2021/03/20
知覚の地図 XIX コンピュータをバターでいため、牛乳をまぶしたものを少しなめる。
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ちょっとラバー・ジョニーっぽい?

わざわざコンピュータなんて云うたいそうなものを炒めた挙句、牛乳までかけて、ただそれをなめるだけ。

ただひたすらなめるだけ。
先日ユニクロで今年のサングラスを一つ買った。色のついてないクリアタイプのサングラスで、見た目はサングラスというよりも要するに伊達眼鏡。それにしてもこれを1500円で売りに出すっていうのは本当に凄い。素材はサンプラチナ風で鈍い光沢の白金色。もちろん高級なサンプラチナに似せてあるだけの普通の安い素材なんだけど、見た目のクラシカルな高級感はかなり出ている。サンプラチナ風の質感も相まって、もう閉店してしまった眼鏡研究社で売ってたようなシンプルでシックな、コクトーの線描画風の眼鏡を思い出させる。シュルレアリストやダダイストがたむろしていた20世紀初頭のパリのカフェなんかに似合いそうだ。ラベルにはラウンドと書いてあったけどボストンっていうほうが正確だろう。

ちなみに一緒に写したピンクの眼鏡ケースはハードケースをファスナーで開閉する仕組み。フライングタイガーで400円だった。使ってみて分かったのはバネで開くタイプのほうがはるかに使いやすいってこと。いちいちファスナーを開け閉めするのは眼鏡ケースでは予想以上に面倒くさい。
フライングタイガーと云えばあのミニ・アコーディオンが見事に売り切れ店続出だそうで、やっぱり欲しくなるよなぁと妙に納得。残り二台の時に買ったわたしは、乗るつもりの電車が必ず目の前で発車してしまうような自分にしてはタイミングが良かったなと思う。
街中をアコーディオン片手に歩いてる人が続々と続いていたら面白いのに。
サンプラチナ風の伊達眼鏡同様に、このアコーディオンもまた20世紀初頭のパリによく合う。両方身の回りに侍らせてはレトロ三昧と洒落こもうじゃないか。
三島由紀夫「花さかりの森・憂国」を再読。昔学生の時くらいに読んだ本。「花さかりの森」という言葉の風雅で色彩感豊かで幻想的な光景が広がっているようなイメージが好きだった。今でもこのタイトルは好きで、でもタイトルが好きなくせに、なぜかどんな内容だったのかまるで覚えてない。「憂国」のほうはこれ以上ないくらいにはっきりと覚えてるのに、こっちは本当に読んだんだろうかというくらい記憶から抜け落ちてる。今回再読してみたのも、純粋にもう一度読んでみたかったということ以外に、なぜ覚えてないのか確かめたかったということもあった。
読んでみた結果はどうだったかというと、「花さかりの森」と次に収録されてる「中世に於ける一般人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」の冒頭の二編は何が書いてあるのかまるで理解不能という予想外の結果となった。初読のことが思い出せなかったと云うのは、記憶から抜け落ちてたんじゃなく何が書いてあるか分からなかったっていうのが、あるいはその意味不明さにこの二編は途中で読むのをやめたと、おそらくそんなところだったんだろうと思う。日本語で書いてあって、別に哲学の論文や物理の本でもないのに、何が書いてあるのか理解できないとは、ある意味稀有な読書体験ではある。
