鉄の魚、水の中の太陽 +うつゆみこ写真集「はこぶねのそと」

鉄の魚
2016 / 06 /OLYMPUS μII 110 / Fuji Superia 400





水の中の太陽
2015 / 07 / Nikon AF600 / Kodak SuperGold 400


単純に2枚の写真を並べただけでインスタレーションもないんだけど、こういうのを一度やってみたかった。二つのイメージが隣接することで、元々そんなに異質のイメージでもなかったりすることもあって、シュルレアリスムの解剖台の上でミシンと蝙蝠傘が不意に出会うような美しさまとまではいかないようだけど、それでも二つのイメージが絡み合う、一枚の写真では出てこない何かがあるような気もする。並べた個々の写真も単独で見るよりも、他のイメージと関連付けるように並べると、新たな意味が生じるなんていう大層なものじゃなくても、ちょっとした余白めいたものが生じるようだ。

街中で見かけたものを採集でもするように四角いフレームで拾い集めていった。これはコピーし記録するという写真本来の意味に沿ったものだと思う。でもこういうものを撮っている時にいつも思い、そしてたびたびここでも書いていることは、かっこいいイメージがあるとするなら、それは鉄の魚を作った人や、インコと植物をドームに封じ込めた人の手腕によっているということだ。
こういうことを考え始めると、従来的な表現行為とは無縁でいられる写真の、ある種の過激性が面白くてカメラを持ち、街の中へ探検に出かけるようになったところもあるのに、わたしの想念は幾分揺らぎ始める。

アンディ・ウォーホルの絵画、というかシルクスクリーンの作品とか、大衆消費社会のアイコンなんていう出来合いのものを相手にして、最終的にはウォーホル独自の感覚によったものを生み出していた。モンローやプレスリーやキャンベルのスープ缶を素材としてああいうイメージを生み出せたのはウォーホルしかいなかった。
写真でああいう方向を見出せないものかと夢想する。誰かの作った鉄の魚を、もう少し自分の領域に引き寄せるような写真。写真を加工すればいいというのは一つの方向ではあるものの、でもコピーし記録するという写真の本質を逸脱したくないという条件がつくと、これはちょっと途方にくれてしまいそうだ。

まぁね、カメラ構えてる時はいつもこんな面倒臭いこと考えてシャッター切ってるわけでもないんだけどね。単純に面白そうなもの、自分が好むものを見つけたらフレームで切り取っているだけ。
ただガラスドームのインコのようなのは、その出来合いの空間との関係性で写真を撮るだけじゃなくて、このガラス容器の中に自分でインコと植物を閉じ込めて配置してみたかったというところはあったりする。

☆ ☆ ☆

こんなことを書いていると、うつゆみこの写真集を思い出した。

はこぶねのそと01

はこぶねのそとというタイトルの写真集。
既存のイメージやオブジェに粘液質で生臭そうなものを組み合わせて、キュートでグロテスクといったイメージの写真を作り出した写真集。今見るとどこかサブカルっぽい印象もあるかな。方法としては随分とユニークに見えるけれど、似たような方法、似たようなイメージで写真を撮っている写真家に今道子という人がいる。ただわたしは今道子のほうは数点の写真しか見たことがないので、はっきりとは云えないんだけど、この写真集のようなキュートさはあまりなさそうな印象だ。

はこぶねのそと02



はこぶねのそと03


上で書いたインコと植物を自分の手でガラス容器に封印してみたいと思ったことを、実際に試みている。既存のイメージに思い切り手を加えて作品世界といったものを構築している反面、写真としてはもう単純に目の前のものを端正に記録しているだけ。記録、コピーとしての写真は写真の本質ではあるんだけど、ここまで徹底されると、これが写真の表現だと言い切ってしまうのには、どうも居心地の悪い思いが頭をもたげてくる。この写真集を見ると、どこか矛盾した写真への思いのようなものに絡め撮られたような気分になってくるんだな。

写真集なんだけど写真を対象化するような行為はほとんどなされず、ひたすらに写真の目前で展開される世界に力が注がれている。写真の本質を体現しながら写真であることは目の前から消えうせている奇妙な感覚。目の前のサブカル臭漂うキュートでグロテスクなイメージを楽しむと同時にそういう奇妙さも体験できる写真集とでも云えるかもしれない。

