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誰そ彼

夕闇の琵琶湖汽船






夕闇の路面電車






夕闇の水面反射






夕闇の街灯

2917 / 08
2017 / 09 浜大津
Fuji Natura Classica
Fuji Natura1600

ちょっと浜大津で写真撮るのに飽きてきたなぁ。一応何か珍しいものでもあるかなと、この前の大津京とは反対の、なぎさ通り沿いを東に向けて膳所を過ぎた辺りまで歩いてはみたけれど、膳所や近江大橋の辺りまではほんとうに湖岸ラインが続くだけでもはや港ですらなく船も停泊してないし、時折遊覧船ミシガンが立ち寄る桟橋が湖岸の途中に取ってつけたようにあるだけ。他はもう広がる湖面と釣りをしてる人が散見されるだけって言う印象の空間が、果てしなく伸びてるという感じになってくる。散歩やウォーキングには良いところなのかもしれないけどカメラを持ってやってくるには、これがもう本当に意外なほど似合わない場所だったりする。
湖岸から離れて街中に下りてみるとなぎさ通りと湖岸道路の間の、林立するでもなく所在無げな空き地を挟んで建つ大きなビル群とだだっ広い道路の作り出す妙に閑散として寂れた空間の様子にちょっと気を引かれるところがあるものの、試しに写真に撮ってみようとファインダーを覗いてみても、その閑散とした荒涼さが何故か四角く区切られた視界の中には現れてこずに、ただ無個性で見るところもなさそうな灰色のビルが建ってるだけのイメージとなって、シャッターを切るところまではなかなかいかない。
住宅地のほうに足を向けても視線が引っかかるものもなく、というか視線にかかるものは大抵どこかで視線が引っかかったことがあるような空間ばかりで、結局大量の時間をただ歩き回って疲れるだけという、どうにもぱっとしない日々が続いてる。
大体いつも何だって被写体になると嘯いてるし、撮る人によっては道端のゴミでさえかっこいい写真になったりするのに、最近はそういう視点をどこかに置き忘れてきたような気分になってる。夏の暑い日々の、一体どこで置き忘れてきたんだろう。


今回の写真は云ってみるなら夕暮れ写真。でも自分で撮ってみるとセンチメンタルな雰囲気にもならずに、やっぱり随分とドライな写真になるなぁ。
日が暮れかけるのを待って撮ろうとしたんだけど、待ってみるとこれがなかなか夕暮れになってくれず、まず街灯がなかなかついてくれない。その後ようやく街灯が点灯し初めたのを切っ掛けに、まだ暮れるのには間があった頃合だったけれど痺れを切らしてシャッターを切ってしまった。ちっとも神秘的な光にならないと思いつつシャッターを切り始めたものだから枚数もあまり撮れなくて、早々と駅までの帰り道を辿ることになった。
浜大津の湖岸からJRの大津駅まで多少は歩かなければならない上り坂の大通りがある。あれだけまだかまだかと暮れていくのを待ったあげくいい加減に飽きてしまって帰ってきたのに、この帰り道の大通りの途中であっという間に辺りは暗くなり始め、ついさっき湖岸ではあれほど痺れを切らしていたのに、駅についた頃にはまったくの夜の闇と化していた。湖岸でもうちょっと日が沈むのを待ったほうが良かったかと思っても、もう遅かった。昼間だって写真撮ってると気づくんだけど、太陽の動きは思いのほか早く、見てる間に影も移動していく。動く気配のないものでもタイミング的なところはあるってことだ。

とそんな風に書いてみても、絶好のタイミング以外は絶対に駄目だというようなところも自分にはあまりないと思う。
スポットライトのようにドラマチックに足元を照らすに違いないと思っていた街灯は灯ってみるとそんな素振りさえ見せずに、明かりそのものもまだ明るすぎる薄明の中で灯ってるのかどうかさえもはっきりとは写ってくれず、路面電車の顔の一部は電柱の陰に隠れてる。それでもまぁ、それもその瞬間のわたしの眼の前にあった世界の様相であったことには変わりない。

どこで目にしたのか誰が云ったのか記憶にないんだけど、世界にはこれから撮られるはずのすべての写真が埋まってる。写真を撮るっていうのはそうやって世界に無限に埋め込まれた、これから撮られることを待ってる写真の一枚を引き出してくることだといった内容のことを読んだことがある。この考え方は結構好きなところがあって発言者が誰だったのかは忘れてしまったのに内容だけは妙に記憶に残ってる。
駄作も傑作もない、あるのは世界中に満ちた、無限に存在する中から引き出した一枚しかない写真だけだという考え方だと思う。そしてこういうのを頭の片隅においておくと、上のほうで書いたような迷いからも抜け出して、ひょっとしたらシャッターを押し込む指も軽くなっていくかもしれないと思わせるところがある。




