【写真】窓尽くし +【写真集】KEIICHI TAHARA

窓 01







窓 02





窓 03






窓 04






窓 05




旧京都府庁舎の桜の写真のところで、窓ばかり撮ってたと書いた、その窓の写真を纏めてみました。
最初のだけ別のところで撮ったのが混じってるけど、他はこの桜の季節に旧京都府庁舎で撮っていたものばかりです。

しかしそれにしてもこうやって集めてみると、窓枠の縦横の直線ラインが目立つ良く似たイメージのものになりがちという感じかなぁ。もうちょっといろんなイメージとして撮れると良いんだけど、なかなか難しい。
窓そのものはもっと汚れていたほうがよかったです。多少は汚れた線が入っていたりするんだけど、旧とはいえ廃墟でもなく、さすがに府庁の建物なので、汚れてはいてもこちらが期待するレベルまで汚れてるほどではなかったのが残念なところでした。

どうして窓や窓辺の佇まいに惹かれるのかと考えてみれば、四角いフレームで区切られてるのがまず良いといったところかな。区切られてそこで完結してる世界というイメージと、それと同時に、窓枠の外側に見ることが出来ない世界が広がってるという不可視の領域がイメージの幅を広げてるようなところがあるとか。向こう側に広がる世界っていう、こちらにいる限り窓のガラスに遮られて手が届かない、無限に遠くにあるような世界を目にしてるようで、そういう感覚も私には魅力的に感じられるようです。
上手く捉えるのは難しいものの、光の表情が出やすいって云うところもいいです。濃い影とまぶしい光のコントラストが強い世界も好きなんだけど、窓辺の淡い光も結構好き。反対に今の季節のように鈍い光でなんだかすべてを均等に覆いつくしてくるようなのは苦手です。

でもこういう風に書いてみて、自分がその対象に惹かれてるところを客観的に見ようとするのは自分の感覚の資質を見極める役に立ちそうにも思うけど、反面纏めてしまうことで零れ落ちてしまう、纏め切れない、言葉にも置換されないような微妙なものを、自分から見えなくしてしまうようなことにもなりそうで、あまりよくないようにも思います。
自分が見たもの、見ようとしたものをイメージとして形にすることには腐心しても、見ようとしたものが何だったのかなんてことは写真を撮った本人にも別に分かる必要もないのかもしれないです。

アップした写真についていくつかメモしておくと、二枚目のはカーテンの曲線じゃなくて直線部分だけを切り出してみたもの。四枚目は、これは府知事室だったかなぁ、立派な椅子と机が置いてあった部屋だったんだけど、椅子が明るい色過ぎて、もうちょっと薄暗がりの中に沈んでいて欲しかった。
五枚目のは窓の外の緑が光に乗って窓の内側の空間にも流れ込んできてる場所。ただ小さな観葉植物でも何でもいいから被写体がもう一つくらいは欲しかったかも。ちょっとシンプルすぎる?

使ったカメラは最初のがオリンパスの35RC。府庁舎のモノクロがニコンのF3HPで、最後のカラーが最近使ってるミノルタのNew X-700でした。F3の場合、最近は50mmとニコンのレンズの望遠で持ってるのが135mmなので、この二本を使うことが多いんだけど、この時はF3を50mm一本で撮ってたんじゃなかったかな。

F3

F3はイタリアの工業デザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロがデザインしたニコンの昔のフラグシップ機で随分と長い間作り続けられたロングセラーのカメラ。
かつての最高機種だからどうしても欲しかったのかと云うと、ニコンのカメラでこの頃からデザイン的に使われてる赤いラインがあまり好きでもなくて、視野率100パーセントである程度明るいファインダーのものが欲しいなぁと思い始めるまではそれほど物欲の対象にもならなかったカメラでした。

