午睡 / ジャン・ボードリヤール 「消滅の技法」

眠りうさぎ





手すりと光窓


2017 / 06
嵯峨野
Olympus Pen E-P5 / Konica Eye
Fuji 100

相も変わらず嵯峨野巡り。といっても観光スポットではほとんど撮ってないから、嵯峨野である必要もあまりなかったりする。
嵯峨野、嵐山と名前はもう観光地そのものの場所だけど、行って見ると意外と観光スポットは少ない。竹林の道や渡月橋の辺り、猿山に近隣の寺社くらいじゃないかな。トロッコ列車に乗ったり保津峡の川下りなんていうのもあるけど、だからといって観光地として多彩な印象になるというほどでもない。
桂川もちょっと広すぎて川縁を歩いても気を引くポイントとかほとんどない。先日試しにあまり人が通っていない右岸のほうを歩いてみたけど、舗装した道と川の反対側である山裾と空を覆うような樹木が続いてるだけだった。対岸から見ると木々のトンネルの中を抜けていくようなイメージにも見えてはいたんだけど、木々は実際にはトンネルというほど空を覆ってない。おまけに桂川を対岸へ渡ろうとすると橋は渡月橋しかなく、両岸の散策路を遠くまで歩いてしまうと、向こう岸に渡りたくてもいちいちこの渡月橋のある場所まで戻ってこなくてはならない。それほど探検しなくてもそのうち桂川では船遊びくらいしかやることがなくなってしまう。
で、思いの外大味な場所なので、そろそろ写真撮る場所を変えようかとも思い始めた。
この前引いた大吉のおみくじによると、吉方は東だということだ。嵐山は京都の西で、真逆の方向ではないかと思い至って愕然とする。でも東と云っても東山の辺りもあまり新鮮な気分で撮れそうもない。ということで思いついたのはさらに東に行って大津辺り、琵琶湖の湖畔はどうだろうということだった。大阪には頻繁に行くんだけど、何故か滋賀のほうには足どころか意識さえも向いたことがない。
水辺の写真とか夏にうってつけのようでもあるし、一度行ってみるかなぁと思い始めてる。

嵯峨野は観光客に混じって歩いてみると広いのに限定された観光スポットしかないなぁっていう印象だけど、一つだけ目に留まった場所で御髪神社って云うのがあった。日本で唯一つ髪の毛の神様の神社だそうで、世の男性には救いの神に見える人も多そうだ。そういう男性のための福音をもたらすべく、珍しいのでここは探検に行ってみたい。観光客の歩くルートとも離れてるし、おそらく人通りはほとんどないと思う。

今回の写真はちょっとクールでしょ。こういう撮り方が細部を捉えるとはあまり思ってはいないんだけど、最近はここという位置からさらに下がって広くフレームで切り取るような撮り方をしていたから、こういう接近戦に近いような撮り方をやったのは久しぶりだった。自分で撮って眺めていて思ったのは余白のとり方といったところかな。イメージの抜き加減というか何もない空間を上手く取り入れるということだった。ずっと昔から思っていたことだけど特に縦構図の場合は日本画なんかが参考になるんじゃないかなぁ。掛け軸とかまさに縦構図の完成形のようなのが多いし。


☆ ☆ ☆


社会学者、思想家であるジャン・ボードリヤールが書いた写真論の本。
消滅1

というか、論というほど筋道だって論理的に何かを解き明かしてる風でもなく、覚書に近い思考の断片が連なって、その断片が照応しつつ、輪郭が浮遊しているような不定形の内容空間を形成してる感じだ。そして本はそういう言葉で綴られてる部分とボードリヤールが実際に自分で撮った写真の二部構成になっていて、写真のほうが全体の三分の二くらいと、文章の分量よりも多い。
この本の言語空間はポストモダン的な立脚点から展開していく写真論とでも言うのか、世界を記述する方法として、従来的な表現する主体のようなものよりも客体のほうに重点を置いた方法を試行して行くような展開になってる。矮小な自己で世界を染め上げるよりも、事物そのものに語らせるべきだというような方向性。

