2022/05/25
知覚の地図 XXXIII いつ果てるともない螺旋の城で、青いチョークの王はいたましいほどに美しい。

混沌を撮りたいという反面、事物があることで生成される空虚さ、荒涼とした空間も愛する。過剰と欠落、両極端のそれぞれが世界の実相に近づく道筋を示す。
何だか対象の物珍しい特殊さとか決定的瞬間だとか、そんなことはどうでもよくて、むしろ関心は対象があることで周囲に形成される空間、対象と自分の間に様々な形で重なる大気の層、そういう物事のほうに向く。対象は単純に空間や質感を生み出す、そういうことのきっかけに過ぎない。
映画風の画像サイズにしてみたのは、映画の空間にこういう空虚な質感を見つけて気に入ったものがあったから。2019年の「Sound of Metal」、2017年の「Three Billboards Outside Ebbing, Missouri」、2022年の「Gold」、それぞれ冒頭か冒頭少し過ぎたあたりの画面の向こうに広がる空間の質感が三者三様の荒涼とした世界を示す。特に好きなのは「Three Billboards」映画内の登場人物の言によれば迷ったやつかボンクラしか通らない道の、霧深い草地の路肩にぽつんと距離を置いて建つ三枚の広告版の朽ち果て具合と、その広告の剥がれ落ちた絵柄の、荒廃した広告版との相性の良さ。よくこんな場所を探してきたというよりも美術さんが映画用に建てたものなんだろうなぁ。お誂え向きすぎる。
先日古事記を読み終える。最終章の推古天皇に至る数代は再び家系図物語となって壮大な言語空間の終わりとしてはずいぶんと淡々としていたものの、でも目弱王の反乱とかひたすら待ち続けた赤猪子の話とか印象に残るエピソードもきっちりと織り込まれていた。むしろ淡々とした、物語としての終幕を印象づけない、いつの間にか閉じていたといった終わり方のほうが、その後に続く現生の天皇の世へと繋げていくには落差がなくて効果的だったともいえる。後半は人の世の話が中心となっていたせいか裏切りの話とか生臭いものが多かった印象だ。主君を裏切るように指示しておきながら、それが成功した後は、主君を裏切るような奴は信用できないとばかりに成敗してしまうエピソードなんか、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、佐藤浩市が演じていた上総広常の運命を彷彿とさせる。
これで古事記全体の構造は俯瞰図としてとりあえず頭の中に入った。実のところ何を云ってるのかよくわからないエピソードもあったんだけど、そこで拘ってしまうと先に進めなくなるので、わからないところは理解不能としてとりあえず置いておくというような読み方で進めていった。たとえば応神天皇が皇子だった頃のエピソード。敦賀の仮宮で休んでいるときに、夢に現れた土地の神、伊奢沙和気(いざさわけ)の大神に自分の名前と皇子の名前を交換しようと持ちかけられる話。名前はそれがあるから存在が実在することを保証するもので極めて重要なものであるのに、ここでその交換を請われ、承諾することの意味が今一つ把握できない。結果かなり重要な変化が表れて当然の行為のはずが、鼻の毀れた入鹿魚(いるか)が寄ってくるだけで提案した大神の意図からして不明のまま終始する。ひょっとしてただ皇子の名前を名乗りたかっただけ?実のところこのエピソードは今もってその意図がよく分からない、古事記の謎の一つなんだそうだ。解釈は幾通りにも立つらしいんだけど、今のところその意図は確定していない。
古い、時間の分厚い堆積の彼方から届いてくる声、あるいは書物というのはこうでなくてはいけない。長い年月が降り積もる間に人の思考、生活は留めることなく変転して、その痕跡をたどることさえそのうち不可能になっていく、あるいは残されるはずだった言葉の数々が時間という暴力によって寸断され失われていって、完全な形ではもう目にすることさえ不可能になっていく。こういう経過によって謎という形で組みなおされて初めて古い書物は完璧なものとなる。昨日書かれたような隅から隅まで明晰な本などとは別格の存在となっていくのが、古い書物の面白さだろう。
さてこれで「家畜人ヤプー」の続きが読める。やたらと日本神話のエピソードや名称が出てきて、これは日本の神話についてある程度知識を入れておくほうが面白く読めそうだと思って中断していた。でもこの辺りだったかと見当つけて再読し始めたけど、長い間放置しすぎてどうもうまく入り込めない。このまま読み進めるかもうちょっと前に戻って読みなおすか、再読を本格的に始める前にちょっと迷ってる。