わたしが買ったのは眼鏡をかけていてファインダーから目が少し離れた位置にあってもフレームの全体が見渡せるハイアイポイントのファインダーがついてるものでした。もっともこれは普通のファインダーが覗きにくいというわけでもないので、ハイアイポイントになったぶんフレームが僅かにではあるけど小さくなったことを考えると、普通のでも良かったかと思います。ファインダーだけ交換できるからそのうち普通のアイレベルのものに代えてしまうかも。
全体の使い勝手は過不足なく、F2ほど重くないし、総てのボタンは適材適所にあるという感じでかなりいいです。これ、古いカメラにしては珍しく、来年までまだニコンでの修理期間があるので、期間内にオーバーホールに出しておこうと思ってます。



☆ ☆ ☆



窓といえば田原桂一さんの写真に、ぞのものずばり「窓」と題されたシリーズがあって、これが結構なわたしのお気に入りだったりします。

tahara 1


tahara 2


TAHARA03


田原桂一さんは京都出身の作家。小劇団レッド・ブッダ・シアターのヨーロッパ公演に照明担当として同行、渡仏した後、帰国する劇団とは離れて一人フランスに留まり写真を撮り始めた人だそうです。
ただ写真に関しては時間が経つにつれ活動の中心が変化したのかあまり展開していくような感じでもなく、その後は光の彫刻といったものを作る造形作家に変貌していきます。
途中で写真家であることから軸足をずらしたせいなのか写真集の類もあまり見つからず、わたしが持ってる京都の何必館(かひつかん)で出版されたおそらく個展でも開催していた時の図録と、光の彫刻と題された東京都庭園美術館で開催された展覧会の、これもおそらく図録の2冊くらいしか見たことがないです。過去には初期のモノクロを収めた写真集が出版されていたようだけど、今では古書でも見つけるのが難しい様子。
ちなみに「光の彫刻」はアマゾンでも入手できるものの、造形作品が主の図録で点数も少なく、写真は図録の中というよりも、なんだかこちらが主役なのかとも思える付属のCD-ROMにデータとして入ってる点数のほうが多かったです。データなんていう形じゃなくて紙媒体として見たかった。

結局のところわたしとしてはこの人の作品として興味を引くのはごく初期のこの「窓」のシリーズのようなものだけで、光の彫刻とかはほとんどわたしの琴線には触れずじまいと云う感じでした。写真でしか見てないけど彫刻のほうはあまり洗練されてるようにも見えず、どちらかというとちょっと泥臭いところがあるように思います。
あくまでも初期の写真3シリーズがわたしにとってのこの人に関する関心事となってます。

屋外を舞台にした最初の「都市」から始まって境界ともいうべき「窓」から室内「エクラ」へと至る写真群。どの写真もモノクロで、ハイコントラスト、ざらついた粒子感、腐食し朽ち果てていくようなテクスチャという表現を駆使して、記憶の中でざわめいていた光を、光そのものが物質化してそこに立ち上がってるようなイメージとして形にしていくようなものとなっています。物質化する光と、形を照らす光じゃなく時間の中にこそ見出すべき光があるというような光に対する態度、そしてこのわたしたちが住む世界の光景のようには到底見えない超現実感がとにかくかっこいい。

現像を自分でやり始めてから、こういう仕上げにしてみたいと思うこともしょっちゅうで、印画紙に焼く段階のことだったらお手上げだけど、フィルムの段階での話だとするなら、こういうのを見るたびに色々と試行錯誤してみるのも面白いかもなんて思ったりしてます。
ただこういうモノクロ表現はモノクロフィルムのある種の極点でもあって、田原桂一さん本人も、まぁこれはわたしが勝手に想像してるだけだけど、この傾向の写真の先にさらに展開できる道が見つからないから普通の写真へ、さらに彫刻へと変化していったのかもしれないと思うと、こういう仕上がりのモノクロは極め付きにかっこいい反面、先には袋小路が待っていそうで、進むには結構な覚悟が必要な予感がします。






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