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知覚の地図 XXVIII 眼球の裏側に長い毛の塊が溜まっていく。耳を傾けてみれば決して開かないその箱の中からは星の落下する音が聴こえてきた。

林立交差
iphone11




水深
Fuji Clear Shot S AF lomo400

駐車場の廃墟の写真。この写真からだと廃墟であることはほとんどうかがい知れない。
関係性の中でしか存在しえない事物を中心を定めない遍在として捉えなおそうとする意思、多層レイヤーを重ねる形の立体感。こういうことはわたしの世界を見る視線の形であって、わたしにとっての世界の形を反映したものとなる。
でもだからといってこの写真が遍在や多層レイヤーの写真だと云えるかと云うと、そうであるのかもしれないし、全くそういうものじゃないのかもしれない。わたしが世界を見る方法など、それほど意味のあることなのか?写真はわたしの自我なんてどこかへ解き放って、ただの写真としてそこにある。ただそれだけのことで、しかもそのことでさえもそれほど重要なことじゃないのかもしれない。
夢想するのは道端に落ちている、あるいは野に敷き詰められている石のような写真。その小石は限りなく敷き詰められやがて広大な荒地を形作る。小石は荒地のごく微細な一部でありながら、荒地そのものでもある。

二枚目のはかなり以前に撮った写真で、まぁ云うなら日常に現れたちょっとした異物感と云ったところか。でもこういうのに世界は宿りはしない。とまぁシュルレアリストとは思えないことを云ってみる。