消滅2

もうほとんど冒頭の部分に、写真に撮られるのを望んだのは光景のほうであって、あなたが気に入って撮ったと思っているのは実は勝手な思い違いだと、その光景が演出しているのであって、あなたは単なる端役にしか過ぎないというような一節が目に入ってくる。ちょっと前に書いた荒木経惟の本の中に街が表現してるものを切り取ってくれば良いんだよといった件があって、自分はそういう考え方が気に入ってると云うようなことを書いたけど、こういう考え方とボードリヤールの論調は根を同じにしてるように見える。
主体があるイメージで染め上げて表す世界像といったものとは真逆の世界の記述方法の提案は、カメラという機械が指し示す世界像とは意外なほどしっくりと馴染んでるように見える。カメラのレンズは人の眼よりも冷静で正確で、何の修練もなしに誰でもがシャッターボタンを押すだけで世界を切り取れる。ボードリヤールが語る世界の記述法はこんな道具が一番活躍出来そうな世界でもある。

消滅3

ただね、唯一の欠点はこの本、極めつけに難解なんだな。
客体を中心にすえて、主体や主体が生み出すイメージとの関係などを従来的に受け入れられていたものから様々に読み直し相対化していく思考の集積物のような文章部分は、今回これを紹介しようとまた少し読み直してみたんだけど正直この独特の難解さに辟易してしまった。輪郭線がふわふわと浮遊して形を変えていくようなこの本の言論空間はおそらく云っている内容そのものはそれほど難解でも重厚なものでもないと思うんだけど、なにしろボードリヤールの言葉使いが、言葉の厳密な定義もなしにボードリヤール流とでも云うような使い方をしているために、普通の書物のように内容を理解する方向へはなかなか進めない。使われている言葉に対して自分が理解してる意味を与えてみて、こういうことを云っているんだろうと推論するようにしか読めず、こういう風な意味で使ってるんだろうと推測して与えた意味がボードリヤールがこの本で使ってる意味と同じなのか良く分からないという箇所が多い。
で、本当に理解できてるのかどうか何度読んでも確証が得られないようなテキスト部分の言語空間は、面白いけど頭が痛いという感じで、つまらないから思い切り良く切り捨てるということも出来ない難儀なものとなってるんだけど、それとは別に、というより分量的にはこちらのほうが多くなってる写真の部分、これはテキスト部分とは対照的に難儀な様子もなくてなかなか面白い仕上げになってる。社会学者が書いたから文章がメインの本だと思いがちだけど、分量から見てもこの本は写真集であって、はぐらかされるような文章部分はおまけだと思って読むと意外と得したような気分になれる。掲載されてる写真は自分にとってはわりと気を引くものが多かった。とても素人が撮った写真とは思えない、と書くとこの本の趣旨に反してしまうのでそうは書かないけど、並べられた写真は非常に興味深い。それにこんな風に実際に写真を撮って論の実践してる写真論の本ってそんなにないんじゃないかな。

消滅4

ちなみにボードリヤールのメインフィールドである社会学のほうの著作「シミュラークルとシミュレーション」は映画「マトリックス」の発想の元になった本でもある。





カメラがポストモダン的な機械だというのがよく分かる。もっともそんな面白い機械を手にしても、せっかくの脱主体化に恐れをなして従来の表現領域に取り込もうという人がほとんどだけど。


E-P5は外付けのファインダーと標準のズームをつけて使ってる。外付けのファインダーがかっこ悪い。何でこんな不細工なアクセサリーにしかならなかったんだろう。チルト機能なんかいらないからもっと繊細なデザインにして欲しかった。バルナックライカなんかに乗せる、筒状のミニチュア望遠鏡のようなファインダーに比べると、あまりのダサさに目の眩む思いだ。






