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知覚の地図 XXⅤ 陽射しの音弾けて響くひまわりの日傘

これは真夏の、酷暑の時につけるタイトルだったなぁ。まぁ思いついたのがこの時期だったんだから仕方ない。来年の酷暑の時期まで温存しておくほどのものでもないし、思いついたものは後先考えずに披露したがるほうだ。
こういう内容とまるで関係のないタイトルなんてつけていると、あとで見返した時、自分でも何を書いた内容なのかさっぱり分からなくなってくる。検索にもおそらくろくでもない影響を与えているだろう。
今回のはもう完全に意味に色目を使った制度寄りで、オートマティズムっぽい試行からはちょっと離れてはいるんだけど、でも完全に自動書記で完結させると云うのはほとんど不可能なんじゃないか。どれだけ言葉の自走性に任せてしまおうとしても、体裁を整える意識、無意識は必ず入り込んでくるし、アンドレ・ブルトンもあの自動書記の快作「溶ける魚」で、実際には編集を行っていてすべてを自動書記に任せてはいない。言葉は意味そのもの、意味の化身であって、その制度性は恐ろしく強固だ。

通底器1

さて並べてみる写真はタイトルとは裏腹に、日差しの陽気な音もそれが反響しているひまわりの日傘も一切想起させない、なんだか埋め込まれたチューブの切り口のむこうから薄暗い呟きでも聴こえてきそうだ。



通底器2

同じモチーフを並べてみる。同じようなものばかり並べて何やってるんだかと思うか、だからこそ際立つ微妙な違いに視線を遊ばせることができると思うか、さてどっちなんだろう?



通底器3

同一物をモチーフに並列させることで、単一ではその場に存在しなかった何かが生成されてくる。「差異と反復」といったものがある種のリズムとして、音楽的なものとして、並べられた視覚の上に姿を現してくる。もっともそれを生成させるにはこの四枚ではまったくの不足であることも確かではあるけど。
こんな風に書いてみるとまるで無関係なものとしてつけたタイトルと内容は、視覚と音楽の混在なんて云うポイントでしっかりと繋がってるじゃないかとも思えてくる。




通底器4
iPhone 11 camera

お気に入りは最初のと四枚目、次点で三枚目ってところか。最後のはちょっと状況的になっていて若干テイストが変わってくる。こんな似たような写真でも気に入ったものとそれほどでもないものの違いが出てくるのが面白い。


