2022/01/25
知覚の地図 XXIX 吊り下げられた横顔。したたり、水鳥の湖面で泡立つ白色の果肉。

クリストファー・プリーストの「魔法」を読み終わる。こういう類の本は他人に何か云おうとした時に本当に困る。内容について何を話してもネタバレになってしまうし、この本の場合はそういうのを避けて表層的なレベルで説明しようとすると退屈な恋愛小説にすぎないものになってしまう。しかも、下手に扱うと思わず触れてしまいそうになる語りの詐術、仕掛けも、物語全体に張り巡らされているような大掛かりなものにもかかわらず、読み解いてみることができるなら、表層的な物語レイヤーである恋愛小説レベルに負けないくらい大して面白くもない。
読後残るのは辛気臭かった三角関係を巡る男二人と女一人のお話と、三人しか登場しないこんな単純な恋愛物語なのに結局最後には何が何だか分からなくなるほどにはぐらかされたようなものになってしまう理不尽な気分の二つ。これを読んだ人の大半がこんな着地の仕方をするんじゃないかな。なにしろ最後のほうでわたしの頭の中を占めていたのは、「で、結局のところこの最終章に突然出てきた”わたし”というのは一体誰のことなんだ?」と、これだけだった。分けわからん。解説によると最初の版では誰のことか分かるように書いてあったのが、改訂版ではこの部分を誰のことか分からないように書き直しているとのこと。最近読み終えたジャック・リッチーの「クライム・マシン」に収録されていたカーディス探偵社ものの四編では、主人公の常識的にはありえないほどの特殊性を、そのことには一言も、まるで云ってしまえば負けとでも考えているみたいに言及せず、なのに読んでいる側には一点の曇りもなくそのとんでもない特殊性を完璧に分からせるなんていう洒落た遊びをやっていた。そういうのに比べると、この「魔法」の普通に分かるように書けば簡単なものをあとで単純にわかりにくくしているだけといったやり方はあまりスマートじゃない。
極端に折れ曲がり湾曲している道の、湾曲している部分から先を、気がつけばちょっと不自然なところがあると云うくらいに跡をわざと残す程度で消し去り、その道がまっすぐに目的地に着くように見える形で、巧妙に改竄された地図。そんな地図を渡されて旅行しろと云われてるようなものだ。間違った地図を渡されているのだから、この地図をもとにしていれば迷子になるのは当然の読書体験。気づかないほうが悪いと云わんばかりに残されたわずかな痕跡を丁寧にたどれば正しい目的地にたどり着けるのかもしれないが、最初からそれをできる読者はほとんどいないだろう。
主人公はカメラマンで車載爆弾を使ったテロに巻き込まれ、大怪我を負うと同時にテロ直前の数十日間の記憶を失ってしまう。物語は主人公がリハビリを行っている病院で始まり、ある日その失われた数十日間のことを知っているという女性が現れる。どうやら主人公とは恋愛関係にあったらしい。その後この恋人だったらしい女性を触媒にして記憶の回復をさらに目指していくことになるというところで物語はいったん区切られ、その短い章の後、今度は主人公の視点でテロに合うまでの行動、旅の最初にこの女性と知り合いともにフランス各地を旅してお互いが親密になっていく過程が、爆弾テロに巻き込まれるところまで続いて終わる。あれ?って最初思うのは記憶を回復していく過程が描かれずに、いきなり全記憶が回復した状態でこの章が進んでいくこと。これがちょっとした違和感でその違和感は終始ささやき声のようにつき纏ってくる。次の章は語る主体を恋人の視線へと変更して、この時期の出来事がもう一度繰り返されるんだけど、ここから物語は異様な内容へと変貌していく。内容は恋人となった二人が親密になりながらも旅を続けるといった主人公が語ったものをなぞる恋愛物語なんだけど、その話の中に微妙に、時には強烈に整合性を欠いた齟齬がたびたび顔をのぞかせることがあって、その違和感が呼び起す異様な居心地の悪さが、恋愛小説ではまるで場違いとしか言いようがないホラーに近い感覚を呼び起こす。同じものを見ているはずなのに世界は輪郭を明確にするどころか、むしろ混沌の底から湧き上がってくる得体の知れない悪夢的なものへと変貌していくようだ。いったい何が起こっているのか。誰の見ているものが現実なのか、それとも食い違い、整合性を欠いた全部が現実で、そして全部が現実じゃないのか。恋愛が途中で三角関係の様相を帯び始めた時、その関係の一端を担うもう一人の男性は本当に実在するのかということさえ不確実性の中に見え隠れし始める。この不在をにおわすもう一人の男性を成立させるためにSF的なガジェットが使われているんだけど、そのガジェットさえも最終的にはリアルさを曖昧にしていく。
唯識論の小説的展開とでもいうような内容だ。わたしの見ているリアルはわたしにとってリアルなだけで、他人にとってはまるで違うものかもしれない。わたしのリアルが客観的リアルであることを担保するのはどのような手段においても不可能だ。こういう認識論を複雑に絡み合わせて小説的伽藍を築き上げている。そしてその伽藍は巨大な迷宮でもある。
