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祇園で寄り道 + Henry Mancini - Dear Heart

格子 簾
2016 / 10 / Canon A35 Datelux / Fuji 100





祇園の曲がり角
2016 / 10 / Canon A35 Datelux / Fuji 100



父に今日はどこで写真撮ってきたんや?と訊かれて、祇園で撮っていたと答えたら、あんなとこ撮るとこなかったやろと云われてしまった。
まぁね、確かに街全体が一致協力して単一の超強力なイメージを生み出すことに専心しているような場所だから、あの街でイメージをずらし、読み替えて再構築するような思惑は、まず間違いなく拾い集めるのも困難なほど粉砕されるのが落ちなんだろうと思う。
実のところ祇園そのものを撮りに行ったんじゃなくて、東山の護国神社に登っていく道の一筋南隣に沿って延びている坂道、その坂道に隣接して建っている、壁面をパイプが縦横に覆っている、実際は廃墟じゃないんだけど半ば廃墟じみた場所を撮りに行った。だからこの時、祇園はそこへ行くまでに通過する場所だったんだけれど、どうせ通っていくなら写真も撮ってみようと思って、寄り道しながら歩き回ってみたというわけだ。結局目的の場所には思いのほか到着するのが遅くなって、当初思っていたほどには撮れない結果となった。

寄り道といいながら、意外と時間をかけて撮り歩いていた。決まりきった祇園のイメージが巨大な障壁のように立ちはだかってる前で、この場所で延々と再生産され続けているイメージにカメラを委ねて、ちまちまとした個性なんか吹っ飛ばす、誰が撮っても全部同じなんていうのもある種過激なんじゃないかとも思ったり、細部を祇園じゃなくなるまで切り分けていったり、それなりに時間をかけて歩き回っていたところをみると、撮ることを楽しむのはどこでもそれなりに出来るということだったのかもしれない。



光さす祇園
2016 / 10 / Canon A35 Datelux / Fuji 100





祇園の玄関
2016 / 10 / Canon A35 Datelux / Fuji 100


全体になんだか納まりかえったような撮り方になってる。もうちょっと自然体で撮れないものかと思う。ある種通りすがりで目の前を掠めたような、あるいは対象の前に座り込んで絵具でも出しながら絵を描いているような感じじゃなく、その時その場所で出会った一瞬の刹那感とか、あまりがちがちに構えないでそういうものが入り込むような撮り方を試みてみたいところだ。
撮っていたカメラはキヤノンの昔のレンジファインダー機で、レンズの画角は40mm。50mmからこの辺りの標準域のレンズが納まりかえったイメージに貢献しているんじゃないかとも思ったりする。これより広角になると自分としては使いにくいなぁという範疇になってくるんだけど、こういう書き方の延長で言うとこれよりも広角になると体裁よく纏まったイメージが作りにくくなるからとでもいえそうな気がする。
最初の写真は、わざわざ植木がある場所を選んで撮ったんだけど、この木は必要なかったなぁ。いかにもかっこつけて撮ってますという主張以外の役に立っていない。


☆ ☆ ☆

Henry Mancini - Dear Heart

以前に一度載せたことがある曲で、アンディ・ウィリアムスとかペギー・リーなんかのアレンジ違いを載せようかとも思ったんだけど、こういう艶のあるコーラスが好きなので、これがやっぱり一番いい。
ロマンチックで、シンプルだけどヘンリー・マンシーニのメロディメーカーとしての本領発揮といった曲だと思う。










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コメント

No title

祇園は最高だったわよ
タイムスリップしたみたいで
隣の家との境目が殆どなくてビックリだったけど
もう一度行きたいわ
って思わせる写真だわ♪

みゆきんさんへ

こんにちは!
京都旅行のこと、また思い出せましたか。
祇園と云ってもわたしの場合はお茶屋に入るわけでもなくて、外側から見ているだけ。これ、実際に舞妓さんに相手してもらって遊んだら全然印象が違ってきそう。内側から祇園の事を見ていなくて、わたしが見ているのは祇園のほんの一部分のみかもしれません。
祇園の家屋には入ったことはないんだけど、典型的な町家の作りになっているみたいですね。奥に深く延びていて俗にいう鰻の寝床。お茶屋さんとかもそんな作りになってませんでしたか?
一度中も見たいとは思うんだけど、何か一大決心していかないと入れなさそうでなかなか実現には至ってません。

隣と隙間がないって云うのは面白い発見ですよね。そういう作りの家が当たり前と思ってると、まるで気がつかないポイントだと思います。
自分では当たり前と思っていることがよそにいくとまるで当たり前じゃないというのは、他にも一杯ありそう。旅行はそういものを再発見していく楽しみもありそうです。

No title

こんにちは
「誰が撮っても全部同じ」。
東京だと渋谷や新宿のストリート・キャンディッドフォトが氾濫してるんですが…どれも同じに見えてしまう自分です。
中に入っていかないと見えないものでしょうね…それにしても祇園じゃお金がいくらあっても足りなさそう(怖)

NINA 27さんへ

こんばんは!
みんなと同じ写真を撮ってみるというのはコンセプト的には過激だと思うところはあっても、実際にやってみたら感想はおそらくあまり面白くないというのになりそうです。
祇園辺りは、特に花見小路周辺は徹底的に撮り尽くされてるから、目新しいイメージで撮ろうとしたら途方にくれてしまいます。
わたしも繁華街で人を撮っている写真は似たような感じに見えるかな、難易度的にはかなり難しいとは思うけど、難しさは見る側には関係ないことなので、やっぱりあまり独創的でもないって云う感想を抱くほうが多いです。知らない人を写しても後で見て楽しいのかなとも思ったり。
でも表面に留まって写す、人間の真実みたいな感じで垂直に降りていくことはやらないという撮り方は自分的には結構気に入ったやり方なんですよね。この辺は自分の中でも揺れ動いている部分なのかもしれないです。

