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遠野

木のある空き地





密やかな空き地





河と樹木





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ちらし棚
2016 / 04-05 丹波口
Minolta SR505
Fuji PRESTO 400

遠野とつけてみたものの、当然のことながら遠野で撮った写真じゃない。撮影にさまよい歩いていたのは京都の丹波口の辺りだ。丹波口といえば昔島原遊郭があったところで、でもこの時は花街を撮ろうなんていう気はさらさらなかった。個人的な記憶でいえばここは花街じゃなくて親戚の家があった場所、お正月ともなると親戚一同が集まって、子供心にも特別な楽しい時間を過ごした場所だ。さらに小学6年の頃家の事情で壬生御所ノ内町にあった家を出ることになって、でもあと一年で卒業だからということで、そのままもとの朱雀第一小学校へ通うべく配慮してもらって、わたしだけ家族と離れて一年間、校区は違っていてもそれほど遠くでもないこの親戚の家に一人で下宿していた時期もあった。この親戚の家も今は引っ越してしまって街も様変わり、壬生御所ノ内町の元自宅は今もそのまま残っていてこちらは街が様変わりしていても記憶の奥底を刺激してくる部分も残ってるんだけど、親戚のあったこの丹波口は一年ここで過ごしたとはいえわたしにとってはあくまでも仮の住まいであり、特別な場所であったとしてもあまり懐かしいという感じでもない。特別な場所である一方記憶とはまるで違ってしまった外観も相まって郷愁を誘わない場所。そういうところで写真を撮ってみたわけだ。特に何を撮るという意図もなく目についた空間を、なぜその空間が目についたかということも意識せずにシャッターを切ってみる。何か気を引いたんだけど、その気を引いたものの正体は撮った本人にも分からない。出来上がった写真を見てもそのシャッターを切った時の気分をかすかに感じ取れる場合もある一方で、自分でもどうしてこんな写真を撮ったんだと訝しくなるものも混じっている。特別でありつつ郷愁を誘わないという場所への屈折した個的な態度が写真に紛れ込んでいるのかもまるで分からない。そんなこととはまったく関係なく写真は成立するようでもありそうではなさそうでもある。京極夏彦によるリミックス版遠野物語の冒頭付近に遠野という名前の持つイメージについて、目の前にあるのに辿りつけない、見えているのに手が届かないというような儚い雰囲気を伝えてくるといったことが書いてある。これ、ほとんど写真について語ってるとも云っていいような気がする。そこにあると思ってシャッターを切っても、いつも視線の周辺へと毀れ落ちてしまうもの。注視することで無限に目の前から遠ざかっていってしまうその何かの気配の残滓といったもの。今回の写真がそんな逃げ水のようなものを撮れた写真だとはおおっぴらには宣言しないけど、花街を撮るといった目的もなく、何を撮ると決めないで撮っていた写真にはそういう気配が僅かでも残りそうな気はする。







時間の分厚い壁を通して彼方からかすかに聞こえてくる呟きのような古い薄明の世界っていうあり方は浪漫的な印象で結構好みだったりする。柳田國男のこの遠野物語もそういう類の書物で、さらに民族的な記憶に共鳴するようなところもあっていいんだけど、オリジナルは文体がやっぱり今のものと違うということもあってかなりとっつきにくい。で、いろんな現代語訳のものも出揃ってくるわけだ。ところが学者が訳したものは研究家ではあっても文章家では必ずしもないせいか、遠野物語に限らず大抵読むに耐えない語り口というか、そういうのが多くてあまり楽しめない。そんななかでミステリ作家の京極夏彦が訳したものがあって、これは逐語訳じゃなくて大胆な再構築版なのが特徴となっている。物語を語るプロが語りかける文章だし遠野物語の雰囲気がよりよく伝わるならこれも面白い。もし遠野物語に興味があるものの、文体で挫折してしまってるようなら、このリミックスバージョンは良いと思う。ちなみに京極夏彦のあの長大なミステリ群は「陰摩羅鬼の瑕」あたりから以降は読んでない。でも最近また未読のものを読んでみようかなと思ってる。初期の京極堂シリーズものだと「狂骨の夢」が文体で怪談をやろうとしてるようなところがあって夢中になって読んだ記憶がある。話の出来から云うとこっちのほうが上かもしれない「魍魎の匣」もシリーズの中ではかなり楽しめたし、これは文庫版にもついてるのかどうか知らないけど、ノベルス版の表紙裏にあった謎めいた建物の写真がお気に入りだった。あの建物はこの世界のどこかにあるにしても、一体何の建物なんだろう。


こっちはオリジナルのほうも合本になっているもの。京極夏彦がどういう再構築を行ったか読み較べてみることも出来る。






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コメント

鍵コメさんへ

こんばんは!
京極夏彦読んでますか。長大なのが多いから読むのに気合がいるけど、はまると結構夢中で読みきってしまいますよね。途中からあまりミステリに拘らなくなってるようで、その辺で離れていく人もいそうだけど、ミステリじゃなくてもどこかわたしには気を引くものがあったりします。京極夏彦の本も持ってるけどまだ読んでないのが結構あって、しばらく楽しめそうです。
入院から解放されてよかったですね。入院中には出来なかったことも一杯あったと思うので、そういうのがまたやれるというのは本当に楽しいことだと思います。姫路城は行ったことないので安くて美味しいところと云っても、残念ながら知らないです。でも病院の食事に比べたらどこも美味しいと思うので、どこに入っても相当楽しめるんじゃないかと思います。

No title

どっちも読んで無いんですけど
遠野というと怪談が多いイメージ。
そういう面では京都でも
そんな場所が沢山ありそうじゃないかしら?