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コメント

No title

夕暮れを撮るの難しいんですよね。
見た目に薄暗くても写真だと結構明るくて。
真っ暗になって、やっと・・・って感じで。
でも、それがバシッと撮れると快感なんですけど。
黄昏を誰そ彼と表現したのは◎(笑)
決して「逢魔が時」って感じじゃないけれど
いやいやノルタルジックな雰囲気はよく出てると思います。

ROUGEさんへ

こんにちは!
誰そ彼、一目で意味が分かる人、どのくらいいるんだろうって感じでつけてみました。黄昏という単語は雰囲気にあまりにも直結してそうで、今回の写真はそういう傾向でもなさそうだったから。それにこの言葉だけ抜き出してみると、字面がなんとも落ち着いていないというか、ちょっと異様な感じがしてそう云うのも面白いかなというところもありました。
でも今回の写真、センチメンタルなところもありますか。わたしが撮る写真はあまり情緒に傾かないと自分では思ってるし、どちらかというと空間の構造みたいなものに反応してるところがあるから、夕暮れに何か思いを馳せて、なんていう写真はどうも撮るのが苦手なんですよね。それが長所なのか弱点なのか、扱いようによって両方の面が出てくると思うんだけど、一応思いを馳せたセンチメンタルな情景なんていうのも撮ってみたいという気もあったりします。これもせっかく夕暮れの港なんていうところで撮るんだから、そういう方向への色目は使ってたかな。「逢魔が時」でもいくつか写真を纏めてみたいですね。わたしとしてはこっちのほうがまだ撮りやすそうかも。
デジタルでも結構明るく写りますよね。モニタでは普通に暗く写ってるのにシャッターを切って結果が表示されたら思い切り明るかったりして。液晶のプレビューで暗く表示できるんだったらそのまま写真にしてくれれば良いのにって思います。
これ一応理屈はあるんだけど、カメラは暗いところが多いとそこを明るく計ってしまうから、露出補正で暗いところをもっと暗く撮るように補正しないといけないなんて、普通の感覚だと絶対に納得できないです。

No title

夕暮れ時の写真ってなんか良いですよね。暗いけどもまだ完全には真っ暗でない中で照らされる街の外灯との融合することで結構面白い写真が撮れたりするんですね。

「世界にはこれから撮られるはずのすべての写真が埋まってる」って凄い良い言葉だし確かにそうだなっておもいました。

仰るとおり無限にあるわけです、それも同じ写真にはならないって面白さもありますよね。

グリーンさんは今回の写真を撮る時は上記の言葉などを思い出したあとに撮ったんでしょうか?


何だって被写体になるって確かにそうだけども、同じように気付くとそういう感覚って忘れてしまうことが皆さん多いのかもしれませんね。

そう思えるかどうかはその時の精神状態なんかも関係するのでしょうか。

No title

今日の写真はどれもド感動
特に1番目の写真が素晴らしい
そとて3番目の写真は何故か泣ける
もしかしたら季節のせい?
最期の写真は哀愁

えにぜんさんへ

こんにちは!
昼でも夜でもない不思議な時間帯ですよね。薄明の中に全部が溶け出していきそうな輪郭も曖昧な不思議な世界が、短い時間だけどこの世界に姿を現す。それを写真に撮ってみたいんだけど、これがまた難しい。結構な数撮って、これでもう良いじゃないか程度のものがちょっと撮れれば良いほうというかな。写真栄えする時間帯だから、こういう時に居合わせると、結構夢中になったりします。おまけにこの写真は港なんていうさらにそういうのが合いそうな場所だったから。でもかえってそういう条件が整いすぎて、どこかで見たような港の夕暮れ写真からずらそうと思い、シャッターが切りにくかったところもあったかも。
あの言葉、誰が言ったのか忘れてしまって、誰の言葉だったのか確認したいんだけど、まぁそれはともかく妙に頭に残ってる言葉でした。実際にカメラ構えてる時はやっぱりみんなに賞賛されるような写真を撮ってやろうとか邪念が多すぎて、好きな言葉なのに身についてない感じかな。目の前の物事にシンプルに関わろうとすれば、シャッターを押す指も軽くなるとは思うんだけど、なかなか実践は難しいです。

