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知覚の地図Ⅲ かっこいいブーツ! 今年もお終い。

茫洋とした希望





彼方にある展望

コンセプトによる写真はそのコンセプトを理解すれば写真も分かりやすくなる。云うならばその写真の繰り出す答えは割り切れる。対し直感による写真はおそらく割り切れない。来年はちょっとそういう直感による写真を撮ってみたい。つまりは撮った本人にもそれが何なのか分からないような写真。どこかで見たような洒落た雰囲気のかっこいい写真をまねて撮るようなことは極力避けよう。そんなのを撮るくらいなら、誰も撮る気を起こさない、まるでちっともかっこよくない写真を撮るほうがずっとましだ。

少し前の記事を読み直していて、涼しくなったらブーツを買うというようなことを書いていたのを思い出した。実際にこの冬ブーツを買ったからブーツを履いてやろうという野望は夏の始まりの頃から持っていたということだ。
きっかけは雑誌というかムックで見たこの写真。おぉ、かっこいい。一歩間違うと路上生活者だけどもちろんそっち方向へはまるで踏み込んでいない。定型を嫌い、漂泊、流浪なんていうロマンチシズムとどこか通底しているところがある、なんていうとちょっと云いすぎか。どう見てもゴージャスという出で立ちでもなく、つげ義春の「貧困旅行記」なんていうのを愛読している、わたしの無産者的な感性ともひょっとしたら近いところがあるのかもしれない。
この写真が載っていたムックは「FASHION PORTRAIT LONDON」というタイトル。エイ出版社から出版されている。

かっこいいブーツ

まぁロンドンでブーツといえばパンク御用達のドクター・マーチンの8アイ・ブーツ辺りが代表格だろうし、これも最初見た時はそうだろうと思ったんだけど、よく見るとパンキッシュでもなくトレッキングシューズのブーツバージョンといったところか。ちょっと探してみたけどオールレザーのエロチックな質感のトレッキングシューズというのはあまり数多くもなく、しかもある程度のロングブーツでかっこいいとなるとほとんど見つからない。そんなこんなで目当てのブーツが見つからないまま、あまり費用をかけたくないということも相まって結局買ったのは一気に理想も下がって中国製の、レザーと表記にあるものの本当かどうか分からないようなドクター・マーチンもどきといった代物になってしまった。どんなものかためしに一度履いてみるという意味ならまぁこれでもいいか。それにしてもこの写真のブーツはどこのブランドのものなんだろう?
そっくりマーチンを履いて歩いてみると、これはまるで足首にギプスでもしているような感じで最初の日は普通にトラブルが出そうなかかととかじゃなく履き口の辺りが痛くなった。足首の部分がほとんど思うように曲がらないからしゃがむのも一苦労。履き口も足の動きにスムーズについてこないからこの痛さなんだろう。この手のブーツがこんなに不自由な履き心地だとは予想もしていなかったけど、何回か履いているうちに履き口の痛さはほとんど感じられなくなり、足のほうがブーツとはこういう感覚のものだから仕方ないとでも諦めてしまったような状態となった。最初のこのギプス的な感覚はなにも中国製偽物マーチンだからということでもなく、本来的にこの形の靴はこういうものなんだろうと思う。
でも決して履き心地がいいわけでもないのにやっぱりこの見た目は気を引かれる。足首辺りに現れる革のしわの入り具合がいつもフェティッシュな美しいものとして見えてくる。
それにしてもアマゾンにはマーチン・ブーツというカテゴリーで怪しい靴がいっぱい並んでいる。

ライトグレーのグレンチェックだけど似たようなツィードのチェスターコートも持っているし、胸に留める四角いバッジまでも手元にある。一夏探して迷彩のパーカーというか、これはコートの類になるのか、中に着ているものは似たものさえも見つけられなかったのが今のところ残念だがコート・オン・コートのような過剰感は何らかの形で身に纏いたい。ボロボロのジーンズは趣味じゃないのでこれはコーデとしてはあまり採用したくないといった感じで、ブーツを元に組み立てるファッションというスタイルになると思うけど、これが今年の冬の服装に関する関心事となっている。

年末になって身内に不幸があった。
気分的に結構まいってしまってしばらくブログから離れようかとも思ったけど、こういうことを続けるのも気晴らしになるかもと考え直して、とりあえずは続けてみることにした。もともと一月に一度なんていう更新頻度だし、休みながらだったとしても見た目は大して変わらないかもしれない。
ということでしばらくはたまにしか出て来られないかもしれないけど、来年もよろしく。
そして今年も一年ありがとう。



伝統と破壊が同居しせめぎ合うようなイギリスの文化は音楽だけじゃなくてファッションにおいても面白い。ことにメンズのファッションは基本が規範でありルールであるにもかかわらず、その不自由さをものともせずにみんな好き勝手に服を楽しんでいる様子がよく分かる、そんな写真が一杯掲載されている。
服装で自由になるって本当に難しいんだよ。


