2022/06/25
知覚の地図 XXXIV 新聞に、暗い土手を蛇のように這いずり回る子供たちの記事が載った、あの日

まるでタルコフスキーだなぁ。っていうか似たような写真、以前に出したような気もするぞ。あまり水面下っていう感じもしないけど、水面下、水の厚い層の向こうで影のように仄見える揺らめく水草とか、どこかこの世じゃない光景のように見えて。

「タフィー王子の大冒険」のタフィー104さんとウェブ拍手のコメントで盛り上がった志津屋のパン。京都の代表的な老舗のパン屋さんで、オリジナルの店以外に、普通にスーパーの一角、志津屋コーナーみたいなところで日常的に買えるから知らなかったんだけど、ここのパンって京都でしか食べられないそうだ。一応オンラインショップもあるけど、アンパンだけしか扱っていない。このカルネは志津屋の数あるパンの中でも手軽で、パン好きには京都のソウルフードなんて呼ばれてるくらい人気がある。普通の京カルネとペッパーカルネの二種類があり、微妙な違いだけどペッパーカルネのほうがメリハリがある感じがする。これを買った時もペッパーのほうは残り一個で、普通のカルネよりもこちらのほうがよく売れてるみたい。
作りはシンプルで、使っているパンはわたしは最初フランスパンだと思っていたんだけど、ドイツのカイザーロールというものらしい。噛んだ時の歯の入り具合は柔らかいくせに妙に粘り気のある固さがあって噛み切るのに意外と力がいるそのカイザーロールに、ボンレスハムと玉ねぎが挟み込んであるだけで、カルネマーガリンというもので微妙な風味を織り込んでいる。カルネ独特の味つけの主導権はこのカルネマーガリンが握っているようだ。このマーガリンは通販されているみたいだから、カルネの再現は意外と簡単に家庭でできるかもしれない。

この写真じゃあまり分からないけど、かなりでかい。普通のマーガリンのパッケージの4倍くらいある。


あと個人的には細身のフランスパンにボンレスハムと、玉ねぎじゃなくてチーズを挟んだカスクートや、独特のソースをたっぷり塗った厚手のカツサンドが大好き。
特に志津屋のカツサンドは子供のころ丸山野外音楽堂へ土曜コンサートに連れて行ってもらった時、帰りによく食べた思い出があって、そういう懐かしい記憶をまとわりつかせてわたしの中に存在し続けている。
古本で本を買っていると、新品ではありえないような状態の本に出くわすことが当たり前のようにある。汚れているとか擦れているとか、その程度だともう常態というか気にも留めていない場合が多い。もちろん綺麗な本のほうがいいという意識がある一方で、いろんな人の手に渡って読み込まれ、日常生活に組み込まれていろんな場所で紐解かれくたびれ果てている本は、むしろ本としては至福の状態であるんじゃないかとも想像する。本来は自分は潔癖症の類だと思っていた。書店に平積みしてある雑誌なんかは確実に何冊か下ものもを取ってレジに持って行っていた。でもこの古本の平気さを思い合わせるなら、自分はそれほど潔癖症でもなかったのかなと認識を新たにする。電車のつり革だって平気で掴むし。平積みの下のほうから取るというのは、潔癖症のせいではなく、ただ単純にこの本のページを繰るのは自分が一番最初だと、その権利を行使するための儀式に過ぎなかったんじゃないかと思う。
古書に関しては使用による劣化はたいていのことなら許容範囲に入ってしまうことになっているんだけど、これだけはどうにも我慢ならないっていうのがいくつかあって、その一つが水濡れによる染み。複数ページにわたってページが波打ち不規則に盛り上がり引き攣れて、しかも雲状の変色した染みが広がっている。

こういうやつ。
これは本当に汚く不潔に見える。触るだけで何か変な病気がうつりそう。店頭で見かけたら、かなり珍しい本だと心揺らぐものの、それでも間違いなく棚に戻してるだろう。ブックオフオンラインの店頭受取で注文した本だったんだけど、躊躇いなしに問い合わせから返金要求して、今は返品してしまったからもう手元にはない。ブックオフオンラインは本の状態としては水濡れ本は商品として扱わないとサイトに明言してあったから、検品ミスだったんだろうけど、これにはびっくりした。水関連だと醤油らしい飛沫がページに飛んでるのも最近発見したなぁ。これは店頭で気づいて棚に戻した本だった。宇治小倉店の棚に今も置いてある。
あと本の汚れというと、余白に書き込みがしてあったり、やたらラインが引いてあったりするのも嫌気がさす。自分はそんなところに注目していないっていうのに、他人が引いたラインにどうしても目が行ってしまって集中できずに気分が苛ついてくる。本にラインをひいて抵抗のないタイプという人種がいるんじゃないかと思う。そして大抵ラインは本の最初のほうに集中していて途中からは綺麗なページが続くようになって、このライン引いた人、最後まで読めなかったんだなぁと想像させるところまでがワンセットになっている。
欄外の書き込みも同様にいらだたせる。ライン引きと全く同じで読みたくもないのに視線が引きつけられ、他人が、自分しか読むこともないだろうと思って書いた文章とはこんなに読みにくいものなのかと驚嘆しつつ、内容など理解する気もないのに、視界に入った以上解読にわずかなりとも労力を費やしてしまってることに気づくと非常に腹立たしい気分になる。解読しても大抵本文の下手な要約だったり、なぜこんなことが理解できないのかと思う疑問が書き連ねてあったりするのが大半だ。フェルマーような、のちの数学者を330年間悩まし続けた欄外書き込みなんて言う面白いものに出会える確率は皆無に等しいだろう。

