街の肖像画#12 山科疎水2 + 奥山由之 写真集「 Girl 」 + Lisa Ekdahl - Heavenly Shower

疎水の木々
2015 / 04 / Fuji ACROS 100を自家現像





栗原邸の窓
2015 / 04 / Fuji ACROS 100を自家現像

同じく山科疎水で撮った写真。相変わらず山科疎水にまで足を運ぶものの、疎水は眼にするだけで暫く疎水沿いに歩いた後街中に下りてその辺りで写真を撮る、そして疎水の写真は撮らずに帰ってくるような行動の繰り返しではあります。
それならわざわざ山科まで行く必要ないって云うことだけど、そこはあまり行くことがなかった場所だから、多少の新鮮さはあって、そういう新鮮さを保ってる間は気がすむまで道の曲がり角を曲がってみないと何だか納得できないという感じがあったりします。だからといっていつもと違う写真を撮るわけでもなく、代わり映えしない写真を撮るだけなんだけどね。
山の斜面に出来てる街並みがちょっと珍しい、高級別荘地なのか、人の住んでる気配のない家が散見される。明らかに廃屋になってるのも多い、この前の階段の写真も廃墟だったんだけど、こういうところがちょっと面白いです。
今回の窓の反射像の写真も疎水沿いにある栗原邸の廃墟。ただ後で調べてみるとこの栗原邸はかなり有名な建築物で外見は崩れかけたような印象があるもののそれなりに管理されていて、不定期に一般公開もされてる邸宅らしいです。

それと、ほとんど人が路地に出てこないような、路上に濃い影が落ちる、ある種白昼夢のような街をカメラ持って歩いてると、窓の向こう側からこちらを窺う視線があるとするなら、わたしは明らかに不審者に見えてるだろうと思うものの、昨日は向こうから声かけて道案内してくれる人もいて、意外と怪しい人には見えてないのかななんて思った一瞬もありました。古いニコンを襷がけにしてたのを行き当たる前からちらちらと見られてた感じだったから、こういうカメラが声をかけるきっかけになったのかもしれません。
クラシックカメラはどうもおじさんホイホイのような側面もあって、国産コピーライカのレオタックスなんか持って歩いてたら一度薀蓄じいさんが引っかかってきて、コピーだと分かると白けたような顔になったものの、それでも延々と薀蓄話をされたこともありました。この時は早く話が終わらないかなと辟易してました。

今回のはちょっと主情的。
メランコリーだとかノスタルジーだとかあまり写真に上乗せしたくない、過剰に意味を乗せたくないなんて云ってるわりに、しかもそれほど根っからのロマンチストでもないくせに、主観の衣を被せるような、情緒的な撮り方をしてみた写真。
何だかどこかでいろんな人が既に撮ってるような、それなりに類型的なイメージでもあります。
撮ってみると面白ことは面白いものの、やっぱりスタイルはちょっと違うかな。あまり情緒に走らないくらいの位置でフィルムのローファイ的な部分を使って味付けしたような写真は撮ってみたいとは思うんだけど。


山科の猫
2015 / 04 / Fuji ACROS 100を自家現像

猫を飼ったこともないし、言葉の通じる人間相手でも上手くコミュニケーションできないのに、言葉の通じない猫相手では途方にくれるばかり。本当は言葉が通じないから、人相手のような生臭い思惑も介在せずにいいのかもしれないけど、その良さが分かるほどに近しい場所で一緒に生活したこともなく、だから何だか色々と意思表示の動作を示してくれる時もあるのに、不甲斐ないことに何をして欲しいと云おうとしてるのか一切分かりません。
そういう対象だから、仲良く戯れてるようなのはわたしにとっては嘘になるし、むしろコミュニケーションの出来なさを写真に撮るほうが正直かなと思います。
昨日は人一人が通れるか通れないかくらいの細い路地で猫と鉢合わせ。正面向いたままお互いに硬直状態になって、ここはしゃがんで目線の高さを合わせたほうがいいかなとしゃがんだとたん、それがきっかけだったように猫のほうは一瞬にして向きを変えこちらを振りむくことさえなく路地の向こうに走り去っていきました。しゃがんで急には動けない状態になったことを悟られて、その隙に逃げられてしまったわけだけど、でもこの場合はどうしたらよかったのかな。


