2021/04/20
知覚の地図卄 赤と青の魂の具は億の星

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二枚目のが撮った本人としてはお気に入り。と、余計なことを書いてみる。
1,3 Naturaclassica + Natura1600
2,4 Last Camera + Lomo Colornegative 400
漢字一つとひらがな一つが交互に並ぶ文字列。一つの法則に生み出されるなんだか意味がありそうで、そうでもなさそうな空間。さらにそこからひらがなを抽出して、それを並べて検索してみる。「とののはの」はさすがにそのままというのはヒットしなかったものの、「はののはの」という文字列を使ってる人は一人いたなぁ。これは誰もやってないだろうっていうのを試しに検索してみても、たいてい誰かが先にやってたりする。何にしろ、これを試みたのはわたし一人だという孤独はまだ味わったことがない。味わってみたいとも思うが、それが幸福なのか不幸なのかは分からない。
先日レストランで通路を挟んで前の席に座ったサラリーマン風のお客さんを見るとはなしにみていたら、とにかくスマホを手から離さずに一心不乱に眺めている。注文時もウェイトレスのほうをちら見するだけで視線はすぐにスマホに逆戻り。料理が運ばれてきても料理に一瞥するだけで、視線はやっぱりスマホに釘付け。食べている間もそんな感じで、フォークを差したり食べ物を取り上げる時はさすがに料理のほうを見ているものの、口に運ぶときにはもう視線は手にした料理の方向を向いていない。
凄いなぁ。いつまであんな食べ方してるつもりだろうと思ってたら、結局最後までそんな感じで店を出ていった。食事する時くらい自分が食べようとする料理を見ろよ。食べ物に失礼だろう。
電車の中もこれは携帯電話が普及しだしたころから一緒だけど、やっぱり異様な雰囲気はちっとも変わらない。わたしは本を読んでるんだけど、たまに見渡してみると他のものを出してるのはほんの数人でほぼ全員がスマホの画面を一心不乱にのぞき込んでいる。みんなあの小さな機械の奴隷になってるんだなぁとしか思えないし、洪水のように氾濫する情報をひたすら収集することで思考した気分になっている。こういう光景を見ていると、ひょっとしたらコンピュータって便利にするだけのろくでもない機械なのかもしれないとも思ったりする。スマホだって炒めて牛乳かけてなめるくらいはしたほうが人類の精神史には好影響を及ぼすかもしれない。
限りある時間の中でしか存在することができないのに、その限りある時間の中で液晶を通して今まで見てきたと思っているものを振り返って問いかけてみるといい。本当に何かを見てきたのか。
サイバーパンク?むしろ肉体回帰のオブジェ偏愛だ。
奴隷というキーワードで次の話につないでいこう。
しばらく前に沼正三の「家畜人ヤプー」を、初期のバージョンで読み終える。読んだのは角川文庫版だ。「家畜人ヤプー」は結構いろんな異なった状態の本が存在している。最初に出版されてその存在を世に示したのは都市出版社の「家畜人ヤプー」、これは完結していない状態で出版され、未完の状態が完成版のような扱いになっていた。未完の完結状態のこのバージョンはわたしが読んだ角川文庫版や、他に所持してるものでは宇野亜喜良が挿画を担当したスコラ版のものがある。そして一度闇の中に帰ったように見せて80年代に再び完結編を伴って姿を現すことになる。完結編は量的には未完だったものと同等くらいの分量が追加された内容で、「家畜人ヤプー」はこの二冊をもってようやく完全版となった。完全版はわたしが知っていて、なおかつ所持しているものとしては二種類あって、太田出版から出た三冊に組み直した単行本のものとそれをもとに五冊分冊にした幻冬舎文庫版だ。

左上角川文庫、左下幻冬舎文庫 中央太田出版、右スコラ。完結編が出版されるまでに世に出たものにも「前編」と云った表記はない。このなかだと角川とスコラのものがそれで、最後まで読めそうな体裁なのに実は未完で終わっている。
内容については読み比べたり比較したりはしてないからよく分からないけど新しく出るたびに結構な加筆訂正をしてるようだし、著者も覆面作家「沼正三」という仮面のもとで複数人によって書き継がれている可能性を指摘されたり、また完結編の32章以降は著者沼正三の代理人、天野哲夫によるものだとわかっているらしいということで、一人の人間の思索をもって完結したというよりは成立の背後にはなかなか複雑なものがあるようだ。でも版の違いはわたしには加筆訂正、増補を繰り返した内容の微妙な差異よりも表紙や挿絵のグラフィックの絵師の違いとして興味をひいて、この違いによって同じ本なのに手元に何冊も収集してしまうという結果になっている。上に書いたスコラの宇野亜喜良に、太田出版の三冊は奥村靫正、さらに幻冬舎文庫のは金子國義だものなぁ。本そのものがアートみたいだ。