そういえばSNS、ツイッターしてなかったっけ?
インスタは写真置き場として使うといいかもですよ。
私は当初、そのツモリで始めたのでした(^^;

ROUGEさんへ

こんにちは!
怪談といえばハーンの「怪談、奇談」も結構好き。もっともこういうのを読んでも本気で怖いと思うほど初々しい感性でもなくなってはいるんだけど。昔から伝わる説話とか、古い書物は以前はかび臭くて大して興味も持てなかったのにいつのまにかあまり抵抗なく読めるようになってました。
京都も怖い話はけっこうありそうですね。原典を辿ると今昔物語あたりまでさかのぼれそう。でも纏まって知ってるかというと実のところそうでもなかったりします。嵐山なんかでものっぺらぼうの話の原型みたいなのがあるようだけど、観光地としてのイメージのほうが強すぎて冥界的なものと気分的には直感的に繋がらないって言うか、そんな感じがします。身近すぎて遠野物語のような遠い世界の話的に接することが出来ないっていうのもあるかな。
そういえばツイッターもSNSでした。あれ、最初はブログで書くほどのことでもないようなことを書くのに利用してたんだけど、どういう風に利用するものなのかいまひとつ分からなくてそのうち関心も薄れ、今はブログ更新のお知らせにしか使ってないんですよね。SNSってどういう場合にどういう風に使うのか未だによく分かってないところがあります。インスタグラムは気がつけば主流に躍り出ていたっていう感じ。写真置場的な使い方なら他にも似たようなサービスがあったのに、そういうのを押しのけて主流になったのは何か特別な魅力でもあったのかな。利用者が多くて埋没してしまいそうだけどいろんな人に写真を見てもらうにはいい場所でしょうね。

No title

子供のころ無性に楽しかった興奮する時間があって次の日それを再現しようとしても絶対そんな時間は訪れることもなく、時を重ねるごとに淡い期待は日々裏切られ続ける。そんな中で大人になって音楽をやったり写真を撮ったり絵をかいたり、美術館や映画館に行ったり旅行したりするのはそんなわけなんだろうな。
今日の写真のような無機質な風景をカメラで切り取ったときにコンクリートの裏側は蝶のさなぎのようにドロドロに溶けているのかもってそんな気持ちにさせられることがあります。

すくなひこなさんへ

こんばんは!
楽しかった時間って予想もしない形で現れて、普段の時間では纏ってないような特別な何かに覆われてる感じがします。予想も出来ない形で来るから意図的に呼び出そうとしても特別な何かを纏うような形では絶対に立ち現れてこない。そんな感じなのかな。自分の感覚が子供の時の体験で形作られていくのはまぁ確かなんだろうけど、そんな風に思うと大人になっても子供の時の感性に拘束されてるようにも思えて、そういうところから解放されたいっていう感じにもなってきそうです。わたしが写真を撮ってるのはわたしにとってどういう意味があるんだろう?それはわたしにとって切実なものなんだろうか?今年の夏は天候のことや体調のこともあってほとんど写真を撮れなかったから、よけいに何かそんなことに思いを馳せてしまいそう。
無機質な世界ってかっこいいです。あまり情動で支配される感性の持ち主でもないから、アウトプットもこんな感じのものになっていくんだろうと思います。でもその背後でまるで正反対のものが蠢いてるって云うのもちょっとホラーじみてシュールで面白いイメージですよね。そういうのを写真に撮れないかなと思いました。シュールな写真ってわたしが持ってるキーワードの一つなんだけど、シュルレアリスム的なイメージで世界を切り取るって、与えられるものだけで形を作っていく写真だと結構難しいです。

No title

写真って 撮ってるときは被写体 対象となるもの、風景といったものを意識して撮ってるけど、年月が過ぎて見たときに あのときは気づかなかったこと
こんなものは気づかなかったとか、そんなことを感じることがあります。

子どもの頃、父方の祖母が小さな駅の近くで小さな食堂をやってて
いとこと一緒に撮ってもらった写真を改めて見たら、何か 限りなく遠くの夢の中の出来事だったような そんな非現実的な感覚となってその写真の中の事象が見えてくる錯覚に陥ってしまいます。

ももPAPAさんへ

こんばんは!
実はわたしは写真撮ってながら自分が写されるのって大嫌いなほうで、でも昔の自分を写してもらった写真に何か非現実な物が混じりこんでるという感覚は凄くよく分かります。写真はその空間、写っているものを特権化するんですよね。過ぎ去った時間の呼び起こす感傷とも相まって写真に写されたものはそれだけで特別なものになる可能性を付加されるとでも云うのかな。時間が降り積ることでそういうものがよりよく見えてくるんだと思います。わたしは目の前にあるものがただそれだけで写ってるような写真のほうが理想の形だと思う反面、こういう見る人との間で時間とともに起こる化学反応のようなものも写真の面白いところなのかなって考えたりします。
それにしても若い時の自分がそのまま写真の中にいる。今はもういない自分がそこにいるのがありありと見えるって云うのは相当奇妙な異物感というか違和感を呼び起こすんだけど、みんなはそんなことを感じないのかな。
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