眩暈は頭の向く特定ポイント一か所を除いて大回転バージョンはほぼ終息した。一か所だけあるほうを向くと回りそうなところがしつこく残っていて、でも怖いからそのほうには頭を動かさないでいるから、実のところこの一か所がいまだに回転し始めるポイントになっているのかどうかは確かめてはいない。ともあれ派手な回転がほぼ姿を消すまで、今回は2か月以上かかった。今もふとした拍子に眩暈になりそうな嫌な気配を感じることはあって、でもそういう時でも冷や汗脂汗ものになったりする程度でやり過ごせていて、これは生活を続けていくうちにさらに頻度は低くなっていくだろうと思う。ちょっと怖いのは今回の眩暈が治まったことがしばらく耳石が剥がれないことの保証にはならないということ。明日また耳石が剥がれて再び大回転が始まる可能性もないとはいえない。でも明日どうなるかなんて考えること自体無駄だから、そんなことに心煩わせても仕方ないんだろうとは思う。
そんな終息しつつある眩暈と新たに加わった歯痛と云う悩みごとの合間を縫って続ける読書は、このところずっと複数の本の掛け持ち読みと云うスタイルを取り続けている。移り気な読書で、このスタイルだと読書量をたとえ多少増やしたとしても、なかなか一冊を読み切れない状態となる。別の見方で云うと、読んでいる本一冊一冊の訴求力がそれほどでもないと云うことで、とにかく続きを読まなければ気が済まないという本に最近出会っていないと云うことでもあるのかもしれない。巻を措く能わずの読書と云えば大昔に読んだ横溝正史の「八つ墓村」がちょうどそんな感じの読書体験だったのを思い出す。あとどのくらいページが残っているのか、あと楽しみはどのくらい残っているのか確認しつつ、終わってしまうのを惜しみながら読んだ記憶がある。今では映画もあるし超有名になってしまって、誰もが読んだ気になって本屋で見かけてもあえて手に取ることもない印象のミステリだけど、実のところ横溝正史のストーリーテラーとしての腕前は超一流、耽美世界の構築も超一流であることに間違いはなく、これを白紙の状態で今から読める人が本当に羨ましい。
映画のことをちょっと云えば、今でもなぜ市川崑の最初の横溝映画が「犬神家の一族」であって、「八つ墓村」じゃなかったのかと思うことがある。その少し後に上映された野村芳太郎の「八つ墓村」は最後に再度オカルトへ方向転換させた段階でこの物語の本質を完全に見誤っていて興ざめだった。
さて「八つ墓村」並みに読者を否応なしに引っ張りまわすような一冊との出会いを求めて今掛け持ちをしている本は、現在のところ大部の短編アンソロジーである「リテラリー・ゴシック・イン・ジャパン」山田風太郎「明治断頭台」池田晶子「暮らしの哲学」など、そして相も変わらずページを繰ること自体をも楽しんでいるアンドレ・ブルトンの「溶ける魚」といったところか。
「リテラリー~」は日本の小説や短歌、詩作においてゴシック精神が横溢していると編者が判断したものを集めた本。スタイルとしてのゴシック小説のような古めかしいものじゃなくて言語作品に横溢したゴシック的な要素とでもいったものにポイントを当てている。云うなら、耽美、残酷、驚異、暗黒、薄明、死、不穏といったものにただひたすら奉仕するのみで成り立つような作品群。悪趣味、バッドテイストなものも拒まずと云ったところだが、似てはいてもまるで違う下世話、卑俗な現実などその足元では色褪せる以外にたどる道は残されていない。わたしは吉村昭の「少女架刑」が収録されていたので手にした本だったんだけど、肝心の作品はその少し後で吉村昭の元の短編集に収録されていた形で読んでしまって、こっちの「リテラリー~」のほうは長い間手つかずに放置していた。
しばらく前に、せっかく手元にあるんだしもったいないからそろそろ読んでみるかと読み始めたもので、現在のところ最終ブロックの「文学的ゴシックの現在」の手前まで読み進めている。
泉鏡花あたりの時代を黎明として、以降年代に沿いつつ「血と薔薇」の時代と云ったようにカテゴリーを作りながら採取され並べられている。集められた作家は上記の横溝正史を始め、三島由紀夫、澁澤龍彦、小栗虫太郎、中井英夫と、こういう特質のもとでならば選ばれてくるだろうなぁと云う有名どころを網羅している。ただ選別されている作品は、本自体がリテラリーゴシックが形作る小宇宙といったものを手に取れる形で物質化した一冊という体裁をとっている以上、そのテーマに沿うものが主となるので、かならずしも各作家の代表作、有名作が選ばれてるというわけでもない。この辺りは選んだ側のセンスの見せ所であり、むしろこういう形のほうがこの作家にこういう作品があったのかと再発見することもあって面白い。たとえば横溝正史では「蔵の中」や「鬼火」ではなく「かいやぐら物語」が採用されていたりする。他中堅どころの作家として、個人的趣味として「大広間」の吉田知子、「兎」の金井美恵子、「花曝れ首」の赤江獏が採用されているのが、同じ趣味の人と対面しているようで楽しい。耽美の豪奢な織物とも云うべき赤江獏なんてなぜか知らないけど今や忘れ去られた作家扱いだし、なんだかもうすべてがぶっ飛んでいる吉田知子はこういうアンソロジーで名前を見ること自体が珍しい。
選者のリテラリー・ゴシックと云うポイントからずれてしまったのか、大部になりすぎて入れられなかったのか、不気味な「柳湯の事件」の谷崎潤一郎や、シュルレアリスティックな「片腕」を書いた新感覚派、川端康成が入ってないのは残念だったけど、大御所ばかり揃えても驚きもないアンソロジーになっていたかもしれないと思うと、知る人ぞ知るという作家を織り交ぜてのこのラインアップでメリハリがついてよかったんだと思う。伊藤計劃なんていうのを選んでいる意外性も含み、このアンソロジーの作品を選定する感覚は思いのほかいい。
こういうアンソロジーを読む楽しみには馴染みの作家の知らない作品に出合うという以外に、まるで知らなかった作家を発見するということがある。今回のこのアンソロジーで出会った驚きの作品は竹内健の「紫色の丘」だった。
一読、これはあのバッドテイスト・ムービー「ギニーピッグ」だと、そのシリーズの中でも「血肉の華」や後続のザ・ギニーピッグの一本である「マンホールの中の人魚」を彷彿とさせる極彩色の残虐、被虐、グロテスクにいたる結末に、読みながら思わず舞い上がってしまった。これは凄い。どちらかという内省的な出だしから、その内省性にかすかに不穏な空気は感じられていたにしろ、まさかこんな目も当てられないほど救いのない展開へと進んでいくとはまるで予想もできなかった。最後のカテゴリとしてまとめられている「文学的ゴシックの現在」パートはまだ読んでいないけれど、ここまで読んだ中では、この作品を知ったことだけで、このアンソロジーの元を取ったという感じだ。






Influência do Jazz - Roberto Menescal

Don't Worry 'Bout Me - The John Buzon Trio

両方とも以前にアップしたことがある曲。ドリーミーなある意味バッドテイスト・ミュージック。「THE BOSSA NOVA EXCITING JAZZ SAMBA RHYTHMS」はシリーズ通してジャケットがいかしてる。







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