2020/11/20
知覚の地図XV 真珠母の貝釦、剥離する光
b.jpg)



最近ネットでファッションのコーディネート、コーデという言い方が大嫌いなのであえてここはコーディネートとフルで記すとして、そのコーディネートの写真を見ていてふと気づいたことがあった。これは商用のものであれSNSなんかで個人がお披露目してるものであれ、どちらもそうなんだけど、服着てカメラの前に立ってる人、どうして揃いも揃って伏し目がちに斜めを向いて視線を落としてるポーズばかりなんだ?その気になって眺めてみれば云ってる意味が分かると思う。何かの暗号か?このポーズにファッション上の何か隠された意味合いでもあるのかと勘ぐってしまうくらいこの類のポーズで撮ってる写真が多い。服が見栄えするポーズとも思えないし、本当に理由が判らない。みんな俯いて、悩み事を抱えてるようにしか見えない。
風をはらむ服もそろそろ寒くなってきそう。先日GUの店内を歩いていて、デニムのパーカーが1500円に値引きされてるのを見つけ、試しに着てみたら思いのほかよかったので、風をはらまないからといって何を躊躇する要素があると思い購入。これを書いているのは10月末で、この時期に着てみて、なかに厚手のTシャツ一枚でも汗がにじんでくるくらいの保温性はあった。セーターでも着こめば冬の間もいけそうな気がする。モカ色のガウチョとマーチンブーツの組み合わせで着ていて、デニムの色はあまり色落ちさせてないネイビー色だ。
デニムはボトムズのほうはもうまるで穿かなくなった一方、トップスのほうは好きでGジャン、モッズコートの類を持ってる。色は今回ネイビーと濃い目のを買ったんだけど、デニムは色移りが怖いのでいつもはかなり洗いざらして色を落としたようなものや古着しか買ったことがない。これは色移りはどうかな。怖いから濃い目の色を合わせて最初は様子見したほうがいいかもしれない。
Gジャンは自分で作ったピンバッジとかブローチを複数つけて遊んでる。


服は写真に撮るのが難しいね。平置きしてみたらしわの影やら色味やらがまるで思ったように出てこない。吊ってみれば吊ってみたで、形が上手く出てこない。下のコートは夏の終わり頃に買ったロンドンフォグっていうタグが付いていた古着だ。ピーチスキンの化繊混りの厚手の綿、裏は裏地以外にさらに取り外しができるライナー付きで2000円ほどだった。ロンドンフォグってどういうブランドだと調べてみたらアメリカのアパレル・メーカーらしい。ふくらはぎ中ほどくらいのロングコートで、長さが気に入って買ったもの。色も意外といい。一見ブルー系に見えながら基本はグレー扱いのくすみ色で、色のトーンを合わせたら反対色でもきれいに馴染んで意外なほど違和感がない。ディテールは実はラグラン袖は釣鐘のようで好きじゃないし襟の形も何だか今一つ、というか背中にヨークがついてるからこれはステンカラーのように見えて実はシングルのトレンチ・コートの襟か、さらにまくり上げられない袖のデザインは意味不明だし、サイズもそれなりにゆとりはあるんだけどもう1サイズくらい大きくてもよかったかなと微妙な塩梅だ。そのサイズ表示は「6/P」とあって、こんな表示は見たことがないのでさっぱり分からない。もう一つ付け加えるなら古着ならよくあることだけど、ウエストのベルトループがあるのに肝心のベルトそのものはついてない。まぁ古着だからこういうのをすべて満足できるようなのにはまず出会わないのが普通だろうし、長さというワンポイントで気にいるところがあればこれはこれで良しと思ってる。さてそろそろ着られる季節になってきたんだけど、裾のほうがしわだらけなのを忘れてた。ぞんざいな扱いで眠っていた古着なんだろうか。やっぱりちょっとアイロンかけておいたほうがいいか。
ワイド系の分量のあるボトムにマーチンブーツかチロリアンシューズのような武骨な靴、こういうのを合わせるのが好き。
写真の一部の色が微妙に褪せてるようにみえるのはおそらくレンズに汚れがついてるせいだと思う。メンテナンスしておかないと。
前の記事でも書いたように、好きなものを着たいように着ればいいと思う。また流行に乗らなければと思うのはばかげてると思う一方、流行ものが大好きならそれを躊躇うことなく着ればいいとも思う。この歳でこの服はいくら流行っていても着れないなんて思うのは愚の骨頂だろう。ただ流行のワンポイント的な着こなしとかだれもがやりだすと目についてかっこ悪いっていうのはある。最近だとトップスの前だけインと抜き襟。これはもう一目で、これが流行だよと誰かが提案してるのに簡単に乗せられてるなぁっていう印象のほうが、かっこいいかっこ悪いよりもはるかに目立って迫ってくる。時代の雰囲気である全体のシルエットとか大きな枠組みで存在する流行といったものとはもう意味合いが全然違って、直接的、具体的にダサい。そのダサさはセーターのプロデューサー巻きとかポロシャツの襟立とかに匹敵するほどの強力なパワーを秘めてると思う。もっとも綺麗で無難な着こなしに飽きてくるとあえてダサいものを取り入れたりと、かぶいてくるのもまたファッションだったりするので、ダサいからと云って一刀両断にできないのもこういうものの面白いところなんだろう。だから一目瞭然でかっこ悪いものでも、それを身に着けるのが好きならば堂々とその着こなしで身を飾ればいいってことだ。