なんだかこんな書き方をしてみると妙に面白そうな小説のようにも見えるなぁ。確かに単調でくだらない日常を認識の方法をツイストすることで迷宮と化し、迷宮と云うならとりあえずそれはどれも暗い魅力で満ち溢れているから、その迷宮を読み解くように散策するのは面白いだろうと思うし、この話の所々で感じる気味悪さも上手く雰囲気出してると思う。でも全体を見ると夢中になって読んだと云うよりもやっと読み終えたと云うのが本当のところで、結局物語の中でどういうことが起こっていたのか今一つよくわからないけど、だからといって読み終わってからさらに分かろうとして振り返ってみるかといえば、そんな気も既に失せているというような読書体験でしかなかった。一言で云うなら複雑だけど痩せ細った物語。こういう物語だと構造の解析みたいなことを再読しながらやってみたくなる場合もあって、でもこれはそういうことをやって何が起こっていたのか完全に把握できても、作者が混乱させるために混ぜ込んだ間違ったパズルピースの断片くらいは発見できて手元に残るかもしれないけど、物語の割り切れた部分はその時点で霧散してしまうだろうと云うことも簡単に予想できる。あとには退屈な三角関係の恋愛物語が残るだけ。読書中に垣間見えた謎めいた現実と云う迷宮も白日の下に白茶けた残骸をさらすだけだろう。
認識を揺さぶるようなヴィジョンを示しながらも、読んでいる私の認識にはあまり傷跡を残さない。これが読む側の認識さえも変えて、見る現実の様相を一変させるとなれば大したものだし、そういうのこそ哲学論文の例題みたいなものじゃなくて物語的な豊かさの中で展開しているものを読んでみたいと思う。
さて本棚の奥を探ってみればプリーストの「双生児」があった。見つけてみて初めてそういえばこの本も買ったんだと記憶の表層に浮かび上がってくる。本に埋もれて見つからなかったけどおそらく「奇術師」も持ってるはずだ。続けて読む気はしないけど、今回の読書の余波が薄れてきた頃にでも読んでみようか。
Ashes And Snow - Gregory Colbert
ナレーターはローレンス・フィッシュバーン。日本語版は渡辺謙。
(あらかじめ追放されて)決して辿り着くことのできない楽園のイメージ。メッセージは声も内容もどことなく彼岸から届いてくるような響きがある。言葉を意味で汚されていない音として聴こうとするなら、自国以外のナレーションで。日本人なので渡辺謙で聴くと純正の音としては絶対に聴こえてこない。他にもいっぱい動物は出てくるが、象さんのここぞとばかりの形態展開が官能的だ。この生き物の特異な形のもつ官能を思う存分引き出してくる。それにしてもこの神秘な姿には形而上学的宗教的言辞が本当によく似合う。
そういえばわたしはガネーシャが好きでエスニックの雑貨屋でいくつか置物を買って持っている。

以前に書いた貯蔵瓶の蓋裏にガーデンソーラーライトをくっつけて、なかにドライフラワーを入れておくオブジェ。瓶に閉じ込め、外から眺めることしかできないようにすることで、事物は標本のように何か特別なものであるオーラを纏い始め、なおかつ暗い空間の中にスポットライトのように明かりがともると、瓶の中が劇場化する。
見ていて飽きない空間になるんだけど、一つ誤算があった。寒いところでは充電池が上手く働いてくれない。調べてみると冬場だと下手すると1~2時間くらいしか灯らないこともあるらしい。
結局わたしのこのオブジェも夕方5時過ぎくらいから7時前くらいまでしか灯ってくれない。夜本番が始まる前に早々と店仕舞いだ。真夜中に、誰が見るでもないのにぽつんと灯り続けていると云うのを期待してたのに。
最高の条件で充電できて、最高の条件の場所に設置できたとしても、灯るのは6~7時間くらいと云うことなので、夜通し点いて明け方に消えると云うのは見果てぬ夢となり果てた。
吉村昭 「花火 吉村昭後期短編集」 中公文庫
天城一 「天城一の密室犯罪学教程」 宝島社文庫
クリスティー・ウィルコックス 「毒々生物の奇妙な進化」 文春文庫
橋爪大三郎 「世界が分かる宗教社会学入門」 ちくま文庫
川上弘美 「東京日記 3+4」 集英社文庫
全部100円。
古書は何が出てくるか分からない魅力があるものの、このところずっと読書の方向性をブックオフに牛耳られてしまってるような気がしないでもない。傾向が偏っている。偏ってもいいから珍しい本をと思いつつ、ブックオフでしかもことさら100円文庫なんて漁ってる分には本気で珍しい本なんてまず出合わないのも分かっている。さらにこんな買い方を続けていると最近は本の価格感覚が100円になってしまって、普通の本屋に並んでいるような本の価格は見るだけで眼のくらむ思いがするようになった。1000円超えてる文庫って、なんだそれは。
それと「魔法」のあとで読んでいた「クライム・マシン」は持っていたのが単行本だったので、その大きな本で読んでいたんだけど、久しぶりに単行本を手にして、そういえば本というのは本来はこういう質感、重さ、手触りの感覚を伴っていたんだったなぁと思いだした。本を読んでいる楽しさがその質量、感触からも伝わってくる。紙面も大きくて余計なものが視界に入る割合が少ない。置く場所に困るのが難点だけど、単行本で読むと云う選択肢は簡単に捨てるものでもないなと思った。