2021/01/20
知覚の地図XVII あの懐かしいジェノバのゴムホースのぶつ切り
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それが何であるかを知りたいのなら、それが何でないかを知るのがいい。いつだったかこういうセンテンスを読んだことがある。たしかに一理あるだろうと思う。
写真は絵画じゃない。わたしの出発点はこれだ。わたしの思考が写真的じゃなくてどちらかというと美術に根拠を置いているのとは矛盾するんだけど、でも確実に絵画ではないものとしての写真が、そのあるべき姿としてわたしの中に存在する。
もっともそうはいってもアウトプットの側で思い通りのものが出てくるかというとまるでそんなこともなく、見栄えのいい絵にしようとか、そういう魂胆ばかりが目に付いたりもするんだけど、でもいつだってそういうのとは別の場所で自分の写真を立たせたいという思いは絶えることもなかったりする。
お正月のこともそろそろ書いておかないとまるで時季外れの話題になってしまいそう。今頃何云ってるのかと、まぁそう思われても構いはしないんだけど、まるで何もしない年始ではあったので、今頃何を云ってるのかと云われるほども、たいして書くことがなかったりする。なにしろ年末まで遊んでいたゲームさえも年始になった途端休止にしていたし、何をやっていたのか三が日を過ぎて四日か五日頃になったくらいでもう既に思い出すのに苦労するような状態だった。覚えてる限りでは映画を見て本を読んでと、まるでいつもと変わらないことしかやっていない。それ以外だとお正月ということで何もしないわりに気だけはちょっと大きくなって多少の散財をしたくらいか。
ゲームは年末にFF10をクリアして、20年前にクリアしたのと全く同じで、ストーリー知ってるのに再び涙腺崩壊の結果となった。あらためて体験してみると二段構えでプレーヤーを翻弄しながらも、泣かせることに一点集中していくシナリオも見事なんだけど、演出もドラマチックで綺麗で、最後の戦闘後、感情の頂点に向けて盛り上がっていく一連の展開なんか本当に見とれてしまうほどの出来だった。泣かされるほうに気を取られてると演出の見事さはあまり気づかないかもしれない。というよりも、これだけ盛り上げ、ビジュアル的に見せきる演出をしてるから、演出がどうしたとかいうことに気を取られる余裕もなく泣かされるほうへとすべてを持っていかれるんだろうと思う。
20年ぶりに再プレイしてみての感想はまるで細部まで覚えていたことに我ながら吃驚したということ。昨日やっていた続きをプレイしてるような感覚で20年の時を飛び越えてしまった。それは初見の時の体験がよほど強烈なものだったということだろう。ただ、今回再プレイしたことで記憶が今のものに上書きされてしまって、懐かしさが見事に全部吹っ飛んでしまったことが、これが残念と云えば残念か。
FF10リマスターバージョンには同梱になってるFF10-2を続けてやるつもりで今序盤を少しやったところで中断してる。こっちも20年前にプレイして結局再会エンディングにたどり着けなかったのは覚えてるものの、こちらはFF10とは違って内容はあまり覚えていない。ゲームが進んでそういえばこんなシーンを見たことがあったっていう程度の思い出し方で、やっぱりゲームとしてのインパクトは本編にはかなわなかったというところだろう。ヒロインであるユウナのキャラクターも続編なのに別人のように激変してるし、召喚士の過酷な運命から解放されて明るい部分も出てきたんだとみるとこれも有りかと思えてくるものの、FF10の健気なユウナに惚れたプレーヤーだとこのFF10-2の弾けたヒロインは受け入れられなかった人も多かったみたいだ。
散財方面では年末にJINSの店頭でセールに出ていたフレームを見て、くすんだえんじ色のセルフレーム、フォックスタイプのものを買った。買った次の日にオンラインショップでさらに1000円値引きになってるのに気づいて大ショックだったんだけど、なぜか店頭のセール品はその後も元の値段のまま。オンラインショップだけがさらにセール品の値引きをしているという謎の展開になっていた。で、セール品として買って知ったのは、JINSの場合セール品はレンズ保証はつくもののフレーム保証はつかないってこと。何事もなければ意味のないサービスだけど、JINSのフレームの信頼性とかまだよく分からないからこれは保証がついてる形で買うほうがいいのかなと思った。丸っぽい眼鏡が好きだったけど最近はフォックスやキャッツアイみたいなデザインのほうがどうも顔写りがいいような気がして、昔から続いていた丸眼鏡熱が急速に冷めてきている。醒めてくると感覚の変化も劇的で、あれだけ好きだったのになんだか丸い眼鏡の時代錯誤的なちょっとした外し部分が、本気で時代錯誤のもの、受け狙いのものに見えてきた。

それと、この眼鏡のほかには同じく去年の暮れにクレマンのチロリアンシューズ、そして新年に入ってからちょうど去年の今頃にも買ったドクターマーチンの8ホールブーツと、さらに完全に衝動買いでエンヤのカーボンファイバー製のコンサートウクレレなんていうのも手を出してる。