それにしてもファッションのことを書きながらも何が流行ってるのかも、どういう着こなし方がかっこいいのかも何一つ書いてない、まるで役立たずの内容ではあるな。
このところ結構服のことを話題にしてる。テディベアのプリントされたシャツとかかなり以前に記事に載せたことがあったような記憶があるだけで、今までほとんど話題にしてこなかったのに。我ながらどういう風の吹き回しかと思わないこともないけど、結局これが今のわたしの大きな関心ごとになってるということだろう。そういう意味では写真のことを最近あまり書いてないのは関心度でちょっと距離が生じているということなのかもしれない。何しろ身体上の都合で思い切り出歩けなくなってるし、ちょうど一年前までは父の認知症の世話のために完全に動きを封じられていた。今使ってるフィルムは動きを封じられる前に買い、期限が切れるままに放置せざるを得なかったものなんだけど、これの使用期限が大体2016年頃だから、この辺りから福祉関連の人たちの手を借り隙を見つけてはまれに撮りに出かけることができた以外、動きが取れなくなっていたということだろう。病気にまとわりつかれてからはさらに制限が課せられて、機会は少なくなっていった。そんな感じで手元にあって消費もままならなかった期限切れストックだけど、多少でも撮り続けているとそれもいつのまにか残り少なくなってきて、撮りに出かける機会は急速には増えないかもしれないけど、そろそろ買い足しておかないとなぁと思い、この前ヨドバシカメラに行った時にフィルム売り場に立ち寄ってみた。久しぶりに見る新品のフィルムは予想をはるかに超えて高価になっていて、おいそれと手が出せない状態になりつつあるのを目の当たりにしてしまった。病気は一応今は寛解状態を維持、父の痴呆や世話のことからも解放されるという具合に、行動に対する枷は外されつつあっても、今度は金銭的な壁が目の前に積み上げられていってるような気分だ。
興味の行方と云うことなら、本と美術だけは別格として、もともといろんなことに関心を寄せるわりにはその時に興味を持ったもの以外は視界から外れ気味になるというようなタイプだと自分では思ってる。満遍なくいろんなことに深入りするような器用さは持ち合わせていない。
それでも少し写真のことに目を向けてみるなら、今まであれやこれやと色々と書いてきてることは結局のところ自分は写真がどういうものかいつだってちっとも分かっていないということの現れなんだろうなとは思う。分かってるなら単純にひと言で言い表せるだろうし、矛盾を含むのも承知の上でその時々で思いついたことをここに書き連ねていく必要もないはずだ。まぁ分かってしまうと面白くなくなるっていうこともあるかもしれないと思うなら、分からない分からないと思い惑ってるうちが楽しい時なのだと考えることもできないことはないだろうけど。
サイゼリヤ食べて応援の記事。このコロナ禍の中で億単位の赤字を出しているそうで、サイゼリヤ好きとしては何しろ貧乏人の味方ということもあり、とにかく閉店してもらっては困る。あの価格からでは想像もできない、意外なほど高級食材を使ってるとかミシュランの星を獲得してるレストランのシェフが、そのミシュランの店を経営する一方でサイゼリヤのバイトに入っていた話とか、話の内容も興味深い。
ここでお勧めしている料理の多くはわたしの病気ではかなり負担が大きそうなもので手を出すのは勇気がいるんだけど、良質のオリーブオイルとか、意外とわたしの持病でも大丈夫なものも多く、サイゼリヤはそちらのほうで堪能している。たとえば天婦羅一つでも海老の類や天婦羅そのものが鬼門となればうどん屋に入っても極端にメニューが制限されて、そういう店に比べると実はサイゼリヤってこってり濃厚な印象だったとしても、わたしにとってはうどん屋よりも食べても大丈夫なものは多かったりするわけだ。もう入り浸ってるからそのうちイタリア人になりそうだ。
そしてあの間違い探しの鬼畜ぶりはやっぱり共通の認識だったんだと、仲間がいてうれしい。
今テーブルに置いてある間違い探しの7つくらいは見つけたけど10個全部はいまだに見つからない。この前に置いてあったのは10個完全に見つけたんだけどなぁ。