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知覚の地図XIV 風をはらむ服を着て

風を呼ぶ装置





角の靴





逆斜光





木馬





竹林風

風をはらむ服が好き。どこかかなたの広大な草原へ誘うような、風にのってかすかに異国の音楽が聴こえてきそうな服。先日ウエストベルトを後ろで結び垂らし、背中を編み上げる紐飾りのついた、ふくらはぎの半ばくらいまであるロングワンピースを羽織りはためかせて歩いていたら、午前中は晴れていたのに夕方近くなって急に雨が降ってきた。風も強く、はためく裾辺りがずぶ濡れになりそうで大慌てだった。日本じゃ乾いた草原という風には上手くいかない。
風をまとって思いをはせる曲と云うならボロディンのこの曲。ちなみにボロディンってこれだけの神がかり的な旋律をこの世界に生み出しておきながら、主に収入を得ていたのは化学者としてだったそうで、これは本当に吃驚。化学の世界でも名を知られてるそうだ。


スタンダードでは「ストレンジャー・イン・パラダイス」という曲として知られ、こっちはそのウクレレバージョン。キヨシ小林のアレンジで楽譜はわたしも持っていてずっと練習中だ。それにしてもこの人は、他にもこの曲集から演奏していて、そのどれもが上手い。始まってすぐの小指使いが痛いんだけど、苦も無く涼しい顔でその運指をこなしている。

もう一度書く。風をはらむ服が好きだ。流行り服など心底どうでもいいし、服くらい他人の目なんか気にせずに好きなものを着ればいいと思う。これこそ簡単に自由になれる方法だろう。どうせ短い命、そのただでさえ短い命のいくばくかを、他律にしか過ぎないわけのわからない束縛に供してどうする。最近歩いていて目につくのは男の子のマッシュルームカット。いくらかっこいいという共有意識が成立してるとはいえ、前髪をすべて前にかき集めておろすような、黒いヘルメット然としたヘアスタイルは画一的で、たとえかっこよくても、なんてつまらないんだろう。


キャベツとアンチョビのソテーにぞっこんになってから、家でも食べようと思ってアンチョビ・フィレを買ってきた。で、いざ家で手をつけるとなるとソテーするのが面倒になって、単純にキャベツのサラダの上に乗せただけでもいいんじゃないかと思いつき、そっちのほうをまず実行してみることに。
盛り付けのセンスのなさは別にして、キャベツの上に乗せたアンチョビの意外なほどに食欲を喪失させる見た目に若干のショックを覚える。話は違うんだけどポストモダン思考の写真なんて云うのをあれやこれやと試行している観点から見ると盛り付けのセンスを度外視してるのは脱構築と云えないかなと、これまた余計なことを考えたりして、そういえば料理にはポストモダンなんて云う潮流がやってこなかったんじゃないか。ノイジー、不協和、相対化、脱構築など、他の表現領域では観念としてわりと当たり前になっているようなものが料理の中には入ってきていない。味覚というのは観念的な快楽なんて云うのを全く度外視して、ただひたすら本能的快楽へ導く調和の感覚しか認めようとはしないってことなんだろう。
まぁそれはともかく、キャベツの上に乗せたアンチョビの、このポストモダン的な感覚。しゃきっとしたみずみずしいキャベツの上に乗るオリーブオイルでぬらりと濡れた質感の不協和音的なコントラスト。土気色で紡錘形の柔らかくぬめりをおびて光る物体は、キャベツの上ではまるでなめくじだ。なめくじ感を強調したければ、千切りのキャベツよりも葉っぱ状の外観が残っている、適度にちぎったキャベツのほうが適してると思う。
もちろんこれがなめくじではなくアンチョビであることは十分に承知してるわけだから、わたしは躊躇うこともなく口に放り込む。
でもあのサイゼリヤでのロートレアモン的な出会いを思い描き期待していたわりには、口の中ではキャベツとアンチョビがちっとも混じりあわない。ロートレアモン的な出会いが約束する痙攣的なものの不在。砕片化した二つのものが細部を細かくしながらどこまで行っても粒立ち良く共存して、それはまるでグルスキーの写真のような食感だった。しかもさらにキャベツからでる水分がアンチョビの塩味を薄めていく。
結果としてこのわたしの手抜き行為はソテーするという手順の偉大さを再発見することになった。単純な行程なのにこれがキャベツから甘みを引き出し、アンチョビのうまみと塩味を加えて混然一体としたものへ、それまでそこに存在していなかった何かへと変化させていく。炒めるという行為を一体だれが発見したのか、その人はそれが偉大な発見だったことに気づいていたのだろうか。
で、アンチョビというのは魚を本来のものとして味わうというよりも、結局のところ魚の持つコクというかうまみを隠し味として付け加える塩分調味料的な存在なわけだから、似たようなもの、例えば塩辛で代用できないんだろうかと思って試しに検索してみたら、キャベツと塩辛のソテーはすでに立派な一品料理として存在していた。誰もが思いつくことだったようだ。

