2022/04/25
知覚の地図XXXII 酩酊する空は昏い海に落ちた月の告白を聞いている。

ごたごたと色々ある。カオスを撮りたいんだけど、撮ることで混沌は整理され、どこか慎ましやかな様相を帯びる。見るな。見ることの背後にあるのは秩序だ。あるいはごたごたと色々あることを混沌と見做すな。
「人の役に立つか立たないか…そんなことを若者は考えなくともよい」 アレクサンドル・プルチノフ
古事記を、暇に飽かせて読んでいるんだけど、これ、面白いな。
高天原で大暴れした須佐之男命が天界を追われ、下界へと降りた時、大気都比売(おおけつひめ)の神に食事を所望したところ、大気都比売の神は口や鼻や尻からいろいろとご馳走をだして調理した。そしてその仕業を垣間見た須佐之男命は汚いことをして食べさせようとしていると思い、大気都比売の神を殺してしまう。殺された大気都比売の神の体の、頭からは蚕が、二つの目には稲穂が、二つの耳には粟が、さらに鼻に小豆、股の間に麦、尻には豆ができた。そして神産巣日御祖(かみむすびみおや)の神がそれらを取り集めて種とした。と、こんなエピソードが出てくる。八俣の大蛇退治の直前に登場するエピソードなんだけど、このエピソードを読んでわたしは古事記が大好きになった。ユーモラスでグロテスク。その光景を具体的にイメージしてみれば、それはもう想像を絶する様子が極彩色で頭に浮かぶ。なんてユニークな想像力なんだろう。古代人だからと云って尻から出たもので料理するのがまるで汚い所作だと思わなかったわけもなく、実際須佐之男命はためらいなく殺してしまってるわけで、これがやってしまえば常軌を逸した行為とみなされていたのは確実だろう。一応穀物の始祖、起源を説く説話らしいんだけど、そういう起源を語るものとしてふつうこんな話を持ってくるか?何だかこの説話というか神話の、人格を持っている存在なのかどうかもわからない集合無意識的作者のどうだ凄い光景で吃驚しただろうっていうちょっと得意げな悪戯心まで垣間見えてしまいそうだ。
神話のエピソード的には有名どころは個別にいろんなところで接しているものの、知らない神話がもっといっぱいあるんだろうなぁと思って今回初めて原典を通して読んでみたんだけど、意外と内容のほとんどはいろんな形で広く流布されていた。どこかで接した話の多さは、新しい人にあったというよりも旧知の人と再会したというのに似た感覚を呼び起こす。それでも全体を通して読むことでこの話はこういう一連の大きなエピソードの中でこういう形で表れるものだったんだという、落ち着きどころが分かったというところもある。もちろん知らないエピソードも当然あって、かなり有名どころで不気味さで好きなエピソード、伊邪那美が国生みで最初に産んだのが不具の子水蛭子(ひるこ)で、葦の船に乗せて流し捨てたという話。これなんかは知っていたけど、その時もう一人淡島という、国の数には入れなかった御子がいたというのは今回通して読んでみて初めて知った。水蛭子も淡島もこの場面に名前として一度だけ登場し、流し捨てられた後どうなったかの記述は一切なくて、特に水蛭子はその特異な姿の存在とともに暗い想像力を刺激する。
これを書いている時点で読んでいるところは全三巻構成のうちの神話編である第一巻の後、人の世界に降り立って天皇として平定統治していくさまが語られる第二巻の、神武天皇から始まって、十二代目となる景行天皇のところ。
各天皇のエピソードにはかなりの濃淡があって、神武天皇や十一代垂仁天皇、そしてこの景行天皇は治世の間の出来事、事件が豊富なほうだけど、神武天皇に続く二代目綏靖(すいぜい)天皇から以下八代とまとめられた章に登場する八人の天皇はほとんどエピソードもなくどこを拠点に国を治め、そこで誰と結婚してどういう名前の御子を何人産んだのかという記述が結婚した相手の数だけ続いた後、何歳でお隠れになったと締めくくられるような描写が続く。ちなみに古事記の登場人物は神話編の第一巻から例外なく気が遠くなるほど多い。ギネス級の多さだと云っても間違いないと思う。まぁ一度名前が出ただけで以後一切出てこないという神様、人物が大半なので覚える必要もないし、また覚えることも不可能だろう。この欠史八代の天皇の章も例にもれず、結婚した相手の親や、生まれた御子がのちにどの臣、県の祖となったのかといったことまで含めて、とにかく大量の人物名のみで埋め尽くされている。家系図だけで成立している物語のようなもので、そういう風に見れば、ある種シュルレアリスムの小説のようでもあり、またヌーボーロマンのような前衛小説のようでもある。東洋かぶれになったロブ=グリエが書いたと云っても通用するかも。いつ果てるともなく続く名前の海に身をゆだねて、耳慣れない名前の音列を楽しむのもいいし、はるか太古の時代に実在したかどうかもあやふやなまま一冊の書物に名前だけ残して消えていった人々がどういう人であったのか想像して読むのもいいだろう。この史実を残さなかった八代の天皇も本当に何もなかった治世だったのか、残さない何か理由でもあったのか、今となっては確かめようもない事柄も確かめようがないゆえに興味を引くところもある。
景行天皇の代で悲劇の王、倭建(ヤマトタケル)の命が登場する。昔の東宝特撮映画「日本誕生」で三船敏郎が演じていた人物だ。家系図小説が続いた後での説話的登場はなかなか際立っている。