元は今でいうSMを中心にした戦後の猟奇的風俗雑誌「綺譚クラブ」に1956年から連載されたもので、三島由紀夫が一般的に紹介し、澁澤龍彦などが評価して知られるようになった。他にものちに戸川純のバンド名に使われたり、石森正太郎、江川 達也らによるコミック化など、文学以外にもその存在は広がっていて、今では知る人ぞ知るという存在ではなくなっているものの、これはもう文句なしの日本の奇書といっていいだろう。日本で奇書と云えば大抵三大奇書としてあげられる夢野久作の「ドグラマグラ」小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」中井英夫の「虚無への供物」が頭に浮かぶけど、これは異色作家として夢野久作らが再発見された頃の、ミステリ領域というわりと限定された範囲での選出であって、ジャンルを限定しなければ奇書という名にふさわしいものはこの三冊以外にもいろいろある。今適当に思いつくものでも折口信夫の「死者の書」だとか、もう完全に奇書の相貌を持つ。小島信夫、後藤明生、藤枝静雄の著作も奇書の看板を掲げても見劣りしないだろう。ジャンルの枠組みを外すなら三大奇書もかすんでしまうくらい異様な本は存在してそうだ。
「家畜人ヤプー」がそういう奇書の一冊だとするなら、それはマゾヒズムそのもの以外におそらくその妄想にまで達する過剰さ、歪さ辺りにある。テーマの扱いにこういう要素がなければおそらくこれほどの奇観を生み出すこともなかっただろうし、SF設定の風変わりな風俗小説の一つとして消費されて終わりだったかもしれない。マゾヒズムの太い柱を中心に据えているのに、汚物と体液の宴ばかりが目立ち、性描写がまるでないのも歪で、その趣味の偏向ぶりに連載当時、おそらく同じ性癖を持つ綺譚クラブの読者でも熱心に読んでいた人は限られていたんじゃないかな。
舞台は数千年後の遠未来、地球での核と細菌による世界大戦の結果、宇宙へ逃れた白人が広大な宇宙空間で周辺惑星を多数従えるイースという名の帝国を築き上げる。その帝国は徹底した白人至上主義でさらに女権国家でもあり、女性を頂点とした白人のみが神として君臨しその下の階層に黒人が奴隷として、さらにその下に人としても扱われない家畜としての旧日本人「ヤプー」が置かれているという徹底した階級的差別社会でもある。そういう世界から時空を超えてやってきた空飛ぶ円盤が故障により現在の西ドイツの山間部に不時着し、その場の近くにたまたまいた日本人留学生瀬部麟一郎と婚約者のクララが救助に駆け付けたために円盤に搭乗していた未来人女性、白人貴族のポーリーンと接触を持ってしまうことで物語は始まる。
イース帝国に招待されたクララは神の階層へ、対して瀬部麟一郎は家畜人であるヤプーへと両極端の運命に引き裂かれることになり、読者はその二人とともにこの完全にディストピアであるイースの世界を見聞していくことになる。外部の人間がその世界を異物として観察する形をとっていて、ヤプーという名前で想像できるように、これは暗黒のガリバー旅行記だ。
角川文庫にして600ページ以上もある分量にもかかわらず、物語の中で、時間は一日程度しか進まない。要するに物語としてはまるで進展しないと云っても過言じゃない。では物語も大して語られないのに600ページ近く費やして何が書かれてるかと云うと、ほとんどがイース社会の成り立ちや仕組み、生活のこまごまとした形や、家畜であるヤプーを目的に応じて奇形化して作られるありとあらゆる事物などについてで、そういう内容がまるで百科全書のように、600ページを埋め尽くしている。物語はそのイースの百科全書の合間に挟み込まれるような感じで展開する。端的に物語として読むなら、最初のうちは家畜に落ちていく瀬部麟一郎の被る理不尽さに同情はするものの、百科全書的記述に圧倒され、その分おそらく物語としては単調で、飽きてくるだろう。
面白いのはこの構造の歪さ、それは作者の関心のありようがストーリーを語ることじゃなくて突出してここにあったと云うことでもあるんだけど、全体のバランスなんかまるで無視して作者の欲望の求める強さのみを基準に語られるその過剰さへの歪み具合だ。マゾヒストとしてこういう世界に住みたかったという願望が全編を濃厚に覆いつくしていて、その願望が納得できる限りの精緻さで、イースの異常な世界を記述しようとする熱量が半端ない。物語の異様さを超えてこの他人の目も気にしない熱量が圧倒する。
