2021/07/25
知覚の地図 XXⅢ 視人たちの甘美な駆動装置
一応生存報告。眩暈に順応することを強いられるような生活を続けながら生きている。つい先日、フランスの文化人類学者であり、のちに思想界を席巻することになる構造主義の創始者、クロード・レヴィ=ストロースの、その名前の英語読みとあのジーンズのリーバイス、Levi Straussが同じであることに気づいた。衝撃的だった。二つとも古くから頭の中に存在していたのに、なぜ今まで気づかなかったんだろう。もっとも細かいことを云えば、リーバイスのほうはStraussが姓で、文化人類学者のほうはレヴィ=ストロースが姓にあたり、まるで違うそうなんだけど、そんなことはこの衝撃の前では些細なことだろう。
大昔、大学の構内をリーバイスを穿いて、レヴィ=ストロースの「野生の思考」を携えて歩いていたこともあったかもしれないなぁと想像してみたりして。
これはたまたま頭の中にあったものに気づかない関連性があって、それに気づいたっていうことだったんだけど、頭のなかのまるで関係もなく眠っているような膨大なものの間に思いもつかない関連性を縦横無尽に生み出せる方法があって、それをマスターし駆使できるなら、世界はきっと面白い状況へと変貌するだろうと確信する。
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四日に眩暈とともに目覚めてから二週間経過。四五日もたてば回転する世界もふらつきもかなり収まって来て、明日できることは今日しないとばかりに放置していた特定疾患の医療費受給資格継続の申請書を書いたり、提出に必要でまだそろっていなかった書類を発行してもらいに役所まで出かけたりと、やっぱりやるべきことはやれるときにやっておくべきだったなぁと思いつつ、まだふらつきの残る足取りで出歩いたりして、一週間も過ぎる頃には眩暈に関してはまぁ云うなら高をくくり若干油断もしていた。すると十日ほどしたころにまた振り出し近くに戻ってしまうように世界ぐるぐる状態が復活、このまま収まっていくんだろうと思っていたところへのこの眩暈の再来は精神的にも結構きつかった。その揺り戻しも今は随分と解消されてきたものの、またこれがやってくる可能性もあるんだと思うと、こう思うこともストレスとなりそうで心持も不安定になる。やっぱり霧が一気に晴れるように気分も一新、一気に回復という具合にはいかないようだ。
眩暈が始まって頭を動かすたびに世界が目の前でぐるぐると回転し始める状態では動くこともできず、何とか病院に行けたのは発病から二日後のことだった。潰瘍性大腸炎で診てもらっている大病院へ、電車二駅と駅前からの送迎バス約五分ほどの移動に耐えられるかどうかかなり不安だったけど、意外とトラブルもなくやり過ごすことができて、路上で倒れてしまうこともなく病院に到着。受付で症状のことを話すととりあえず耳鼻科だろうと云うことで、耳鼻科へ案内された。
診察の結果良性発作性頭位めまい症と診断。難聴などの耳のトラブルや頭痛、嘔吐等もなく、特有の眼振が出ていることから、診断は簡単だったようだ。いかつい病名だけど眩暈としては一番オーソドックスな病名でもある。ちなみにこの眼振の状態を見るために焦点の合わない眼鏡をかけさせられて頭を揺り動かされ、わざと眩暈を起こす検査をやらされるんだけど、とてもじゃないけど最後までで耐え切れず、途中で思わず眼を閉じてしまった。
内科のほうで予防的にもらっていた眩暈の薬、メリスロンが手元にあって、まぁ眩暈を起こしてない状態ではあまり飲んでいなかったんだけど、それを続けて飲んでいればいいと云われ、追加で吐き気止めの薬をもらって診察は終了した。この辺は同じ病院内と云うことで他の科で処方された薬の状況も全部筒抜けとなり、ややこしい状態にはなりにくい。病院にやってくるまでは思っていた以上にトラブルなく来れたのに、この眼振検査のせいで診察後は来た時よりもはるかに気分は悪くなっていて、ふらつきとともにむかつく感じも若干出始めて、帰りの送迎バスからはちょっとした車酔い状態になっていた。
三半規管の中にある平衡感覚をつかさどる装置の一部である耳石が何らかの理由で剥がれ、三半規管の中のイレギュラーな位置へと漂いだしてしまうことで平衡感覚がかき乱されるというのがこの眩暈のメカニズムだ。眩暈と云えば立ち眩みのようなものをイメージするかもしれないけれど、この場合は文字通りの回転で、遊園地のコーヒーカップで思い切り激しく回転させられたような症状として現れる。耳石の位置によって回転が縦方向になった場合は宙返りするジェットコースターってところか。きっかけは上を見上げたり俯いたり、あるいは後ろに体を倒すような特定の方向へ頭を動かしてしまうこと。その動きで三半規管の中で浮遊する耳石も動き平衡感覚を翻弄して視界が回転し始める。回転は三半規管の中で耳石がおとなしくなるまでの数十秒間は続く。頭を眩暈誘発ポイントへ動かすたびにこの一連の症状が繰り返されるので、もう気持ち悪いから乗るのは嫌だと云ってるのに、ふらふらのままで無理やりまたコーヒーカップに乗せられるような状態が続くことになる。
物理的なプロセスが原因なので、遊離した耳石が元の正常な位置に戻るか、溶けて吸収されるかしない限り、眩暈は治まらない。薬は体感的にも付随して現れる不快な症状を緩和するくらいの役目しか果たしていないような気がする。薬でこの回転そのものを止めることは今のところ不可能なんじゃないかな。
遊離して三半規管のリンパの中で漂っている耳石をもとの位置に戻すための体操っていうのもあって、今回の診察でこの体操をやりましょうとやり方を書いたパンフレットももらったけど、眩暈の方向へ頭を動かすような体操なので、こんなの恐ろしくてできないといまだに手付かずのままだ。
おそらく早くても治まるまでにはひと月くらいはかかりそうだ。目が回ることに否応なしに体を順応させられるような生活を続けているうちに、気がつけば頭を動かしても世界は回らなくなっていると、そんな感じで治っていくんじゃないかと思っている。

ブルトンの「シュルレアリスム宣言」を読んでいる。厳密に意味を定義しない、云うなら詩人らしい含みの多い言葉と、由来を知らなければ意味にさえも届かない比喩を多用し、一方でシュルレアリスムについての定義を見定めながらも、その定義は力強さともいえるほどシンプルなものなのに、書いたブルトン本人が宣言の中で「くねくねと蛇行する、頭が変になりそうな文章」と云ってしまっているような、そのシンプルな定義とつかず離れずの微妙な距離感を保ちながら巡り続け攪拌してくる様々な論旨は、注意力を緩めなくても容易に道筋を見失ってしまい、眩暈中の脳みそにはかなりきつい。眩暈がなくても、何度挑戦してもこんな感じの読みっぷりになって、いまだに頭の中に綺麗に収まりきってくれない。まぁその分何度でも読めるっていうことでもあるんだけど、でもやっぱり今の状態で読む本じゃないなぁ。この「シュルレアリスム宣言」を序文に掲げた実践編、オートマティスムによる小説「溶ける魚」のほうは眩暈を加算した状態で読むと、逆に酩酊感覚が加速されて、暴走する言語との戯れにも普段よりも読みごたえが出てきそうだ。
さてこれは陰謀論なのだろうか。この心理作戦が実際に行われているとすれば極めて巧妙だと思う。
『プリオン病/クロイツフェルト・ヤコブ病/狂牛病の主な症状』 (Tomoko Hoeven 6月25日)
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