色空凝視 金金金

色の仕組み





空と観察





金金金



2016 / 04
2016 / 07
2016 / 10
烏丸御池 / 七条 鴨川 / 東山 安井金比羅宮
OLYMPUS XA2 / RICOH AUTOHALF E / NIKON COOLPIX S9700
KODAK SUPERGOLD 400


ちょっとシュルレアリストの言葉遊びを真似てタイトルをつけてみようかなと。安井金比羅宮の写真、ワッペンを貼っているようなポップな壁面の様相に気を引かれて撮った写真だったんだけど、この写真を眺めていて「金金金」というタイトルを思いついたのがきっかけ。「金金金」って凄い単語だなぁ。これは使わない手はないし、どうせ使うならもっと意味不明にしてやろう、なんていうことを考えた。
単語単位でばらばらにした言葉をかき集めた中から、ランダムに引き出した単語を並べて文章にしてみるというようなやり方。カットアップ的な方法論で、考えてみれば今の音楽とか結構当たり前のようにやっている。そういう風にみると今まであまり聴く気にもならなかったサンプリングを駆使したようなものもシュルレアリスムの末裔として興味を引くものになってきそうだ。
ちなみに写真のインスタレーションも似た感じに捉えても良さそうだ。一世紀前の思考、感性の革命は普遍的な基盤を持って今も有効性を保っている。
ちょっとこういうことを書いて思い出したんだけど、結構昔の関西ローカルの深夜番組、タイトルは忘れてしまって、確かばんばひろふみが司会をやっていたと思うバラエティ番組で、その中のコーナーに投稿された複数の俳句を三分割し、シャッフルした中からランダムに三つ文節を組み合わせてその場で番組の女の子が読み上げるというのがあった。新たに組みなおされた俳句は読み上げる直前まで伏せられて、読み上げる段階で初めて姿を現す。これ、覚えている人いるかなぁ。途中からその組み合わせに、番組制作者の面白くしようとするあざとい意図が入り込むようになってとたんにつまらなくなったんだけど、ネタ混じりの投稿俳句をばらばらにし、ランダムに組み直してでっちあげた俳句は意味不明で、しかも元々のネタ混じりの部分も絶妙にブレンドされて大笑いだった。ばんばひろふみと云ってもエンドレスナイトじゃなくてそこから派生したような小さな番組だったが、あれはなんていう番組だったかなぁ。やっぱりどうにも思い出せない。それともばんばひろふみでさえもなかったのか。

写真のほうはね、いつものようにこんなものだ。声高に何かを主張するわけでもなく、なにもないことを意味あるように演出する方向へもあまり視線は向いていない。
わたしは自分を取り巻く世界を無意味と認識しているのか、意味の絡み合う編目で覆い尽くされた向こうに意味に絡めとられないで存在しているはずの何かをみたいと思っているのか、その辺りの消息は自分でもよく分かっていないんだけど、少なくともテーマを掲げてテーマに閉じた写真は自分には撮れないと思っている。どうせテーマで閉じたものを作り出せない、そういう世界認識なら、いっそのこと意味から開かれている写真を撮ってみるのも面白い。そんな意気込みで撮っていることが多いかもしれない。
カットアップというなら最初からカットアップされて出来上がっているイメージといったところか。
でもこういうのってブログでさぁどうですかと披露するのにあまり向いていないような気がする。何らかの形で意味あるように纏めてしまわないと形にならないところがあるんだもの。

☆ ☆ ☆



奈良原一高の「Tokyo,the’50s」という写真集。

Tokyo,the’50s 

Tokyo,the’50s 

Tokyo,the’50s 

分かりやすいといえば極端に分かりやすい写真集かもしれない。日常に異界が口を開けかけた瞬間を何の迷いもなく取り込んだ写真集と、一言で云ってそんなに外しているとは思えない。

今だ写真家になる前の奈良原一高が東京を歩いて撮っていた写真。のちに写真家になる方向へと導いた写真を撮る傍らで特別な目的もなく東京という都市を彷徨い歩いて撮っていた写真だそうだ。あとがきによると数枚をプリントした程度でそのフィルムはそのままネガケースに放り込まれ放置されていたらしい。
その忘れ去っていたネガフィルムを、似たような動機で再び東京を撮り始めようとした時に思い出し、40年ぶりに再び眼にすることになった結果こういう写真集が出来上がったとある。