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コメント

No title

最初の写真は暖かくてハッとしたわ
2枚目の写真は冬に見たら、それだけで温まりそうになる
夏ーーーーーーーーーーーーって感じ
良いね(^^♪

No title

人間の目っていい加減でカメラで撮るとはっとする。
ボードリアヤールの文章の難解さってそんなかゆいとこに手が届かないもどかしさなんですかね

みゆきんさんへ

こんばんは!
うさぎのほうはちょっとメルヘンチックな被写体だけど全体はシックな感じであまり甘くないのがいい感じでしょ。これ民家の玄関にあったんだけど、こんな風に玄関を作ってるってなかなかセンス良い家でした。一度撮って、これが失敗していたのでもう一度撮りに行ってます。どの辺りの民家にあったのかあまり覚えてなかったんだけど、上手くまた見つけ出して今度は失敗しないように何枚か撮りました。嵐山でこういうのにカメラを向けてるのはわたしだけ。観光客はみんな通り過ぎてました。
二枚目のは駅の階段の手すりなんだけど、妙に絵になってるでしょ。陽射しが一杯入り込んでる感じで確かに暖かそう。いまだとちょっと暑すぎるって云う感じになってるかも。こういうところをファインダーで覗いてみて、これ、ちょっといいんじゃないか?って発見するのは写真撮っていて面白いところの一つだと思います。
両方とも低彩度というか、モノトーンに近い色合いになってるのもシックで良い感じだと自分では思ってます。

sukunahikonaさんへ

こんばんは!
痒いところにまったく届かないです。むしろ読む前には痒くもなんともなかったところを、この辺が何となく痒いんじゃないかとわざわざ指摘されてそんな気分になってしまうというか。読んでみれば一目瞭然なんだけど、恣意的な言葉の使い方なんですよね。他の学者の言葉を勝手に使って顰蹙を買ったことがあるとか読んだことがあるし、言葉に関してはこの人は独特の感覚があるのかもしれないです。おまけに翻訳だからそういうのも関係してるかな。考えてみれば冷徹なカメラの眼を賞賛しながら云ってることは極めて主観的で曖昧だと、こんな風に見てみれば矛盾してるじゃないかと思わないこともないけど、述べられてることは結構興味深くて面白いですよ。
ポストモダンという思考の枠組みが他の分野で今も有効なのか時代遅れなのか、わたしはもう一つよく分からないけど、カメラについては極めて面白い視点を提供してくれてるように思います。自らの本質であった詩情を捨て去って、事物性に迫ろうとした中平卓馬とかまさにこういう思考の中にいた人なんじゃないかと思うし、一般に信じられてる創造性のようなものをあらゆるレベルで無効化できる過激な装置っていうのがカメラの持ってる本質だという捉え方は、近代的な何かで閉塞気味なところへ風穴を開けてくれそうでとても刺激的なんじゃないかな。

No title

ここって嵐山だったのね
もしも嵐山に行く事があったら民家にも目を向けてみよっと♪

みゆきんさんへ

こんばんは!
そうです。嵐山で撮ってます。嵐山は嵐電と阪急とJRの三つの駅が近くに集まっていて、そのうちのJRの駅に近いところで見つけました。実のところ観光スポットではあまり撮ってないです。だから別に嵐山でなくても良いんですけどね。
嵐山に住んでるってどういう気分なんだろうなぁって思います。そんなに金持ちが住みそうな住宅地なんてあまり見てないけど、毎日観光が出来るんですよ。それもただで。こんなところに住んでたら引越しする人なんてほとんどいないだろうなぁ。

No title

最初の写真、これが生きた猫だったら
きっと印象が全く違っていたのでしょうけど
何となく触るとヒンヤリとしそうな
陶器の感覚が写真から伝わって来る感じ♪

何気ない手すりでも、窓の光が
良いアクセントになってるわ(*^_^*)