それに確かに祇園は何でも高そう。ランチで3000円くらいとか当たり前だもの。わたしなんかお蕎麦屋さんの何とか定食みたいなのを1000円以内で食べるって云うのが普通だから、ランチで3000円とか目がくらむ思いがします。さらにいっぺん入ってみたいライカの店も怖くて入れないし。お茶屋ともなると費用以外に一見さんお断りなんていうのもあるし、内部に入り込むには敷居が高すぎるかなぁ。お茶屋に知り合いでもいれば事は簡単そうだけど、そんなに都合よく知り合いがいるわけでもないと。

でもあの紅殻格子を内側から撮るようなことはやってみたいですね。これも撮りつくされたイメージになるかもしれないけど。

No title

2枚目、立入禁止っぽい立て札前の鉢植えが、
何だかイケズっぽいなと思って面白かったり(笑。
町並みの全体としては超管理されてるんでしょうけども。
奥にぼやけてる綺麗に並べられた鉢植えたちには、
通る人の目を楽しませようとする家人の、美観的な意図を感じますが、
このようにポツンと置かれた木には、置いたその人の「迷惑やなぁ」的な、
素の思惑が露わにされてるようで、ペーソス含みの目線やなぁ、と思ったり(笑。

halさんへ

こんにちは!
この看板、撮る時に邪魔だなぁって思いました。隠れる角度で撮ろうかと思って、ちょっと動き回ってみたもののもう一つパッとしないので、ひょっとしたら看板が入っていたほうが面白いかもと思い直して撮ってみたものです。
でもこれ立ち入るなと云ってもあるのは紅殻格子だけで、まさかこの格子を抜けて入ってくるなといってるとは思えず、だとしたらこの角っこのちょっとした空きのことを云ってるのかなぁ。この空間、立ち入るって云うような空間じゃないと思うけど。
一応最前面に出さずに植木の影においてるところが京都らしいって云う感じ?まぁ表面的に波風を立てたくないので本音はそのままの形では絶対に出さない京都の思惑そのもののイメージ化というならまさにその通りかも。上手いことイメージの意味的な切り出しをしますね。そうやって云われてみると、この一本の木はコーナーを彩ろうという意図よりは、この小さな空間にさえ入って来れないような障壁として置かれてるんだと気づいたりします。
この通りは花見小路の一本となりの路地で、7割くらいが料亭であとは民家が混ざっているような感じです。あの奥の植物が一杯置いてあるのも確か料亭のはず。写真とろうかなと思ったけど、あの場所ではあまり特殊な感じにもみえなくて、パスしたところでした。民家も含めて軒先に植木を置いているところは多いですよ。そのうち載せるかもしれないけど、下の植木鉢から蔦を伸ばしてわざと格子に絡ませてる植え方とかしてる所もあって、凝ってるところも色々発見出来たりします。

花見小路の表通りはまさしく鉄壁のイメージ作り。これはこっちに引き寄せようとしてもまるで歯が立たない感じなんだけど、路地に入っていくとちょっと生活臭のある場所もあったりして、この辺では写真撮れるかもとか思ってます。

花見小路を歩いていて、洋菓子ぎおんさかいまち店だったかなぁ、名前は聞いたことがない写真家がパリで撮った写真を披露しているとポスターが貼ってありました。ちょっと興味を引かれたものの、この辺りの店はとにかく高すぎて入るのが怖いです。

No title

京都へは、14歳、修学旅行で、50歳代、専門学校のクラス会旅行で一泊しました。鮮やかな紅葉が記憶に残っています。街並みや格子戸はとても落ち着きますが、昔なら、もう少し考えられたであろう、街角の樹木の鉢は~。

和さんへ

こんばんは!
紅葉の季節に京都に来られたんですか。今ちょうどその季節で、紅葉といってすぐに頭に思い浮かぶのは東福寺とか南禅寺辺りかな。東福寺はこの期間中は駅からの人出が半端ない状態になってます。わたしもこういう季節的なイベントは、ブログに載せるようになってからはよく写真撮りに行ってたけど、最近はあまり撮りに行かなくなったかなぁ。どうもイベント的なものを撮るというのにあまり関心が向かなくなってしまって、ごく最近だと時代祭がそんな感じでした。実はそれを知らないで行列が通る辺りへ出かけてしまって、カメラ持っていたけど結局行列がやってくる前に別のところに行ってしまいました。

紅殻格子の京町家はわりと見かけたりするので結構見慣れた作りなんだけど、花見小路周辺のように、これだけ連続して町家が並んでいると、やっぱり独特の雰囲気になりますね。情緒一杯でいかにも京都的というか。京都の町家は鰻の寝床で奥に長い構造になっていて、見た目の風情のように住んでみても快適かどうかは人にもよりそうだけど。

この植木の鉢の意味はコメントを読んで気がつきました。写している時は単純に曲がり角のアクセントになりそうと思ってシャッター切ったんだけど、確かにこの小さな三角のスペースに入らせないための障壁の役になってるんですよね。これ、面白いですよね。こんなこと京都の人以外では考えないんじゃないかなぁ。外見は穏やかを装って、内に結構違うものを隠し持ってると。でもここに入るなという意図はこの路地を通る人にはあまり伝わらないかも。だから追加で分かりすい立ち入り禁止の看板も置いたんでしょうね。京都の街中、注意深く観察してみると、こういう思いかけないようなものが発見できるかも、なんて思いました。
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