上を書いてからさらにまた読み進んで今現在応神天皇の章。ここで中巻の終了で、下巻は仁徳天皇から始まる。その前に角川ソフィアの現代語訳を読んでいて、「…またその山の上にテントを張り、幕を立てて…」というところで視線が釘付けになってしまった。テント!?ちなみにこの部分、原文の読み下し文によると「…絁垣(きぬがき)を張り、帷幕(あげはり)を立てて…」となっていて、どうやらテントというのは絁垣を訳してひねり出された単語らしいけど、もうちょっと他に訳し方がなかったのか。古代にテントという言葉が使われていたのか調べてしまったじゃないか。
古事記の多くの側面を彩っている歌謡部分の現代語訳もこの角川ソフィアのは情緒の欠片もない中学生の作文みたいで失笑ものだ。このテントを含め考えようによってはある種ぶっ飛んだ日本語訳として楽しめるところもある。

今家にある古事記はこの三種類。100円文庫の棚で出会ったものだけなので、これが古事記の最良の選択だとは思っていない。もっと理解のしやすいものや優れた研究の書もあるんだろうと思う。
中心になって読んでいるのは角川ソフィア文庫版だ。講談社のものと同様に原文と注釈、現代語訳の構成になっていて、どちらも似たようなものなんだけど、講談社の三巻分冊のほうは章ごとにこの原文注釈訳文がセットになって繰り返され、なんだか学校の授業を受けているような気分になる。今日はここまで!っていう感じで区切りが入る。角川ソフィアのほうは原文と脚注は同じブロックにまとめられ、現代語訳は一冊の続き物としてそれとは別のブロックとして独立して、物語として中断することなく読めるようになってる。一連の物語としてはこちらのほうが没頭できるつくりになっているんだけど、残念なことに現代語訳が今一つ。原文の雰囲気を残そうとしているのか単純に物語る才能に乏しいのか、妙に意味が取り辛かったりぎこちない文章のところがあったりする。それとわたしの持ってるこれは旧版なのでおそらく新版はもっと活字が大きいはず。100円コーナーで新版を見つけたら買いなおしたい。ルビが小さすぎて読めない。
原文なんてどうせ読んだって分からない、物語だけを研究者のこなれない語り口の文章じゃなくて物語る言葉で読みたいというのなら、これはもう文学者が訳したものを漁るに限る。わたしが持ってるのは「死の島」や「廃市」の作者である福永武彦氏の手によるものだ。詩人でありフランス文学者であり、純文学だけじゃなく加田伶太郎名義でミステリも書き、「誰だろうか(Taredarōka)」のアナグラムで推理作家としての名前を作り出すという遊び心も持ち合わせ、「モスラ」の原作にまで名を連ねたこの破格の作家が、日本最古の書物の現代語訳に挑戦している。ほかにもいろんな小説家が訳したものもあるはずで、その辺は好みの作家のものが一番フィットすると思う。
Wayfaring stranger - 16 Horsepower
映画「Titane」のオープニングシーンで流れる曲。下のトレーラーで流れてるのはゾンビーズだけど、この素朴な音楽とゾンビーズが同じ映画のフィールドで共存できているのが興味深い。
あいかわらす思考の隙間を突いてくるような、でも絶妙に緩さを持って同期しやすい論理で、今あらゆる側面で人の世を覆いつくそうとしているプロパガンダについて切り込んでくる。いわれてみればそうなんだよなぁと納得するところが多々ある。論理が世界のすべてを完璧に明らかにするとは思わないけど、限界があるにせよ論理はわたしたちが世界を理解するために持つことができた最強の武器であることは間違いないだろう。嘘ばかりの写真や映像なんて足元にも及ばない。
オリバー・ストーン監督によってなされたプーチン大統領へのインタビュー。全4パートある。これがきっかけでストーン監督はそれまで大した興味もなかったウクライナのことに関心を持って調べ始めたそう。他には「Ukraine on Fire (2016)ウクライナ・オン・ファイヤー」「Revealing Ukraine (2019)」といったドキュメンタリーを世に出している。一方的なプロパガンダ放送に晒されて視界を完全に閉ざされる前に一度見てみる価値があると思う。今見たと思いこまされている世界がどれほど歪んだ世界なのか気づくかもしれない。ちなみにいちいちURLは貼らないけど、探せば全部日本語訳つきのものをネット上で見ることができる。
それにしても「プラトーン」が大嫌いな映画だったので、この監督にもまるで関心がなかったんだけど、こんな活動もしていたんだ。
宇能鴻一郎 「姫君を喰う話」 宇能鴻一郎傑作短編集 新潮文庫
田中 小実昌 「自動巻時計の一日」 河出文庫
唯円・親鸞 「歎異抄」 川村湊 訳 光文社古典新訳文庫
北村薫 「太宰治の辞書」 創元推理文庫
「姫君を喰う話」が500円、 「太宰治の辞書」が270円、ほかはいつもの100円。
宇能鴻一郎という名前は一度で変換できない。でも変わった漢字を使っているのにいかにも悪目立ちするような字面にもなっていない。官能小説の書き手として有名だけど、デビュー当初は芥川賞作家でのちの作風から受ける印象とはかなり違う。しかも東大出。何かにつけ破格という印象がつきまとう作家という感じ。これはその破格の作家の芥川賞受賞作を含む初期短編集だ。親鸞は吉本隆明の本でなじみがあって、この人もパンクというか破格の人で面白い。今こういう思想態度の宗教家がいたら人はどういう対応になるんだろう。胡散臭い新興宗教家扱いか?ちなみにこの光文社古典新訳文庫は関西弁訳という思い切った体裁で、おそらくくだけた親しみやすい雰囲気にしようとしてのことだと思うけど、関西弁をくだけた感じと受け取れるのはそれこそ関西を中心にした一部分だけで、大半は読みにくい、押しつけがましくて鬱陶しいと思うだけだろう。