それにしても一枚の写真を撮るために、こういう立体作品を作って、構築した世界一つに対して写真一枚で完結する創作行為とか、何だか凄い無駄を含んでるような気がしないでもないし、写真に撮って完結させるよりも、立体作品として成立させたほうがいいんじゃないかとも思うんだけど、これだけの手間をかけて最後に写真一枚でフィニッシュにするようなどこかねじくれた感性のようなものこそがいいという感じなのかなぁ。

☆ ☆ ☆

読み返してみると、何だか今回は話が落ち着くようで、散らばったまま終わったような内容だな。



☆ ☆ ☆





作る作品世界は面白いんだけど、この路線でそんなに先のほうまで進めるとも思えないなぁ。というかこの路線で果てしなく続けられたら、それはきっと凄いことなんじゃないかと思う。





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コメント

No title

おはようございます
最初の2枚の並び、オブジェの面白さ・可愛さと生命を物体として「閉じ込める」ような感覚の二面性が。
加工せずあくまでも記録ということならフィルムでもやれることがありそうです。あぁ、だから影と光に拘りがあるんですね…

2枚並んだ写真は手法としてありますね。
撮影者の強烈なメッセージというか、内面のイライラというか、あれは訓練なんでしょうか。何パターンも組み合わせて試行錯誤しながらやっているのか。

やりたいと思ったことはとことん追求した方が面白いです。これからも期待!

No title

金属の魚もガラス一枚挟んでますよね。
蛍光灯らしき写り込みが、左のガラス容器とつながって、面白い対ですね。
普段の感じよりも、みっちり詰め込んだようなフレーミングのせいか、
(ひょっとしてお店でCD化してもらうと端っこ切れるのでしょうか?サービスプリントみたく。)
キッチュな感じもありますし(^^。

さて、撮影対象の件ですが、難しいですね。
他人の作った作品、というそのままの物も然りですけど、
今日びよほどの辺境にでも行かない限り、
人の意思が宿っていない風景などありませんし、
写真に過激性があるとすればもう、再構築以外にないなと思ったり。
そういう意味では、まったく関係性のない二枚を、
自身の文脈に則って並列するとか、縦に流してみるとか、
ある程度の量でやってくしかないのかな、とか。
対象に予め込められている人の意思を、一枚で変容させたりとかって、
やはり難しいなぁ、そう思うことが多いです。

NINA 27さんへ

こんばんは!
ガラスドーム内のインコも硬い魚も被写体としては風変わりで面白いですよね。ガラス容器に封じ込めている形は、封じ込めることで何か特別な小宇宙のようなものが目の前に立ち上がるような気がして、物のありようとしては自分では結構気に入った形なんじゃないかと思ってます。標本箱に入っている感じとでも云うのかな。生き物をモチーフとして標本箱に閉じ込めたような閉ざされた宇宙を作っているのは、生き物独特の存在感とちょっとギャップがあって、面白いものになっていると思います。

光と影は、やっぱり意識するかなぁ。何かを撮っているわけだから、当然目の前に被写体はあるんだけど、突き詰めていくと被写体の意味とかよりも被写体をそういう風に見せている光のほうに興味があるんじゃないかと思うことがあったりもします。撮っている時には面白いものが目の前にあるということだけしか頭になかったりしても、結局そういう見え方をしているというポイントで写真を撮ろうとしてるんじゃないかと。写真を加工するのは結構抵抗があるんですよね。自分の思惑に沿ったイメージにするよりは、その時見た光とオブジェの存在感を形にしたいと思ってるから。