今は種村季広氏編の日本怪談集 取り憑く霊 を読んでいる。二冊構成の怪談アンソロジーでもう一冊は副題が奇妙な場所となっている。わたしが持っているのはこちらだけなんだけど、奇妙な場所っていうのもそのテーマのもとにどんな怪談が集められてるのか面白そうだ。
編者は博覧強記のドイツ文学者。澁澤龍彦と双璧をなす異端ヨーロッパ文化の紹介者であり、澁澤龍彦がマルキ・ド・サドであるのに対し、こちらはザッヘル=マゾッホの紹介者としても有名だ。両者ともすでにこの世の人ではなく、この分野を引き継ぐ後継者もいない。博覧強記の人はいるにはいるんだけど、この迷宮の魔王然とした妖しい光芒を纏っているようなカリスマ性を持った後継者はもう出てこないだろう。
ちなみに両者とも中世ヨーロッパの文化に遊んでいる印象が強いんだけど、実のところ和物にも結構強い。それはこういう形で実を結んでいる。
当然のこと選択のセンスが問われる。特に特異な方向をもとから内に秘めている編者となれば、その選択にある種傾向がかかることはむしろ期待させる。生半可な怪談好きが選んだような、だれもが納得する総花的なピックアップなどむしろ要求されていない。
この本で云えば、森銑三、岡本綺堂、久生十蘭辺りに趣味性が現れているのかも。反面小松左京の「くだんのはは」や内田百閒のもの、あるいは江戸川乱歩の「人間椅子」なんかは選択としては王道すぎ、ありきたりすぎて、久しぶりに読めて楽しめたにしても、特にここで選ばれていてよかったとも思わなかった。内田百閒に関しては岩波文庫の「冥途・旅順入城式」で解説まで書いているから、趣味性のど真ん中に位置しているのは分かるんだけど。
今のところもう少しで半分読み終えると云ったところまで進んでいる。これまで読んだ中では王道の怪談としては橘外男の、不気味さの予感を縦横に張り巡らせて、化け物を出せばホラーだとか云ってるような軟弱な精神を蹴散らしていく、本気で気味の悪い「蒲団」。物事の出し方、見え方のすべてにおいて、薄気味悪さという一点に奉仕させることしか考えていない。これは蒲団というアイテムも秀逸で、こうやってみれば怪談によく似合うオブジェだと認識を新たにする。
それと、もう一遍、森銑三の「猫が物いふ話」。このアンソロジーを読むことで、出会って幸運だと思ったのが森銑三という存在だ。アンソロジーを読む醍醐味は未見の書き手に出会うこと。短編はその世界に入り込めたと思ったころ合いに終わってしまうようなところがあって、続けて読むとその世界への出入りに疲れてしまうんだけど、こういう書き手との出会いがあるからなかなかやめられない。ちなみに森銑三は職業作家ではなくて、在野の歴史学者、書誌学者で、怪談は余技というか、趣味で書き続けていたものらしい。
巻頭に収めてある「猫が物いふ話」はこのアンソロジーの世界へと一気に引きずり込む。まずね、このタイトルの大胆さが凄い。実際話の内容は猫が話す話だから間違ってはいないんだけど、タイトルだけで内容を全部知らしめてしまっている。猫が話す話に「猫が物いふ話」と題して、さらに上回る中身を盛り込んでいる自負の表れなのか、人を喰ったような感覚だけなのか。さらに通常の意味合いでは怖くない。怪談なのに怖くなくて、でも通常考える怖さじゃないところを狙った怪談であることははっきりと伝わってくる。その世界にいることの息遣い、呼吸法が怪談なのだ。日常の隅っこに開いた小さな裂け目。何かの拍子にそこから向こう側に異様な異界が広がっている気配が滲みだしてきているのに気づく。その気配は現実を侵食してくるんだけどそれはあくまでも気配であって、正体はまるで分らない。気配を通して対面した現実に対して、違和感を感じるも、でもそれはあくまでもやっぱり現実である以上拒絶することもなく、それはわずかに変容した現実の中で、今見聞きしたと思ったものはいったい何だったんだろうという、居心地の悪さとして心の片隅に居残り続ける。どちらかというと白日夢に近いそういう感覚をこの「猫が物いふ話」はうまく抽出している。でもこれは犬だと成立しないだろうなぁ。
猫が物いふ話 / 森銑三
くだんのはは / 小松左京
件 / 内田百間
孤独なカラス / 結城昌治
ふたたび猫 / 藤沢周平
蟹 / 岡本綺堂
お菊 / 三浦哲郎
鎧櫃の血 / 岡本綺堂
蒲団 / 橘外男
碁盤 / 森銑三
赤い鼻緒の下駄 / 柴田錬三郎
足 / 藤本義一
手 / 舟崎克彦
人間椅子 / 江戸川乱歩
竈の中の顔 / 田中貢太郎
仲間 / 三島由紀夫
妙な話 / 芥川龍之介
予言 / 久生十蘭
幽霊 / 吉田健一
幽霊 / 正宗白鳥
生き口を問ふ女 / 折口信夫
博物館「ウェルカム・コレクション」 「うつくしい博物画の記録」 グラフィック社 220円
折口信夫 「古事記の研究」 中公文庫 655円
マルセル・プルースト 「失われた時を求めて」 ちくま文庫版全10冊のうち3,4,7巻。手持ちの1,2,5巻と合わせて、あと4冊。
現実を写し取るために精緻を極めようとした結果逆にシュルレアリスティックな世界を切り開いてしまった博物学の画像。

これはこの本には入っていないエルンスト・ヘッケルのものだけど、こういうのを集めた本なんて見つけるともう問答無用でレジに走っている。ただこれはそういう類の本なのに収録画像が少なすぎる。
一通り読んだもののわたしの中の古事記はちっとも完結した気配がない、ともあれ一度読んだことで簡単な見取り図は確保したことだし、それを手にしてさらに探査を続けよう。ある意味なんだか開かれた書物の様相となりつつある。
プルーストはすでに持っていたのがちくま文庫版だったから、これで集めているけど、訳の評判としては後発の岩波文庫版が読みやすいという評価になっているようだ。岩波のほうは写真も入ってるようだし、手元に置くなら岩波のほうがよかったかな。