ちなみに最近ユーチューブでファッションのチャンネルを見ていたら、ファッションのポイントは視線が止まる場所にあり、お金を費やすとするならそのポイントを重点的に考えるというのがあった。着てる服などそういうものに比べると別にブランド物に走らなくてもいいんだって。そのチャンネルによると、視線が止まる場所っていうのは先端、端、であって中心じゃない。胴体を着飾るものよりも足の先、顔回りなどが視線にとってのポイントとなる。ということでそのチャンネルでの話はファッションでの靴の重要性と、顔回りのアイテムとして今の季節に合わせてマフラーやストールといったものを取り上げていた。こういうのを安物で済まさなければファッション全体の質が上がると。
年末年始の散財はメガネと靴と、期せずしてこのポイントを狙い撃ちしてる形となり、さてわたしのファッションの質が上がるのかどうか。眼鏡好き靴好きっていうのはやっぱりそれなりの理由があるんだなぁと、妙に納得していた。
年末に読み終えた本は吉村昭の「星への旅」だった。戦記物や時代物の書き手というイメージがある人だけに初期にこんな異様なものを書いていたというのがまず驚きだ。死の匂いに満ち満ちた、考えようによっては年末年始に読むような代物でもない短編集で、「少女架刑」の斬新な語り口とその語り口でないと辿り着けない、死の彼方へと続くヴィジョンを表出しえたものも面白かったが、日常の倦怠感に溺れるように、することもないし自殺でもするかというノリで賛同しあった自殺者のグループが、自殺すると決めた場所へ向かってトラックで旅をするその心の動きを描く表題作の「星への旅」も出色の出来だったと思う。漠然とした理由ゆえにいつでもその場を離脱できるにもかかわらず、また目的地が近づいてくるにつれ死が輪郭をもって立ち現れてくるにもかかわらず、やっぱり止めるわと生きる側に簡単な一歩を踏み出せないままに、自殺予定の最終地に突き進んでいく。これは「少女架刑」の解剖されていく少女というようなイメージ的に激烈な部分はあまりないにもかかわらず、後々までまるでトラウマのように心に秘めやかな傷を残しそうな、いつまでも頭のどこかに引っかかって離れないような印象を残す。事実「星への旅」のほうは太宰治賞を取っているらしいし、この後を引く読後感ならそれも納得する。
その後年始からは複数の本に同時に手を出して、今は逢坂剛の「斜影はるかな国」をメインに、他には杉浦日向子の「一日江戸人」、怪談集「新耳袋」、荒俣宏監修「知識人99人の死に方」なんかをその日の気分で複数冊バッグに放り込んで出かけたりしてる。「斜影はるかな国」は自分が読むものとしては久しぶりの冒険小説っぽい内容のもので、スペインの内戦下の時代が絡むスケール感のある舞台に、当時フランコの反乱軍側の外人部隊に属していたらしい日本人の消息をたどるというロマンチシズムを絡めて、先へ先へと興味を引っ張っていく。新耳袋は怪談は定型だ、形式の文芸だと云わんばかりに、読んでいる間じゅう、どこかで見聞きした似たような怪談が呼び起されたりして、なんだか読んだしりから記憶とごちゃ混ぜになりそのまま忘れていくようなところもあるんだけど、短い怪談話の集合はむしろその量を楽しむような感じになってくる。
「知識人99人~」はまさしく生き様の総決算としての死に様が、それこそ各人各様の状況として紹介されていて、生から死というのは現象としてはおそらくもっとシンプルに、誰も等しく匿名的に移行するもののはずなのに、これだけの個別の死を生きるような個性が出てくるんだという思いを新たにする。孤独死に近い形であってもみんな一世一代の死を晴れ舞台でも踏むように演じ切っている。孤独死を恐れながらも孤独死に追いつかれてしまった森茉莉なんか晩年の生活そのものも壮絶だ。結構読んだりしていた贔屓の作家でも、たとえば稲垣足穂だとか、どういうこの世の去り方をしたのか知らない人も多く、その最後を知ることで人物像の欠けたピースが嵌っていくような、その人の全体像がそのことでようやく完成していくような感覚を覚える。まさしく死の形は生の輪郭を決定するといったところか。そして全体はそこはかとなく恐ろしい。どんな著名人にでも分け隔てなく死神が、それも同じことばかりでは自分も飽きるんだよとでも云いたげに手を変え品を変えながら、待ち構え忍び寄ってくる様を99例も見せつけられて、その逃れようの無さがこちら側にも浸潤してくる。わたしの持っているのは文庫版なんだけど、単行本のほうは珍しい写真満載のようで、単行本を買い直そうかと考えてる。文庫のほうには写真なんて一枚も入ってない。(これを書いた後ヤフオクで安く出ていた単行本バージョンを入手)