その百科全書然としたページを埋め尽くす、ヤプーを加工して作られる事物などを表す言葉、造語もまた異彩を放っている。特殊な意味での「聖水」をはじめ、今ではAVなんかで当たり前のように使われる「肉便器」なんて云う言葉も、おそらくこれに出てきたのがオリジナルだろう。この「人間便器」でもない「肉便器」という人間性をまるで認めていない、ただし生々しさでは一番という絶妙な漢字による命名。他にも「舌人形」「浴槽矮人隊」「有魂計算機」「足蹴礼」とこんな異様な連想を誘う、角ばかりで成り立ってるような漢字の塊がいたるところに敷き詰められて、相当分厚い靴底でも上を歩けばそのごつごつとした感じが痛さとして伝わってきそうな感触を伝えてくる。さらに各語には英語のルビがびっしりとふられていて、視線をことさら翻弄しようとする。考えてみれば白人貴族が神として君臨する社会に家畜の言葉である漢字の名前がいきわたり埋め尽くしていると云うのも変な話なんだけど、イース帝国の他では例を見ない存在感はこの過剰な漢字とルビ表現以外ではありえないと思う。
物語自体は普通に読めば逃げ場がどこにもない、絶望だけでなりたつようなディストピア小説だ。イース帝国で遺伝子的に人類には属さない、人のまねをするだけの人ならざる物と学説で定められたヤプーには人権そのものが最初から備わっていない。だから非人間的な扱いを受けていたとしても、存在のありようは机や椅子と変わらないので、椅子が毎日人に座られて可哀そうという発想そのものが成立しないように、ヤプーに対しては同情心が起きる場そのものが存在しない。人権は以前備わっていたものが奪われているわけじゃないので、取り戻すことさえもできないようになっている。そして徹底した洗脳と肉体への意図的な改造、奇形化でヤプー自身にもその自らに課せられた境遇を変える可能性は一切残されてはいない。読んでいてまず連想したのが、まさに食料としてしか考えられていないせいで、動物愛護団体からも見放されている牛だ。考えてみれば牛も食肉や皮革として利用される以外に、牛独自の生命を全うする道は完全に閉ざされていて、牛自身が自らの手で、食肉としてしか認められていない自分たちの運命を変えられる可能性はゼロに等しいというように、あらゆる権利ははく奪されて、考えつく限りの悲惨さを体現している。
またこのイース帝国を今の中国と置き換えるなら、「家畜人ヤプー」を今の時代のものとして読み替えることも可能かもしれない。もし全世界が中国の共産主義の下にひれ伏してしまったら、批判できる外部の視線を失ってしまったら、ウイグルを見るまでもなく支配する特権階級以外は全ヤプー化するのはもう確実で、外部の視線が存在しない以上そこから抜け出す道は完全に閉ざされてしまうだろう。わたしはこういう風に物語を何かにつけて現実とリンクさせて読むのはあまり好きじゃないんだけど、荒唐無稽な物語もそういう読み方で受け入れられるタイプの人もいるんじゃないかと思う。
「家畜人ヤプー」は恐怖と抑圧の物語、絶望のディストピア小説として、読もうと思うなら読むこともできる。でもこの辺もこの小説の歪なところで、作者はこれをほとんど恐怖の物語としては書いていないのもまた良く伝わってくる。作者はこれをSF ホラーとして書く気なんてさらさらなくて、というのもマゾヒストにとってはこれはディストピアなんて代物じゃなくて、極上のユートピアだからだ。むしろこの汚辱のパラダイスに永遠に拘束されていたい。そんな願望が透かし文字のように全体に刻み込まれている。その意向に沿うなら読む側も肩の骨と肉を便座型に、事後に神の局部を舐め上げ清掃するためにろくろ首のように頸部が伸びる肉便器として奇形化されるのを夢想し熱望しながら読むと理解と共感が進むのかもしれない。
ちなみに完結編の手前まで読んだ時点で、一応完結編も手元にあるので続けて読もうとするなら読めるんだけど、ここで一休みしている。
というのもこの辺りからイース人が過去にさかのぼって日本の歴史の黎明から介入していたという話、古事記等の日本古代史を絡めた展開になってきて、どうやらこの時代の知識を持っていたほうが面白く読めそうだと思ったから。古事記って昔につまみ食いした程度で代表的なエピソードはいくつか知ってはいるものの全体像は詳しく頭に残っていない。で、完結編に進む前に古事記のおさらいでもしておこうと思って、古事記を引っ張り出している。まったくなにがきっかけで何の勉強を始めるか分かったものじゃない。でも肉便器の出てくるお話がきっかけで気づけば日本古代史に詳しくなってると云うのもひねくれていて良いと思う。
最初から通して読み直してみると、スマホから始めたのは奴隷という関連以外にも割と適切な選択だったかもしれないなぁ。だって、「家畜人ヤプー」ってマゾヒズムの極北である汚物愛好に突出してはいるけど、ある意味肉体について極めて熱量多く語りつくす、肉体復権の書物でもあるもの。書いているうちに気づいた。
くせになりそう。子供が自由に好き放題歌ってる時のような、声のある種生々しさというか、リアリティというか、そういうタッチがスパイスのように聞き取れて面白い。今聴いたところだけど、もう一度聴こう。
Forest Swords - Crow (Official Visual)
ビジュアルがなんだかかっこいい。ディストピアっぽくて今回の話に通底している。