本当になんだって被写体になるんですよね。撮ってるともっと凄いものとか絶景とか求めたくなって、いつの間にかそういうのしか頭の中に残らなくなってきます。写真は本当はもっとシンプルなもので、目の前の些細なものでも写真は撮れるという感覚を見失いがちになってきます。わたしはとにかくそんな感じに流れていくことが多いです。
そのときの精神状態は結構関係あるんじゃないかな。これはとにかく撮っていくうちに良い方向へ変化していくのを期待するほかないような気がします。頭で考えても絶対に無理かも。

みゆきんさんへ

こんにちは!
結構上手く撮れてましたか。こういう時間帯の写真ってなかなか上手く撮れないんですよね。思い通りの明るさに撮ることからしてなかなか上手くできないです。明るくも暗くもない薄明の中でだけ顔を出す独自の不思議世界、そういうのを捉えたくてなかなか暗くならない港を眺めながら粘ってました。
最初のはそういう意味ではこの中では一番その魔法の時間帯を撮れたものになるかもしれないです。建物もどこか現実離れした印象で、夕闇の不思議世界に合ってますよね。昼の光の中で見るよりはこっちのほうがずっと引き立ってるように思います。ついでにここ、丸窓を撮った場所、丸い灯りを撮った場所だったりします。
三番目のはどうしてなんでしょう。ゆらゆらとゆれて現れては消えていく反射像の儚さが季節と相乗効果をもたらしたとか。こういうイメージは儚さを呼び起こしそうですよね。これも自分としてはシンプルで好きな写真になってます。
最後のは暮れていく夕暮れに灯る街灯と、ちょっと淋しい感じがするかな。何か子供の頃に遊んだ後、家に帰る時間に見てそうな組み合わせで、そういうのを呼び起こしたりしてるのかも。夜になりきってしまうとあまり哀愁っていう感じでもなくなるのが面白いです。
今回のは自分としては夕暮れの写真にしてはドライな撮り方になったかなって思ってたので、意外と情緒的なものも伝わってるんだと思って、コメント楽しかったです。

No title

写真て、その時々の気持ちが入るよね
彗星さんの真っすぐな気持ちが写真に出てます^^

みゆきんさんへ

こんばんは!
そういう部分は写真って不思議ですよね。絵画みたいに筆の動きで直接的に人が関わってるようなところもなくて、シャッターを切りさえすれば誰にでもイメージが作れる。そのイメージはカメラという機械とフィルムという化学反応がまぁ勝手に作ってくれてるわけで、修練した腕で筆を動かさないと一歩も先に進めない絵画とは全然違うんですよね。
でもそんなに機械任せなはずなのに、撮った写真の中にきちんと撮った人の気持ちが入ってしまうっていうのは確かにあると思います。これ、考えてみたら物凄く不思議なことが起こってるんじゃないかなっていう気になってきます。
わたしは結構へそ曲がりな性格だったりして。でも写真撮る時に目の前の対象や空間とどういう風に回路を繋げられるかと思いながら向かい合ってる時は結構素直に対象に接しようと思ってるし、そういうのが出てるのかもしれないですね。発想は素直じゃなくてもその発想に対する態度は真摯であれと、こういうのが結構良い感じかも。

No title

こんばんは
もう、黄昏時はここにはないです。
寒くなって、夏の誰そ彼の思い出にふける時間はまた来年、いつでも味わうことができるように思っているとあっという間に美しい時間は過ぎ去っていきます。
どっぷり入り込む風景だけが僕の周りにあります。そういうことにしないとなかなか一日の区切りができません

すくなひこなさんへ

こんにちは!
こういう時間帯って本当に短いですよね。たそがれ写真を撮っていた帰り道、あと二枚ほど撮ればフィルムを現像に出せるとあって、この時帰り道にその二枚を適当に撮ろうとしてる間に一気に真っ暗になってました。たそがれの時間帯も見てる間に過ぎていくから、待ってた時のもてあました気分とは逆に、結構大忙しでカメラ構えて被写体探して走り回ってた感じです。たそがれ写真撮ってる人は気分としてはあまりその時間帯の雰囲気に浸ってないんじゃないかな。まぁ残りの二枚はもう暗いといっても良いほどの周囲の明かりの中で適当に撮ったんだけど、これがまた適当に撮ったとしては意外と良いんじゃないかって云う写真になってたりして、適当でも撮ってみるもんだなぁなんて思いました。
たそがれはやっぱり夏のイメージなのかな。冬のたそがれとかもう一つ乗り気になれなくて、やっぱり来夏へと繋がっていくんでしょうか。
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