古臭い勿体ぶった言葉遣いで綴られていて内容も追憶を巡る話なのでまるで年寄りが書いた話のように見えるものの、これを書いたときの三島由紀夫は16歳、なんだか16歳であることに引け目を感じてるかのような精いっぱいの気負いと、本性をさらけ出すことへの煙幕として、この古びた言葉の背後に素顔の自分は隠れてしまおうと思ってでもいるようなところのほうが目についてしまう。後年に鍛え上げた肉体という鎧を着たのと同様に言葉は表現の唯一の手段であると同時に自らを守る強固な鎧ででもあるかのようだ。小説そのものも自分の書こうとしてることを重厚で風雅なものに組み立てようとすることに精いっぱいで、これが他者に読まれるべきものだと云うことをどこかで置き去りにしてしまってるような書きっぷりだ。要するに若書きなんだと思う。確かに16歳で老人じゃないかと思わせるほどこれだけの語彙を操るのは大したものなんだけど、背伸びしている部分を除くとただそれだけに終始してるようなところもある。
この本は自選短編集で巻末に三島由紀夫自身のそれぞれの作品についての解説がついている。「花ざかりの森」に関しては編集のほうで「花ざかりの森」というタイトルを本の題名に使いたいという意向があったから選んだだけで、本人はこの作品はもう愛さないと切り捨てている。この本人による寸評が的を射ているというか、さすが本人、的確にとらえてるというものだった。
おそらく分析的に精緻に読み解いていけばそれ以降の三島作品の萌芽も見られて理解も進むんだろうとは思うものの、本人がもう愛さないと云ってしまったものにそれほどの情熱と熱意を傾ける気にもなれず、わたしにとってはタイトルだけが記憶に残る意味不明の作品として定着しそうだ。
次の「中世に於ける~」は冒頭「室町幕府二十五代の将軍足利義鳥を殺害」という一文で始まるが、室町幕府は十五代足利義昭、去年の大河で滝藤賢一が演じた涙目の将軍で記憶も新しいこの将軍が最後で、二十五代将軍足利義鳥という人は存在しない。こういうところにしれっと虚構を混ぜ込んでくるのは根っからの小説家、しかも策略に満ちた技巧派の小説の書き手としての片鱗を見せていて興味深かった。
他の収録作品は小説としての完成度もはるかに上がって、きちんと小説の形になって何が書いてあるのかも理解できる。一遍だけ「憂国」が飛びぬけて異様な光芒を放ってるせいで、なんだかそれ以外の作品が霞んでしまいそうなところもあるんだけど、テーマや主張に頼らずに、それぞれ物語の力学だけで作り上げたような技巧的な作品が並んでいて、テーマを欠いていては駄目だとか云う思考の人にはだから何?と、物足りないかもしれないけど、わたしには面白かった。技巧を駆使して多面的な小説を組み上げた小説の魔術師、久生十蘭タイプというか、こういうタイプの作家はやっぱり好みだ。「橋づくし」「女方」「月」「海と夕焼け」辺りが好みかな。「卵」のユーモアに寄ったような作品はすべっていてわたしにはあまり面白くなかった。三島由紀夫はコメディだけは向いてなかったと思う。
とにかくこの短編集では「憂国」が圧巻だ。登場人物は二人、舞台はほぼ一軒家の室内に限定され、ストーリーも極限までそぎ落とされて、自刃のシーンがクライマックスだからというわけでもないけど、薄く研ぎ澄ました刃のような切れ味のいい内容となってる。エロスとタナトスのせめぎあう中で顕現する至上の生。こういうものを端的に表出しえたのはこの思い切った設定と展開によるものだろうと思う。作家自身の最後の行動から自刃の物語としてのみ捉えられることも多い作品ではあるものの、その直前の交媾のシーンもまた印象に残る。というかむしろこっちのほうが物語の核をなしてる部分だろう。割腹の前に、死を目前にしてもうこの先はどの未来にも続いていないという中で、これが最後のものとして妻と情を交わす。それは一度限りの選ばれた瞬間であることにおいて、この先永遠に生きたとしても体験できないに違いない快楽を与えてくれる。この先たとえどれほど生きながらえてもただ空しいだけの命が続くことを確信させるような快楽。そしてその至高の一瞬は当然の如くそれを生み出した死へと流れ込む時間の中で、手にいれた瞬間に零れ落ちていってしまう。それはまるで手元に握りしめていられないことが至高点の条件だといってるようだ。