No title

髪の毛の神様の神社は日本に一つしかないんですか。これは今問題になっている獣医学部より前に全国展開しなくてはならない重要施設ではないでしょうか~

ROUGEさんへ

こんにちは!
実際に生きてる何らかの動物がこういう状態でいるのもかなり面白いとは思うけど、作り物はそういうのとは別の独特の質感というか雰囲気というか、また別の何かが雰囲気として出てきますよね。周りの空間の質がまったく異なってくる感じ。ひんやりとしたっていうのは凄い的確に言い当ててると思います。ひんやりとした深い眠りのメタファーそのものが目の前に形としてあるっていうかなぁ。これを玄関に置いたこの家の人のセンスはなかなかのものだと思いました。この時実際にはもっと明るかった記憶があるんだけど良い具合に落ち着いた感じになって、背景になったドアとかが色面構成のデザインみたいになってるのも上手く偶然が働いてくれてます。
手すりもシンプルで面白いでしょ。これはでも窓の光がなかったらひょっとしたら撮らなかったかもしれないです。これはファインダーを覗いた時に、絶対にシャッター押す!と即断できた写真だったんだけど、連続した空間の中だと茫洋としていたものもファインダーを覗いた時に急に主張し始めるときがあって、こういう瞬間が訪れるのは不思議で面白い体験だと思います。

カノッチさんへ

こんにちは!
日本で唯一って言うことらしいですよ。何ていう神様なのかな。こういうところに気配りというか救いをもたらしてやろうなんていう奇特な神様はもっと親しまれても良いような気がするんですよね。全国には藁にもすがりたいと思ってる男性もいると思うので、物凄い心強い味方になってくれるんじゃないかと思います。それにしてもどうして髪の毛が抜けるなんていうことを体が仕組みとして持ってしまってるのか、これが不思議で仕方ないです。細菌のような外的なトラブルでって言うのだったらまだ分かるけど、体が自分の体の毛を抜いてしまえと命令してるっわけでしょ。これがもう分け分からないというか。切羽詰ってる人にとってはおそらく勝手に腕が抜け落ちるとか、そういうのと同じような感覚なんじゃないかと思います。
暑いから何だか動く気になれなくなってるけど、そのうちレポートしてみますね。

No title

下にスクロールするたびにガネーシャが写っていて、なんだか笑ってしまいました(*^^*)
薄荷グリーンさんのアイテム、結構すきです♪

一枚目、なんともいい表情のウサギ!
午睡というタイトルがピッタリですね。

ラサさんへ

おはようございます!
ガネーシャは結構好きなんですよね。象が好きなのかも知れないけど、姿形がもう琴線に触れまくって。これはエスニックの雑貨屋で買った小さな置物でした。もっと大きなのも欲しいんだけど、今のところはこのくらいの大きさで。そのうち大きい本格的なのも買ってしまいそう。話を読めば結構荒ぶる神様でもあるらしいのがまたかっこいいです。
この手の小さな人形はわりと買ってるかなぁ。ブログだと本のページを押えるのを手伝ってもらってるけど、そういえば最近はガネーシャが大活躍ですよね。
この前ラサさんのところで猫が塀の上でバテてる可愛らしい写真が出てた時、うゎ、結構似てる!って思ってちょっとあせりました。でも生きてるものとこういうオブジェ的なものはそれだけでも随分と印象は異なってますよね。
このオブジェ、眠りに落ちてる感覚が凄く良く伝わってくるというか、そのまま周囲の空間を不思議の国に変えてしまいそうな深く静かな眠りって云うのが手で触れそうなくらい実体化してる置物のように思えます。
この玄関、わたしにはもうここを見なくてどうすると矢印が空間に多数浮かんで指し示してるように見えたんだけど、嵐山を歩く観光客の誰一人目を留める人がいなかったです。もったいない。
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