撮ることで欲望が充足、完結してしまって、撮っただけでそのまま発表することなく放置、というタイプの写真家は、他にはアマチュアに徹して発表する目論みも持たずに一般市民の視点で東京の街を撮り続けた桑原甲子雄だとか、最近だとヴィヴィアン・マイヤーなんかが頭に浮かんでくる。ゲイリー・ウィノグランドも写真家としては大成したけれど死後整理もされていない大量のネガが発見された、撮ることで充足するタイプの人だったのかもしれない。どういう要素が働いてそうなるのか、シャッターを切る快楽だけが動機という、こういった写真家は結構他にも多そうだ。

それはともかく、この異界への道筋を辿る写真集を眺めていると、異界が開くその瞬間にその場に居合わせることが絶対的な条件だというのがよく分かる、的確な場所と時間、写真の神様が舞い降りるその時空に居合わせるのは間違いなく写真家の才能なんだろうと思う。これは努力なんかとは無縁の才能で、こういうのに恵まれる人もいるんだとため息の一つも出そうな気分になる。

ちなみに奈良原一高がこれを思い出す切っ掛けとなった、40年後に再び東京を撮りだした写真というのは、「ポケット東京」として集められた写真群のことだと思うけれど、同じ奈良原一高なのにこっちのほうはものの見事に異界の扉は閉じてしまっている。
これを取り上げるのにまた眺めてみて、「Tokyo,the’50s」に見えたオーラのようなものが完全に消えているという初見時の感想は変わらない一方で、それなりに面白くは眺められはしたものの、でもやっぱり際立つような写真の神様は40年後の奈良原一高の目の前にはほとんど降り立ってくれなかったんだろうなと思う。
そういう、同じ人間の前にでもほんの数度やってくるかどうかという稀有な瞬間に、シャッターを切ることだけに純粋な欲望を抱いていた写真家が居合わせた、幸福な写真がこの写真集なんだろう。







40年の時を隔てて、奈良原一高の手によってもう一度撮られた東京。続「Tokyo,the’50s」としてみてみると肩透かしを食らうのは間違いなし。
でも異界への扉だとかなんだとか、こういうある種分かりやすい観念を外してみてみると、これもまた別の面白さに満ちている。
全写真真四角フレームの写真で、病気療養のためにしばらくカメラからはなれて肉眼で周囲の世界を見る生活をしていた奈良原一高はそういう人の眼で見る縦も横も関係ない真ん中を切り取る視線にはこのフレームが一番馴染んでいたというようなことを云っていた。異界への導きこそ影を潜めてはいるけれど、こういう視線の感覚は随分と過激で今風でもあり、日の丸構図のどこが悪いといつも思っているわたしには結構フィットする部分がある。
ある種いかにもな写真的情緒といったものの不在が持ち込んでくるそっけなさ、即物性がむしろモダンな印象をもたらしているんだけど、情緒的な写真こそが写真と思っているような層には受けは良くなかったんだろうなぁ。古書価格も全然高騰していないし、わたしがこれを手に入れたのはブックオフだったんだけど、確か500円くらいで投げ売られていた。しかもわたしがお金を払って手に入れるまで結構長い間店の棚に放置されていたし。
つまりね、わたしも長い間ブックオフの本棚にあるのを見ていて、でもこれはあの異界の写真集とは何か違うぞと、500円なのになかなか手を出さなかったというわけだ。






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コメント

No title

彗星さんの目に留まった色彩と不思議な金の文字?
ホント一世紀前って言葉は暗号かも
いつも感心するわ
どうやってそれを見つけるのか♪

みゆきんさんへ

こんばんは!
色で写真を撮ることはわりとあって、最初のはそういう典型的なものだったんだけど、形の面白さもちょっと狙ってました。
左側の赤い色とその看板が落とす鎖つきの影とか、こういうところも結構気に入ってます。全体に得体の知れない雰囲気があるのも面白いでしょ。
金のは結局何だったのかよく分からずじまいです。どうも倉の壁のように見えるんだけどやっぱり何だかもう一つ分からないというかな。金のカラフルな文字も金比羅さんだからという理由なんだと思うけど、こんな形にしてしまってるのが不思議なんですよね。ここに来るとこの壁がいつも謎なんだけど、他の人は縁結びと縁切り祈願に没頭してるみたいです。
シュルレアリスムなんていうと本当に古臭い芸術運動のように見えるんだけど、扱っていた精神や感性がかなり普遍的なものだったから、今でも通用するんですよね。古いからという理由だけで排除してしまうのはこれに限らず凄い損をする場合があると思います。流行のものも面白いけど古いものも大好き。
やっぱりちょっと胡散臭そうなものは目を引きやすいのかな。それなりに被写体探しモードに入ってないとあまり視線が留まらなくなってくるので、カメラ持ってるときは気合入れます。気合入れても視線が滑るなんてざらにあるので、そんなモードに入ってもつまらない写真ばかり撮ってる場合が多いけど。
面白い被写体の見つけ方なんて云うのがどこかにないかなと、これは本気で思ったりしますね。