これは欄外に書いてあったおそらく何かの覚書。どこか古代遺跡にでも書いてあるような文字に比べるとはるかに読めそうで、でもわたしには読めない。
あとこういう署名もたまにある。

実のところ驚くべきことにこの人のこの同じ署名のある別の本を、別の機会、別の場所でもう一冊手に入れている。こんな偶然ってあるんだと我ながら信じがたい思いだ。もう一冊のほうの署名の日付は1974年だったから、この人は71年から74年の間はおそらく確実に自分の本にこの形で署名していたんだろう。署名を入れた本を売るなよと思う一方で、本の内容からは所有していた北尾哲氏はあまり子供とも思えず、この70年代前半にはすでに大人であったならば、今も生きてる可能性はそれなりに低いはずで、ひょっとして自分で売り飛ばしたんじゃなくて、遺品整理で遺族が処分したものだという可能性のほうも高そうな気がする。どこに住んでいたのかも何をしていた人かも、どういう年代の人だったのかも皆目分からない北尾哲氏が今も生きているのかどうか。確かめるすべは、可能性なんて云う言葉が失笑してしまうくらい皆無だ。
この前書いた「日本怪談集」を読み終える。後半にも収録されていた森銑三のもう一本である「碁盤」がやっぱり面白い。こちらも猫の話同様に全く怖くない。どちらかというとしみじみとした余韻をおぼえるような話になってるんだけど、それでも感触はやっぱり怪談そのものだ。全体に理由付けされているもの、怪異の理屈が分かるように書いてあるものは小説としての完成度は高いのかもしれないものの怪談としては総じてつまらない。怪異の素性が理屈として割り切れてしまうものはいくら恐ろしい現象が書いてあっても、最終的には理に落ちてしまって、理由もないのに後ろを振り返ってみないと収まらないような薄気味悪さに感情をかき乱されることはない。こういう観点から行くとまるで何も説明しない怪異がごろっと転がっているだけのような田中貢太郎の「竈の中の顔」がもやもやと後をひく怪談の楽しみを提供してくれる。江戸川乱歩の「人間椅子」はあらためて読んでみると奇想を成り立たせる濃密な語り口、文体の雰囲気がやっぱり群を抜いている。こんなに内容を熟知していて、いまさら「人間椅子」なんてと思いながらも読み始めてみると、なんだか知らない間に夢中になって読んでしまっていた。江戸川乱歩恐るべし。考えてみれば乱歩さんも実に型にはまらない小説を書いていた。「パノラマ島奇談」なんて乱歩以外誰も発想しえない唯一無比の小説だろう。江戸川乱歩もまた読み返したくなってきたなぁ。実は家に、雑誌連載当時の挿絵もそのまま収録する形で刊行されていた創元社の乱歩全集の文庫が、これはいまだに完結せず10年ほど前に刊行が止まったままになっているんだけど、この文庫全集がかなりの数あるので、読み返すのに本屋に走らなくてもすむ。
新潮現代文学
開高健/日本三文オペラ 夏の闇 他
石川淳/荒魂 紫苑物語 処女懐胎 他
森茉莉/甘い蜜の部屋 恋人たちの森
永井龍男/石板東京図絵 青梅雨 雀の卵 他 各220円
森銑三「物いふ小箱」筑摩書房 700円くらいだった。ヤフオクで。
澁澤龍彦「うつろ舟」福武文庫 確か30円くらい。アマゾンの古書で
新潮現代文学は誰かが大量に放出したようでかなりの冊数がブックオフのワゴンでたたき売られていた。箱入りの全集本で状態もとてもきれい。文庫で持っていたりするのもあったけど、単行本であること、箱入りであること、箱の挿画とかの要素も含めるとまた別の本の趣だし、興味のある作家のものを何冊か買ってしまった。他にも小島信夫のものとか、後でもう一度買いに行ったんだけど、めぼしいものはかなり売れてしまっていて、結局入手したのはこれだけ。
あまりにも面白かったので森銑三の元本を入手。講談社文芸文庫からも出ているが絶版の上に市場に顔を出してもプレミアつきになっている。しかもこの文庫は新仮名遣いに変更してあるのが今一つで、ここは旧仮名遣いのままの単行本のほうが圧倒的に楽しい。
「うつろ舟」は家のどこかにあるはずなんだけど見つからなくて、また買ってしまった。現行のものは河出文庫から出ているが、雰囲気は旧版の福武文庫のほうがいい。福武文庫といえば今は刊行休止となっていて、風変わりな文学を文庫化していた記憶がある。昔の、同じく休刊してしまった辺境の文学の宝庫だったサンリオSF文庫みたいな位置づけで、サンリオ同様に今もファンが多そうだ。それにしてもサンリオの文庫は手に入らなくなった後でも他社が再販しているものは少ない印象で、家にあるものだと79年に出版されたままそれっきりの、アルフレッド・ジャリの「馬的思考」なんていうのも、ヤフオクなんかがなかった時代には幻のような本扱いだったんだろう。