自粛生活だった春から夏の終わりにかけて、いつの間にかやらなくなっていたゲームに手を出したりした以外は、いつもの如く本を読んでいた。読んでいたのは面倒くさい本以外は主に国産のミステリ。今読んでるのはちょっと毛色を変えてテッド・チャンのSF「あなたの人生の物語」だけど、この前読み終わったのは小野不由美の「黒祠の島」だった。同じく小野不由美の「残穢」を読了後に続けて読んで、小野不由美さん、小説書くのちょっと下手になったんじゃないかと思った。ジュブナイルの「ゴーストハント」シリーズや「十二国記」のようなページターナーのものを書いていた人のものとは思えない仕上がりだ。
両方とも現在形の時間軸では物語はほとんど動かない。これが物語の臨場感を確実に削いでいる。「黒祠の島」のほうは事件のすべては物語が始まる直前で終了していて、探偵役の人物は安楽椅子とまではいかないものの、現場を右往左往するだけ。島民からの異物排除の圧を受けながらという不穏なサスペンスは絡んでくるものの、いくらページが進んでも関係者を変えては情報収集するのみにとどまる。海外のミステリによくあるインタビュー小説とでもいったものに近い。ある人物に事情聴取をして、やっとそれが終わったと思ったら、次のシーンでは別の人のところへ赴き、再び同じ出来事に関する事情聴取のシーンになる。人によって別の角度になるとはいえ、今聞いた事件の同じ場面の話をまた最初から聞かされる羽目になる。
かたや「残穢」のほうもマンションに生じた怪異の報告をきっかけにして著者本人を思わせる主人公がその報告者とともに怪異の正体を探るという形で、物語の大半は過去の情報収集が埋め尽くすことになる。
小説も作者の語りを読むという点では同じとは云え、小説内で登場人物の口を借りて過去の間接的なエピソードとして語られる内容は絵画で云うなら背景的な要素を多分に含んでいくことになる。だからこの二冊を読んだ印象は背景ばかりが緻密で豪華な絵画を目の当たりにしている感じに似てる。エピソードに登場する人物もキャラクターが立っているというよりも、ディテールを欠き、輪郭線の少ない姿で背景の一部として紛れ込むように存在してるという印象のほうが強い。これは「残穢」のほうが顕著で、怪異がマンションの一室に起因しているものではないと分かり始めてから、その出所をマンションの建つ場所に求めていく過程で、そのマンションが建つ前にどんな家が建っていてどんな住人が住んでいたのか、一軒じゃなく複数の家が建っていればそれぞれの家族がどこから引っ越してきたのか、あるいは何をきっかけにどこへ引っ越して、引っ越し先で何があったのか、その引っ越し先のさらに後の時代に住んだ人はその後どうなったのかと、戦前を射程に含むほど遠い時代まで過去への調査が進むにつれ、その場所に関係する住人の名前ばかりが増えていって、メモでも取ってない限り混乱するのは必至の描写となっていく。「黒祠の島」のほうも事情は似たようなもので、登場した瞬間に強烈な印象を残す、唯一キャラ立ちしている登場人物、開かずの間の住人であり祭神の守護である、その存在さえ疑問視された少女「神領 浅緋」の登場は物語も終盤に近くなるまで待たなければならない。
まぁ端的に云うと両方とも小説風に肉付けされた名簿を読んでるようで、たいして感情移入もできない人物たちが動きまわるにつれて中だるみしてくる。この人誰だったかと前にページを戻るのも面倒くさくなるくらい、印象が薄いくせに人一倍煩雑な登場人物たちが熱中度に水を差し続ける。