映画のほうはダニー・ボイルの「イエスタデイ」だった。これはバンドをやってる人だとまず誰もが妄想したことがあるような話題をテーマにして、ビートルズが存在しない世界に紛れ込んでしまった売れないミュージシャンの主人公が自分が記憶してるビートルズの曲を自分の曲として発表し有名になっていくという話。似たような話だと日本のコミックでかわぐちかいじの「僕はビートルズ」というのが先行して存在する。「イエスタデイ」のほうはビートルズが完全に存在しなかった世界での物語だけど「僕はビートルズ」のほうはビートルズのコピーバンドがビートルズがデビューする直前の世界へタイムスリップする話で、こちらはデビュー直前とはいえ本家のビートルズが存在する分ストーリ構築の難易度は遥かに上がってる。
でもこういう内容だと、他人の曲を使って有名になってめでたしめでたしなんていうハッピーエンドにはまずなりようがないのも確実で、そういう意味では結末はもう初めからある程度決まってしまってると云ってもいい。そして予想通り物語はこじんまりとした予定調和的なもので落ち着いてしまい、その辺はまぁこういう落とし方しかできないわなぁっていう感じだった。派生するエピソードで一つちょっと感慨深かったのは最後のほうにこの世界では生き延びることができたあの人が老人となって出てきたこと。映画では直接は描かれてはいなかったけど、おそらく1957年7月6日のセント・ピーターズ教会、そのガーデンパーティーでの運命的な出会いも果たさず、クオリーメンもビートルズへと変身できなかった結果、漁師として70歳を超えるまで生きることができたその人と、海辺の美しい光景の中で出会い主人公は感極まる。わたしも本当にそこまで生きたあの人の姿を見てみたいと思った。それにしてもどこでこの役者を見つけてきたのかそれともメイクの技術だったのか、あの人が年とっていればこうなっていただろうと納得させるような姿で登場したのはこっちも主人公並みに気分が高揚した。反対に疑問だったのが二つ。一つは主人公がビートルズとはまるで似ても似つかない見た目、雰囲気だったことかなぁ。この見た目だけで到底有名になれそうもない雰囲気を目一杯纏わりつかせてる。もっともビートルズを連想させるような主人公だったら都合過ぎる内容になってたと思うから、そのままではのし上がれそうにないあのもっさりした主人公でよかったのか。
もう一つは考えてみれば主人公は結構悪党だったんじゃないかっていうこと。朴訥な外見とか最後にささやかな幸せを見つけるような終わり方になってるからなんとなくごまかされてるけど、この主人公の行動で右往左往させられる人に対する主人公の配慮のなさはそういう視線で見てみれば結構唖然とするところがある。辣腕マネージャーとかまるで金の亡者みたいな描かれ方をしてたけど、冷静に見てみれば主人公に騙され翻弄された被害者じゃないか。ラストに性懲りもなくオブラディ・オブラダをまだわが物のようにして歌ってる、ちっとも善人じゃない人の無反省な一人だけハッピーエンドっていう部分が気配としてでも察知できるから、見終わっても単純に良かったねなんて云うのと違う、なんだか妙にはぐらかされたような気分が残ってしまうことになる。
今年は初詣ができるので、ちょっと時期を外して9日に、わざわざ寒波襲来の中、伏見稲荷へ行ってきた。参道の屋台は元旦から廃止していたそうで、本殿に至る参道からとにかく閑散としており、本殿に着いてももう寂れてると云っても納得してしまうくらいの人の少なさだったけど、中国語が飛び交わない空間はやっぱりこういう場所に似つかわしいと思った。このぐらいの人出のほうがいい。
二年ぶりにお守りを、それも前の人が白狐のマスコットになってるストラップ型お守りを買ったのにつられて同じものを買ってしまう。バッグにぶら下げておくくらいしか思い浮かばないんだけど、そういうのをバッグに下げておく趣味はなかったりするので、さて買ってしまったもののこのお守りをどうしようか。趣味でなくてもバッグに下げておくしかないかな。
おみくじを引いてみれば、これは大吉だったので、一年の始まりとしては望ましい結果が出た。もっとも伏見稲荷のおみくじはさらに「大大吉」なんていうのもあるから、これが最上ということでもないんだけど、まぁとにかく大吉ではある。これで文句をいえば罰が当たりそう。あえて凶を引いて境内に結びつけ、今年の悪いものを全部お稲荷さんに負担してもらうというのもありかもしれないけど、やっぱり凶の類を引いてしまうのよりは遥かに気分がいい。ということでこの日は機嫌よく帰宅ということとなった。
この辺りは来たのは本当に久しぶりだった。デジカメを持ってはいたけど、なんだかカメラでいろいろ撮り歩くという感覚からちょっと離れてしまって結局バッグからも取り出さずじまい。裏にそびえる稲荷山は以前はここへ来るたびに登っていったりしたけど、今は体のことでなかなか登り辛くなってる。もう頂上まで登るなんてことはやりようがないだろうなぁ。山中にある眼力社へまた参拝しに行きたいんだけど。
恋に生きる男たち
オーティスに捧げる歌
1968年に2曲カップリングのEPでリリースされたウィリアム・ベルの曲。B面のミディアムテンポのソウルフルなバラード「恋に生きる男たち」が凄い好きだった。以前にも取り上げたんだけどね。それにしても相も変わらず検索してもほとんどヒットしない。そんなに忘れられた曲なのか?