ところで偏在と遍在、読み方は全く一緒で字面までそっくりなのに、意味はまるで正反対。紛らわしい。

今回も本の話。
今読んでいる本はクリストファー・プリーストの「魔法」と、相も変わらずアンドレ・ブルトン。先ごろ読み終えたのは山田風太郎の「明治断頭台」と横溝正史の「迷路荘の惨劇」だった。読み終えた二冊は両者ともお気に入りの作家の手によるものだったにもかかわらず、どうにも乗り切れずに、最後のほうは流し読みに近い感じになってしまった。「断頭台」は大体わたし自身がなぜか明治と云う時代にほとんど興味を持てないと云うことが最後まで尾を引いてしまったし、「迷路荘」は横溝正史が以前書いた中編を角川映画での再ブレイク直前の頃に長編へと書き直したもので、やっぱり往年の勢いもなく、時代を経てもミステリとしては端正なものを書きあげられる筆力には驚嘆するし書いてくれたことには素直に感謝するにしろ、地下に広がる洞窟の追跡劇とか面白いはずの要素も、読んでいる間中事あるごとに黄金期の八つ墓村なんかが絶えず頭に思い浮かぶとなればさすがにスケールダウンした上に二番煎じ感のほうが強くなって、ページターナーのミステリとはならなかった。
こういう読書になってしまったのにはこちらの事情も多少は絡んでいそうで、どうにも昔のようには本を読めなくなってきているような気がしている。ずっと本を読んできていて本を読むことにこういう解離感と云うか、息をするように当たり前だった行為にかすかにどこか自覚しながらの要素が絡みこんでくるなんて今までは想像もしていなかった。単純に歳を重ねてしまったからなんだろうと思うものの、それだけのことでまさか本を読むことが無邪気に楽しめなくなる行為へと変質していくとは思いもしなかった。スピード感があまり合わなくなってきている。集中する度合いが浅い。余計なことを何かと考えてる自分に気がつく。その結果熱中するほどにのめりこまない。当然徹夜して読むようなこともほとんどなくなってしまった。
ただいろんな要素が絡みこんで乗り切れなかったものの、両者とも手練れの小説家であるのは間違いなく、作品の出来自体、「明治断頭台」のほうは奇怪な不可能犯罪を扱い、端正でありながらも、最後には破格の驚きも用意されているという、ミステリとしては出し惜しみのない大盤振る舞い、明治に興味を惹かれたならもっと熱中していたかもしれない仕上がりとなっていた。
特にこの小説に施された仕掛け、それぞれがそれぞれの結末をもって完結している連作短編の体裁を取りながら、最後の短編でそれまでの短編に仕掛けられていた伏線が共鳴しあい、全体として全く別の構造を浮かび上がらせるという手法は今でこそ試みる作家は大勢いるし、連作短編集だとこういう仕掛けを施しておかなければなんだか物足りないという感じにもなっているけれど、これがそういう企みを一番早く試みた短編集なんじゃないかと、まぁ正確なことは知らないけど、いち早くやってしまっている先駆的な作品と云う印象はそれほど間違ってはいないと思う。
「明治断頭台」が読みにくかった、乗り切れなかったという理由は興味のない明治ものだったという以外に、全短編が機械的なトリックの事件だったことと、すべての事件を最後にフランス人女性の巫女が被害者の霊を呼び起こすことで解決してしまうというのもあった。機械トリックはミスディレクションを積み重ねて心理的な錯誤を誘うようなものとは違って、わたしにはどうしても手品の種明かしに見えてしまう。驚きよりも正体を見てしまった後の幽霊の残りかすと云った、しぼんでいく期待感を目の当たりにすることが多い。巫女が被害者の霊を呼び出しての解決は、何しろ被害者が自分がどう殺されたか自分で解説してしまうわけで、推理である要素が一つもなく、この部分でのミステリとしてのカタルシスはほぼ皆無と云ってもいい。でもこの死者を呼び出して語らせるという結末のつけ方は実は最後の短編での全体の思いもかけない再構築と云う大仕掛けの伏線になっていて、最後まで読んでみると一概にミステリ的趣向の欠如として片づけられないところがあり、この辺がどうもわたしの中で落ち着きどころが決まらない要因となってもいる。機械トリックのほうも全編機械トリックで統一しているところを見ると、これもおそらく意図的であって、手品の種明かし的ではあるんだけどだからと云って一概に大したことがないと言い切れないところも感じさせて、こっちの要素もどこか落ち着きどころを失ってしまっている。結局「明治断頭台」は最後は流し読みに近い形になったものの、読む姿勢は襟を正していたといった妙な具合の読書になってしまっていた。
「迷路荘の惨劇」のほうはいわくありげで謎めいた屋敷だとか、過去に起きた凄惨な事件とか、怪しげな老婆とか、横溝テイストがそこここに垣間見えるのに、これもまた地下迷路の追跡同様になぜか二番煎じ的な印象にしかならないことや事件の奇怪な様子もあまりない大味な内容で八つ墓村よもう一度!っていうような熱気には導かれなかったのが残念だった。結構期待していたのに。内容は外連味にあまり頼らない端正なミステリで余計な期待を抱かなければ佳作として読み終えることができるから、ある意味ちょっともったいない読み方をしてしまったのかもしれない。登場人物の行動のタイムテーブルを軸に出来事の推移を整理し、不自然な部分を浮かび上がらせていく過程はミステリの、派手さはないものの王道を行く展開だし、横溝正史がミステリらしいミステリを書き続けようとする意欲をまるで失っていなかったのもよく分かる。楽しみ方を間違えなければあるいは読後感はかなり違ったものになっていたかもしれないなぁ。
ただ一つ、老刑事の口調と若者言葉の泥臭さはちょっと閉口した。この辺は横溝正史の感覚がアップデートされていないところであって、そういう口調に出くわすたびにいちいち気になって我に返っていた。若者代表の登場人物のくだけた喋り言葉はまさしく年寄りが考えた若い人ならこういう風に喋るだろうっていうものの典型で、いくら昔の若者のこととはいえ、いちいちこんな喋り方はしないだろうって突っ込みを入れたくなるかもしれない。

ちなみに山田風太郎と云えば忍法帖。修練で肉体を鍛えたというよりも、自在に体を伸び縮みさせたり、血の霧を体から噴出させたり、挙句の果てに絶対に死なない体質の持ち主まで登場すると云った、ほとんど最初から人外の化け物そのものの忍者たちが激闘乱舞する「甲賀忍法帖」は外せないとして、予想外に面白いのが「風来忍法帖」だ。戦闘のプロ集団根来衆に対して、口八丁手八丁で生き延びてきても戦闘に関しては付け焼刃の素人集団である香具師の一団の戦い。このダイナミックな落差と魅力的な姫が絡んで展開する物語は予想外に熱量をはらんでいく。根来のくのいちが味方に付くとはいえ、持たざる者が勝てる見込みもない強大な力に立ち向かうという構図は否応もなく物語にのめりこませていくし、成り行きで姫を守るべき騎士となってしまった香具師たちのお世辞にも騎士らしいとは到底云えない下世話、俗物ぶりも、姫の人物像とコントラストをなして愛すべきキャラクター性を際立たせている。なによりもアウトローたちの物語と云うのがいい。しかもこのアウトローたちの生きざまは意外なほど泣かせる。
でもこれ、当の山田風太郎はあまり気に入ってなかったとか。世の中本当にままならない。