インスタレーションは展示の方法としては結構一般化してきてますよね。写真以外でもこういう展示法してる人は当たり前にいるみたいだし。ちょっと思い出すのはもう一年前の展覧会になるんだけどヴォルフガング・ティルマンスの展覧会がまさしくインスタレーションでした。
額装もなにもしていない写真が、大小取り混ぜて壁面にただ止められてるっていう展示。ティルマンスの場合はどうやら会場の模型を作って、それを基に写真の配置のシミュレーションをしながら、どういう配置にしていくか決めていったそうです。
もうそれはみっちりと作者の意図に沿った配置になっていたようで、でもわたしはそういう作者の意図にまったくついていけなかったなぁ。もうバラバラにシャッフルしたような展示で、この写真に似たモチーフはあっちの壁面にも展示してあったなぁなんて思い出すと、その写真が貼ってあった場所まで戻ったりして、途中からティルマンスの思惑なんか関係無しになってました。ティルマンスがインスタレーションで凝った分だけわたしが会場内で右往左往しただけって言う感じでした。
でも、額に収まってふんぞり返ってるような展示と比べると、流動的で開放的、自由な感じが強く出てきて、やっぱり面白いですね。こういう展示をやりたくなる気持ちは理解できます。

やろうと思ったことはとりあえずやってみると、これは本当に忘れちゃいけないことですよね。

halさんへ

こんばんは!
ガラスが間にあります。映り込みとか最近はあまり排除しようと思わなくなってきて、写ったらそういうイメージなんだと納得しておくほうが多いです。二枚の写真の関連付けに役立ってますか。ちょっと矢印っぽい役でもしてくれてるのかな。偶然にそういう要素が立ち上がってくるというのも面白いですよね。意図しただけのものだとつまらない。
ガラスドームのインコのほうはここまではフレームに入れたいと思って色々と試してました。被写体が密集してるんですよね。だからCD化の時のトリミングの結果じゃないんだけど、プリントもどうしてライカ判のままでやってくれないんでしょうね。私はそんなに昔から写真に興味があったわけじゃないから、事情は良く知らないんだけど、L判がこういう場合の標準になる何かがあったのかなぁ。
これガラスドーム一個でも端正なイメージになりそうだけど、植物が入ってるから密集感があったほうがジャングルっぽくて視覚的には映えるんじゃないかなと思います。

以前にこういうことを考え出した時は人の手によらない木や森なんかを撮ったりすると云うようなことを書いたけど、確かに街中で人の手によらないものなんて探すほうが難しいわけで、その辺は開き直るか、街の中にあるものの採集だと思えばあまり気にもならなくなるんじゃないかとも思います。
もともと表現とか、そんなに無条件に信頼しているわけでもないので、自分の表現が出来ないから駄目だなんていうことはまるで思わないし、読み替えていくこととか、引用することとかはかなり重要な方法になってくるんじゃないかとわたしも思ってます。
ただ、鉄の魚のかっこよさの大元が自分の手の内にないというのは、やっぱり多少苛立つ気分を覚えてしまうんですよね。その辺割り切れないというか、信じないといいながらも従来的な表現行為に絡み撮られてる部分があるんだと思います。

No title

はこぶねのそとの今道子さん
タイトルが可愛らしい
発想が彗星さんに似てるって思っちゃった
芸術家って普通の人より一歩も三歩も進んでるもの♪

みゆきんさんへ

こんばんは!
はこぶねのそとはうつゆみこさんですね。今道子さんはわりと良く似た方法で写真撮ってる人で、魚が一杯貼り付けてあるスーツとか異様な写真を撮ってたりします。この人の写真集も一冊くらいは欲しいんだけど微妙に高くて持ってないです。

タイトルって結構気合入れてつけてますよ。もう言葉のほうで写真の内容を増幅しようかというような意気込みで。しょうもない写真でもタイトルで見栄えが良くなったりするかもしれないし。最もあまりにもかっこつけたタイトルだと名前負けしてるように見えたりするから、そこはまぁ適度なテンションでつけるほうが上手く行くような気がします。
今回の水の中の太陽も我ながらかっこいいタイトルだと、思いついた時は気分が高揚しました。鉄の魚もシンプルだけどなかなかいいんじゃないでしょうか。どちらも、一体なんだろうと興味を引かれそうなところがあるように思いませんか?
でもあまり内容に捉われないで、それでも何となく相応しいような気分になるはこぶねのそとはつけ方が上手いと思います。わたしが考えるタイトルはどこかやっぱり写真の一番目につくような内容に関連付けている部分があるもの。
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