No title

うんうん
古いものって味があるよね
昭和の時代はアイディア満載だったね^^

みゆきんさんへ

こんばんは!
昔のものというだけで古臭いだとか時流に乗っていないだとか。そんな風に見がちになる人も多いと思うけど、こういう考え方はとてももったいないんですよね。今の発想にない物だって一杯あるし、視野が広がって初めて見えてくるものもあると。単純に古いというだけで排除してしまうのは結局自分の感覚にいらない限定をつけているだけだし、いろんなものにいつも新鮮な目を持って接していくほうがずっと面白いと思います。
ただ古いものこそ良いなんていう思考の狭窄にはまり込まないように注意は必要だけど。

No title

『金』の配置、配色も可愛らしく、
何かのお菓子の箱の蓋?最初そんなふうに思いました。
落雁のような干菓子が入ってそうな。
鴨川で俯いている学生たちは何をしてるのでしょう。
しかし『金』を見た後では、何か宝探しをしているようですね。

にしても、こういった思い切りの良い切り取り方も面白いなと思います。
ついついみんな入れ込まないと、とか思ってしまいますもので(笑。

halさんへ

こんばんは!
そういえば落雁のパッケージが凄く似合いそうですよね。安井金比羅宮もこれをパッケージデザインにした名物の落雁なんていう形で売り出せば良いのに。それにしてもこのデザイン、何なんでしょうね。通路の少し外れに放置しておくのはもったいないという気がします。昔から壁にこういう風にしてあったという感じでもないし、何かの強い意志のようなものも感じられるのが謎めいて面白いです。お参りする人は誰一人としてこの壁に注目してなさそうなのがこれまた謎。まぁ知ってしまえばどうってことのないものになると思うので、知らないうちが楽しいのかもしれません。
この学生もそうですよね。一体何を覗き込んでいるのか。今となっては知りようもないし、永遠の謎になってしまってるんだけど、これも知ってしまうと何だそういうことかと収まってしまうんじゃないかと思います。ひょっとしたら今回の写真の裏テーマみたいなのは「謎」だったりして。この子達が一列になってこの場所に歩いていくところもアビーロードみたいと写真に撮ったんだけど、こうやって何か覗きこんでいる写真のほうが圧倒的に面白いです。

わたしも結構いろんなものを入れたくなるほうかなぁ。ファインダーを覗きこんであれもこれもと目移りしてる場合が多いです。金村修の写真みたいにごちゃごちゃしたものも好きなんだけど、そういうのを狙っても纏まりがない感じになりがちで、好きなわりに納得した形にならないことがほとんどかもしれないです。広角が苦手なのもそんなところにあるのかも。50mmくらいの画角は意図しないでも適当に余分なものを整理してくれるところがあるように思います。
だから広角を上手く使う人の撮り方、距離感とか、そういう秘密を知りたいと思うんですよね。

No title

タイトルを見て「何々!?」って思ったら
そういう事だったんですね。
相変わらずインパクトがあるなぁ。

最初の看板!?
良い雰囲気を醸し出しているけれど
タイトルが金だからってそうじゃないのが
逆に粋に思えます(*^_^*)

ROUGEさんへ

こんばんは!
なかなか強烈なタイトルでしょ。思いついた時即座に絶対これがいい!って思いました。最近こういう事に写真よりもエネルギーをかけているかも。でも強烈な印象でもこういうタイトルって検索では引っかからないんですよね。お客さんが来る道を自分で全部閉ざしているような感じになって、これは思案のしどころになってます。
本当は無題としたほうが出しやすい写真なんかもあるんだけど、ブログの記事にする段階で無題では記事が書けないので、この辺に妙に力入れてひねり出そうとしている時がありますね。

最初のは看板です。何の商売しているところだったか忘れてしまったけど、色っていう漢字が装飾つきで堂々と出てきてるのが、切り取り方でシュールになりそうだなぁって思いました。赤い看板の色と影の感じもメリハリが効いていてかっこよかったです。全体の色の面の組み合わせもかっこついてる撮り方になってるんじゃないかな。色面の構成とかわりと写真に撮りたくなってくる対象なんですよね。
カラーで撮る時は思いっきり色を意識して撮るほうが面白そうです。

確かに金を三段重ねにしてる割に最初のにも当の最後のにも金色そのものは出てきてないんですよね。こういう味付けはさりげなくやると粋になりますよね。
粋な写真っていうのも撮ってみたいなぁ。綺麗とか異様とか幻想的とかそういうのはすぐに思いつくけど、粋な写真っていうのは撮ってる人はあまりいないんじゃないかと思います。
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