こんな書きっぷりの話ではあったんだけど、テーマ的なものは結構面白いと思った。「残穢」は薄気味悪いホラーの出だしから、ご近所歴史ミステリとでもいうようなあまり例を見ない内容へと発展していって、その時点で最初にあった薄気味悪さ、怖さはまるでなくなるものの、自分の住んでいる場所だって自分が住み始めた時から時間が始まってるわけでもないし、辿っていけばこういう地域極端限定極私的歴史を見出すことになるんだろうなぁと、あるいは自分がいなくなった後でここに住む誰かはわたしがここに住んでいたことなどまるで知らないで過ごしていくんだろうなぁとか、そういうことを想像するような面白さが出てくる。「黒祠の島」は怪しげな因習が広まる孤島の村を舞台にした和風ホラー風味の物語で、でも起きる事件は極めて凄惨なものであってもことさらホラーに傾斜するでもなく、光明へと向かう道はどこにもないと思われる状況から、たった一人の犯人を指し示す論理の道筋を見いだしていく過程はまさしく王道のミステリそのものだった。この部分というかもうクライマックスになるんだけど、ここで無茶苦茶ミステリしてるじゃないかとそれまでだらだらと読んでいた姿勢がまるで正座でもする如く一気によくなり、しまったこういう風になっていくなら途中もうちょっと気を入れて読んでおくんだったと後悔させた。犯人開示と犯人とのやり取りで展開される罪と罰の考察も大谷大学だったか仏教系の大学の出身者らしい内容で興味深い。
「残穢」は山本周五郎賞を取っている。これが賞をとれるほどの内容だったかは正直わたしには微妙だったんだけど、その選評でこの本を身近においておくのも怖いといった内容のことを云われたらしく、これはないだろうと思った。恨みを残す者の、その恨みの相手のみがターゲットになるんじゃなくて、呪怨のようにちょっとでもその場所、ものに触れただけで、まるで無関係でも邪悪な何かが穢れとして無差別に伝播していくという内容だから、この本も忌むべき穢れを運ぶ書物そのものとして身近に置いておくのが嫌という意味だったんだと思う。でも人が誕生してから今の時代まで穢れを生み出す出来事、思いなど星の数ほども誕生してきたのは確実で、そういう意味では世界はすでに穢れがみっしりと敷き詰められてる。いまさら本の一冊を怖がってもしょうがないじゃないかとしか思えない。販促のために云ったとしても、わたしも含めてこの選評に気を引かれたほぼ全員が裏切られた思いを抱くことになるだろう。これは罪深いよ。この選評そのものが穢れについて書かれたこの本よりもはるかに邪悪な一種の穢れだろう。













日々更新していく世の中なので多少旧聞に属する感じになる。内容もそうなんだけど、語り口が無類に面白かった。もうこれ、芸だといってもいいと思う。この人が喋ることのプロなのかどうかはよく知らないけど、ネットの中を彷徨っていて思うのは、ただふざけてるだけ、寒い芸人の口調を真似てノリがいいと勘違いしてるといったユーチューバーのような人が掃いて捨てるほどいる一方で、在野にはプロでもかなわないような面白い人もごろごろいるということだ。
それにしても一つ目の動画のコメント紹介の中に京都系の学者なんて云う言葉が出てくるなぁ。立命の教授の、今回のああいった下手な三文小説でも今どき使わないような陳腐で知性の欠片もない恫喝とその醜態とか、京大の周りには未だにいつの時代かと思うような立て看板が立ってるとか、まぁ京都の大学が左翼の巣窟というのは否定はしない。京都は昔蜷川という共産系の府知事が長い間君臨していたし、そういう方向へと流れる下地はある場所なんだけど、それでも京都系なんて言う言葉のもとで、こういう内実のものとして知られてるのはやっぱり結構不名誉なことではある。





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