アウトローと云えば、「クズ!! ~アナザークローズ九頭神竜男~」と云うマンガを読んだのがきっかけで、不良マンガを最近集中して読んでしまった。「クズ!!」は「クローズ」のスピンオフ的作品で「クローズ」の最後のほうに出てきた最強を誇る男、九頭神竜男を主役としている。
と云ってももとの「クローズ」の山のように出ていた登場人物もほとんど忘れていたし、「クズ」の後でその熱気を引き継いでいくかのように、九頭神竜男ってどんなことやってたっけと昔読んだ「クローズ」も読み返してみたら、今度はこれが止まらなくなってしまって、その続編「ワースト」へとリレーして、さらに他のスピンオフにも手を出し、挙句の果てに映画版「クローズ・ゼロ」もexplodeまでの3作全部見直して、もうほとんど不良の下剋上、鈴蘭高校へ中途編入したような状態になってしまった。
一言で云うなら国盗り物語・学校編っていうところなんだけど、考えてみれば戦国時代っていうのはこういうことを日本全土の規模で大人がやっていたんだと、しかも殴り合いだとかタイマンだとか云うレベルじゃなくて命のやり取り、殺し合いでやっていたんだと思うと、改めて凄い時代、非現実的な時代だったんだなぁって思う。
ナイフを持つのは卑怯者と、頭悪そうな殴り合いのマンガであってもそこには戦うものの矜持と云ったものがあって、たとえて云うなら不良マンガは少年たちの葉隠だ。二、三十人も待ち構えているような敵の学校に一人で乗り込んでいくようなのは完全に「葉隠」でいう死狂いの境地だろうと思う。理性や分別にまかせている限りは絶対に切り開けない先を見出すための命がけの選択として、そういうことをいざという時に選択できる精神を不良マンガはフィクションに仮託して見せてくれる。これを実際の生きる指標としていた時代とその階級の物凄さは想像を絶する。







全体主義化に急速に傾いていく世界を、暴政の意のままに可能にしていると思われるメカニズムの一つとして、群集心理について話すベルギーの臨床心理学者Matthias Desmet教授のインタビュー。それをカナダ人ニュースさんが要約をしてくれていた。元の動画が日本語訳されていなかったのでこれは本当に助かる。



カナダも全体主義へと急速に傾斜していて、カナダ人ニュースさんも帰国を検討しているというようなことを云っていた。ぎりぎりまで留まってにっちもさっちも行かないような状況にならなければいいけど。

元のインタビュー動画。残念ながら日本語の字幕なし。






買った本。
天狗芸術論・猫の妙術 佚斎樗山 講談社学術文庫
海人と天皇(上・中・下) 梅原猛 朝日文庫
海をみたことがなかった少年 ル・クレジオ 集英社文庫
屋上 島田荘司 講談社文庫
狩人の悪夢 有栖川有栖 角川文庫
明日泣く 色川武大 講談社文庫 その他
みんな文庫。なにがなんでも全部100円

天狗芸術論・猫の妙術はこの妙なタイトルでは予想外の、1600年代に書かれた剣術秘伝書だ。剣道をやっている人には有名な本なのかもしれないが、わたしは知らなかった。解説を内田樹氏が書いている。
過ぎ去り凍りついた時間の遠い闇の中で、ほのかな光を纏いながら佇んでいる日本の古い記憶、ヌーボー・ロマン、新本格、境界域の日本文学と、この辺の好みは相も変わらず。

今月の20日、特定医療費(指定難病)受給者証の更新されたものが届いた。症状はずっと寛解しているから、発行の条件だった中等症あるいは重症というカテゴリーからは外れてしまったんだけど、軽症高額特例と云う条件には該当していたので、無事に新しい受給者証を発行してもらえた。ぎりぎりまで気をもんでいたから、これで一安心、体の中で張りつめていたもののかなりの部分が溶けて流れ出してくれた。わたしの病気は完治させる方法が確立しておらず、薬で状態を維持するほかないので、これがないと高額な薬代を払えずにお手上げ状態になるところだった。


ということで今年はこれでお終い。
また来年もよろしくお願いします。

よいお年をお迎えください。




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