一応本物らしいドクター・マーチンの1460 8アイ・ブーツ。それにしても今回通販で靴を買ってみたけど、これは本当に冒険だった。レビューを参考にしようとも普段サイズで十分という人と大きいという人と小さいという人が入り乱れてまるで判断の材料にならない。まぁサイズ交換できる場合が多いとはいえ手続きは面倒だし、注文ボタンを押すにはちょっとした勢いが必要だった。当然試着後でも交換可能と表記されている靴を選ぶのがベストで、結果としてサイズがぴったり合うなら、アイテム数が桁外れに多い分、通販で靴を買うというのは結構ありかもしれない。





金字塔、謎語像。 知覚の地図Ⅱ 怪奇小説アンソロジーの色々。 The Caretaker

窓の茂り





溶ける螺旋





光に沈む叢





夜の舗道





暗い窓辺

最初の三枚はKodak No. 2 Folding Autographic Brownieというコダックの古い蛇腹カメラで撮った。ほぼ100年くらい前のカメラだ。長い年月を潜り抜けてくる過程で蛇腹が劣化し、穴だらけになっていたせいで盛大に光線引きしている。ただあまりにも穴だらけすぎてほとんど制御できず、というか一面真っ白なんていうのを高確率で生み出して、光が漏れる美しさどころじゃないので結局フィルム2本ほど撮って後は使わなくなった。蛇腹の修理をすればいいんだけど、修理費は高価でそれだけの費用をかけてまで使うようなものでもないし、たとえ修理したとしても穴のまったく開いていない蛇腹もこれはこれでつまらないと言うことで、今はわたしのカメラボックスのなかで眠っている。蛇腹がへたって使えないカメラとなってしまっているものの、それでも逆に言えば蛇腹を修理さえすれば今でもまるで普通に使えるカメラでもあるので、そういうところは道具としてはやっぱりどこか凄みはある。
きっかけは佐藤春夫に「化物屋敷」という怪奇小説の短編があるというのを知ったことで、最近ちょっと怪奇小説を連続で読んでいる。化物屋敷という語感が良い。幽霊屋敷よりもなんだか派手で、奥ゆかしさなんてそっちのけでストレートに迫ってきそうな迫力が言葉からも感じられる。そこで、「化物屋敷」が集録されている本を探して手に取ったのが創元推理文庫から出ている「日本怪奇小説傑作集1」というアンソロジーの一冊だった。「化物屋敷」は全三巻のうちの最初の巻に集録されていて、この本には他に明治から昭和初期にかけての文豪がものにした怪奇小説を中心にコレクションされていた。これで知ったんだけど川端康成なんていう作家も幽霊小説を書いている。まるで興味の対象外だった川端康成も解説で「死臭と霊気ただよう幽明の界を凝視しつづけた特異な作家」と紹介されると俄然興味がわいてくる。目的だった佐藤春夫の「化物屋敷」はまぁ特に凄いと思うところもなく、というかこれから本格的に始まるだろうという手前で終わってしまっているのが拍子抜けで、この屋敷に関しては同居していた門下生だった稲垣足穂も取り上げて小説にしているということを知ったのがどちらかと言うと収穫だったかもしれない。ちなみに佐藤春夫の小説のほうで石垣という名前で登場しているのが稲垣足穂のことらしい。稲垣足穂には「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」というお化け屋敷小説があって、賑やかな百鬼夜行のあとを、大人になってしまえばもう二度と見ることもかなわないとでもいうような喪失感で締めくくり、その郷愁に満ちた余韻が印象的なものだった。これが結構好きだったからこの佐藤春夫がらみの化物屋敷小説もそのうち探し出して読んでみたい。集録作家の中で夏目漱石、内田百閒、江戸川乱歩、夢野久作、谷崎潤一郎辺りはそれぞれ怪異幻想を扱って手馴れているのがよく分かって、というかそういう領域を得意としている面を持っているとこちらが認識して読んでいるから馴染みもあり安定して面白い。作品の選択も漱石なら「夢十夜」の有名な、薄気味の悪さで突出している「第三夜」なんかを持ってこずに「永日小品」から「蛇」なんていう掌編を取り上げていて、有名どころに頼ったような選別でもない。谷崎潤一郎は主人公の女優が自分が出演した覚えもないのに自分が主役として出ている映画が場末の映画館でかけられていることを、そしてその映画が人面疽の話で、夜中に一人で見れば気が狂うという呪いの映画だと知るなんていう謎めいたお話の「人面疽」を、江戸川乱歩は、まぁこの人の短編は全部が代表作みたいなものだから何を選んでも掘り出し物感はほとんどなくなってしまうんだけど「鏡地獄」が選ばれている。収録されている小説の中で予想外に面白かったのが小泉八雲の「茶碗の中」だった。結末を読者に委ねているわけでもないんだけど、読後感はこういったリドルストーリーとよく似ている。時間の彼方の闇の中から不意に浮かび上がり、また再び手の届かない遠くの闇の中へと消えていくような全体の雰囲気が良い。元になった話は古文書にあるものらしいけど結末はまるで違っていて、こういう趣向の結末にしたのは小泉八雲の独自の感性によるものだったらしく、結構モダンな感覚の持ち主だったことに気づく。本全体は文豪が残した怪奇小説という風変わりな切り口も含めて、普通ではあまり目にしないものも収集されているのが楽しく、確かに時代も違うし泉鏡花のものなんか今の文章作法とはかなり異なっていて読みにくいこと夥しかったりするんだけど、時代が違うんだから今の文章と違うのは当たり前、そういうことに文句をつけるのは辛いと注意書きされたカレーに辛いと文句をいうのと変わらないわけで、ここはむしろ読みにくさも楽しんでしまおうと、こういう態度が正しいんじゃないかと思う。本全体の印象は丸ごと恐怖にまみれた体験が出来るかと言うと、そういう方向で一点集中しているという風でもなく、冥界を扱ってそこから引き出すものは千差万別といった感じのアンソロジーだった。
そこで今回のタイトルだ。金字塔という言葉。小栗虫太郎の「金字塔四角に飛ぶ」というのでこの言葉に出会ったのがわたしには最初だったんだけど、これがピラミッドのことだというのはわりとよく知られている。では謎語像のほうはどうか。この言葉、上の怪奇小説アンソロジーに入っていた夢野久作の「難船小僧」に出てきた言葉で、スフィンクスとルビがふってあった。とはいうもののこれが金字塔のように一般化した漢字の使い方だったのかは実のところわたしにはよくわからない。タイトルの「難船小僧」にも「SOSボーイ」とルビをふっていたように、夢野久作は漢字に独自のルビをふるようなことを多用していたから、ひょっとしたら夢野久作しか使っていない漢字の使い方だったのかもしれない。それはともかくスフィンクスに漢字を与えるとしたらこういう風になるだろうと云う的を射てる感じはあって、妙に印象には残った。
この言葉を目にしてそういえば写真も云ってみれば謎語像なんだろうなぁと連想は飛ぶ。属性と遊離したオブジェはおそらく謎そのものとして立ち現れると予測する。もっとも謎そのものとして立ち現れた瞬間にそれを前にしたわたしは何らかの属性を与えて認識可能なものにしてしまうだろうから、オブジェが問いかける謎は一瞬にして認識の外に出てしまうだろうけど。そういう不可能な一瞬の残滓というのかそういうものが立ち現れた気配というか、そういうものがどこかに残っている写真を、可能なら撮ってみたいものだと思う。謎として語りかけるスフィンクスのような存在の写真。撮れるならば、そしてそういうものを眼にすることができるのならば、それは稀有な体験になるだろう。
ということで怪奇小説集から始めた言葉を強引に写真に結び付けてみた。

