力はプレイステーション2の時代にすでに実現されてたということで、当時のスクエアの技術力のすさまじさがよく判る。
中盤以降のシナリオの失速、帝国と解放軍の骨太の群像劇はどこかになりを潜めてしまい、なんだか古代遺跡巡りツアーみたいになってしまう部分でも、その遺跡の壮大さ、堆積した時間の重さ、滅びて久しい寂寥感、異世界さ、ロマンチシズム等に圧倒されて、占領と解放の闘争なんてそっちのけでツアー客になり切って楽しんでいた。遺跡のビジュアルの壮大さはモンス・デジデリオやピラネージなんかの作品が好きなら、ああいう世界の中に実際に入り込んでいるような感覚をもたらすので夢中になるんじゃないかと思う。
さてゲームも進み、この世界がもうすぐ終わり、ここから抜け出す時が近づいてるのかと思うとなんだかやるせない。12以降ファイナルファンタジーのナンバリングソフトは現在15まで来てるんだけど、12のこの世界はオフライン版ではこれ一作だけで終了している。一作だけでやめてしまうにはあまりにも魅力的な世界だと思うんだけど、どうなのかな。この世界の中でまた違う、濃密でプレイヤーを翻弄するようなストーリーのファイナルファンタジーを作り上げてほしいと思う。リマスターバージョンの出現でそう思ってる人は多いと思うよ。
曲は王都ラバナスタのダウンタウンの曲。長い間ファイナルファンタジーの音楽を作り続けていた植松伸夫氏から崎元仁氏に交代して、植松氏ほど旋律的な音楽でもなくなったのは残念だけど、従来のファイナルファンタジーを旋律的と云うならこの12ではどちらかというと音響的とでもいうか、植松氏では作らなかったと思える曲調となって、これはこれで興味深い。このダウンタウンの曲はパーカッシブでラテン好きの琴線に触れる。ただループが短すぎてちょっと単調かな。繰り返していることそのことが耳についてくる。
王都ラバナスタの地下に広がるこのダウンタウンのシーンはクーロンズ・ゲートを思わせて結構好きだ。実際この動画のように隅から隅まで散策してみたりしてると、人気が絶えた深夜前の錦通りでもそぞろ歩いてる気分になる。

ちなみに先日からプレイステーション5の抽選購入の予約が始まった。この感じだとおそらく当分手にできなさそう。アマゾンのマーケットプレイスでは早速転売屋が跳梁跋扈してるようで、定価5万円ほどの予定のものが40万近い値段で出品されていた。すでに間違ってクリックしてしまった被害者も出ている模様だ。
ハイスペックパソコン並みの内容だと思うから売値は最低でも10万くらいいくだろうと思っていたら、ディスクドライブ内蔵タイプのものでも5万円と意外と安い。現行のプレイステーション4と大して変わらない価格設定だし、この価格だとわたしもいつか買ってしまってるだろうなぁ。気のせいなのかプレステ4の中古ソフトの値段が心持安くなってるような気がする。こういう影響がでてるとするなら大歓迎だ。

















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