割腹というかなり強烈なシーンをクライマックスに持つ物語なので、全体が死の気配に満ち満ちたものと受け止められがちだと思う。でもむしろこの作品は普通では絶対に体験できない究極の生についての物語だろうと思う。自決によってもたらされた苦痛が夫との間に忍び込み、その夫の苦痛によってふたたび引き離された妻が、あとを追うことで自らも夫同様の苦痛を引き受け、再び夫と一つになろうとするなんて、まさしくこういうことだろう。
ちょっと読んでいて思ったのが、時間こそが「死」そのものなんだろうなってこと。時間は死の化身だ。死が時間を、それはまた生そのものでもあるんだけど、その時間を生み出す。時間の存在しないところにはまた死も存在しない。
Gavin Bryars - 1, 2, 1-2-3-4
Obscure Records No. 2: Ensemble Pieces -- Christopher Hobbs, John Adams, Gavin Bryars (1975)
ブライアン・イーノのオブスキュア・レーベルの一枚から。気がつけば40年以上前のレコードになってしまってる。実験音楽、環境音楽の存在をポピュラーなものにしたさきがけのようなレーベルだったけど、こういうのは古くならないなぁ。
アンサンブルとなってるけど奏者は他の奏者の演奏に合わせてじゃなく、各自のヘッドフォンに流れてる音楽に沿って演奏していて、全体のアンサンブルと各奏者が演奏してるつもりの音楽とは必ずしも一致していない。夢の中で揺らぎ現れては消えていく音楽の断片といったところか。
ちなみにペンギン・カフェ・オーケストラはこのオブスキュア・シリーズでデビューしてる。

ラッセル・ミルズの手によるこのオブスキュア・レーベルのレコードジャケットが大好き。全10枚すべて、このどことも分からない、古い絵葉書のような遠い時間と空間を閉じ込めた謎めいた光景の上を若干透過性のある黒いマスクで覆い、その後10枚のレコードそれぞれに違う位置で、その黒いマスクの一部分を小さく開けてあるといったデザインになっている。謎めいた背景の雰囲気が、マスクをかけ一部を開けるという、これだけのデザインワークで思う以上に強調、倍加されることになる。
ずっと長い間、この暗いマスクに覆われた場所は世界の一体どこにあるんだろうって思ってた。一度こういう雰囲気の写真を撮りたいと思って以前の記事にその撮った写真を紛れ込ませたりしてる。
ところが最近このマスクを明るく目立たないように画像処理したイメージを見つけて、背後のこの光景が結構はっきりとした状態で観察できたことがあるんだけど、そうやってみて初めて気づいたのは、この光景がどうやらコラージュされたものらしいと云うこと。何十年もこれはどこだろうと思ってた答えは、世界中のどこを探しても見つからない非在の場所だったということだ。ただどこかを写して色褪せただけの写真じゃなくて、こういうよく見ると切り貼りした痕跡も残るような作り物の写真が夢で見たような雰囲気作りに役立っていたんだ、こういう風に作ったイメージだったから何十年もこれはどこなんだろうという興味をひき続けることになったんだと、改めてラッセル・ミルズのデザインセンスに脱帽することとなった。
この映画すごく面白そう。ドールハウス好き、ミニチュア好きの琴線に触れまくってる。出来上がった映画の作り物然とした箱庭感も興味を引くんだけど、この制作風景の、巨大なミニチュア、ジオラマの中に座って作業を進めてるこの中に一緒に入ってみたいといった衝動のほうが強いかも。小さくなってドールハウスの中で生活したいと思っていた欲望が再燃する。
ゲームでもFFを手掛けた坂口博信の新作「FANTASIAN」がジオラマ然とした箱庭風世界で無性にやってみたい。PS4でも5でもいいから出してほしいなぁ。
ユーチューブの広告スキップボタンに似せて、結局広告終了まであと何秒っていう表示が出るだけでスキップさせてくれないあのボタン、たとえ短い広告であっても妙に腹が立つ。