☆ ☆ ☆


フィルムのローファイ的な要素を上手く使ってるといえば、この前Unionのことを書いた時に名前出した、アパートの入り口の写真でわたしを考え込ませてくれた奥山由之さんの写真集がそんな感じでした。



girl



奥山由之 Girl2


写真集の冒頭に「睡眠中における精神的イメージと感情の記録」とあるのがテーマ。モノクロが主流のところに若干のカラーイメージが紛れ込むように展開される写真は、夢に見る以上何か切実な意味があるはずだというのは分かるものの、どうしても何かの把握可能な意味へと結びついてくれないような、あいまいでもどかしさを伴う感覚を形にしてるという感じかな。
粗い粒子だとか光線引きだとか、上に書いたフィルムのローファイ的なものを表現手段に使ってる、使い方がとても上手い。光線引きしてる写真なんかこんなに適した部分に適した量で光りが入り込んでくるなんて不可能だろうと思うばかりで、どうやってコントロールしてるのか知りたくなりました。
でも、お気に入りの写真家でこの写真集も手元に持ってるのに、実はこの「Girl」という写真集、写真家を気に入ってるのと同様に気に入ってるかというと、それほどでもないというのが正直なところだったりします。

まず展開されてるイメージが多彩ではないということ。時折薄明るい光の中のシーツのひだやカーテンのクローズアップ写真が挟み込まれてるところから、夜明け近い薄明のなかで熟睡するでもなく時折覚醒してはまどろんで見た一つの短い夢の側面を並べてるといったくらいの規模で、それぞれの写真は違うイメージで成立してはいるんだけど、あまり広がったイメージ空間だという感じを受けなかったということと、これは信じがたいことなんだけど、同じ写真が何度もページを変えて出てくるという仕様になっていたこと。
この同じ写真が何度も出てくるのは、最初は落丁本じゃないかと思ったくらいでした。どうも夢の中で同じシーンが反復するのを表現してるらしいんだけど、いくらなんでも表現というには直接過ぎ、稚拙すぎるだろうと。このやり方はただでさえ少ないイメージ展開がさらに少なくなってるという印象しかもたらさなかったです。
同じイメージが並んでるのかわずかに違うイメージが同じ振りをして並んでるのか、そういうところを謎めいたものとして評価してくれる人がいたというようなことを、本人がインタビューで云ってるのを読んだことがあるけど、それ、よほど首ったけになってないと出てこない感想で、普通は落丁本としか思わないです。事実わたしはこれは欠陥品だろうと、買ったところに文句云おうかと思ったもの。

ということでお気に入りの写真家ではあるけど、この写真集じゃなくてUnionでわたしを悩ませてるほうの写真を撮ってる奥山由之さんの写真に興味があるというのが本当のところかも。写真のスタイルもUnionで展開してるものとこのデビューの写真集で見せていたものとは既にかなり異なってるし、この写真集に関しては写真的なセンスはあるものの、内容はそれほど迫ってくることもなくて、ローファイ的な表現や、プリントしたものをさらに複写してイメージの質を変換させるといった方法論のほうが面白かったという程度でわたしの中に納まってしまいました。



☆ ☆ ☆


Lisa Ekdahl - Heavenly Shower


スウェーデンの歌姫リサ・エクダールの、去年出たアルバムに収録されてた曲。
曲調はドラマチックでソウルフルだけど、この独特のロリータ・ボイスで歌われると、いつもなら動かない情動の部分がざわめいて来るようです。この人の歌声はどこかに引っ掛かりが出来てしまうと癖になりかねない。
PVもポラロイドっぽいフィルムライクな質感と色合いでかっこいい。もっとも実際にフィルムを使ってみると必ずこんな色になるわけでもないんだけど、イメージとしてのフィルムの色合いっていうのはこんな感じなんですよね。
結局インポッシブルはポラロイドのフィルムを再現できなかったし、ポラロイドがこの世界から消えてしまったのは本当に取り返しがつかない損失だったんじゃないかなと今更にして思ったりします。













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