怪奇小説はこのアンソロジーの一冊を読了したあと、なぜか2巻目だけ買って手元に積読状態になっていた創元推理文庫の「怪奇小説傑作集2 英米編Ⅱ」とポプラ文庫から出版された「てのひら怪談」の二冊へと移った。これを書いている時点では英米編のほうは「ポドロ島」「みどりの想い」「帰ってきたソフィ・メイソン」「船を見ぬ島」と最初から順に四作を読み終えたところ。やっぱり恐怖の質は日本の感性とは結構異なるというのをあらためて思い知らされる。得体の知れないものへの畏怖、畏れと云ったものに裏打ちされている日本の怪談のほうがやはり身に馴染む。「ポドロ島」は怪奇小説としては知られた作品なんだけど、どこが面白いのか、どこが恐怖なのかわたしにはさっぱり分からない。以前読んだはずの記憶があるのにどういう話だったかまるで頭に浮かんでこないのはそのせいだったんだろう。猫を可愛がる気分が殺さなければならないという真逆の感情へと切り替わるのが恐怖を生み出す要因の一つとなるということなんだろうけど、わたしにはなんでいきなり殺さなければならないって思うんだよと疑問符がつくだけの展開にしか見えなかった。疑問から好奇心は生まれはするけど恐怖は生まれてはこない。この四作の中では「船を見ぬ島」が、受け取る情緒としてどこか「5億年ボタン」を思い浮かべるようなところがあって、永遠の耐え難さは伝わってくるものがあり面白く読めた。でもこれの持つ面白さは怪談と云った時に呼び起こされるわたしの感覚とは少し違うものだ。
「てのひら怪談」はネット上で公募した怪談をそのネット上で共有、楽しさを分かちあうというというサイトが母体となって、そこで展開され受賞した作品を集めて一冊の本にしたもの。一話で原稿用紙二枚という制限のある、本にすれば二ページで完結する怪談が山のように集録されている。この800文字という制限が意外と上手く機能して、つまらないものは一瞬にしてやり過ごせるし、面白いものはまさしく怪談的なコアの部分を効果的に切り出すことに成功している。これから怖くなっていくんだろうかと思わせつつ、だらだらと続いていくだけというようなものがひとつもない。なによりも巻頭を飾る「歌舞伎」と題された作品の出来が素晴らしく、わたしの恐怖感覚とも見事に共振するような内容だったので、わたしはこれで一気に引きずり込まれることになった。回りの世界が狂い始めたのか、その世界を眺めているわたしが狂い始めたのか、あるいは世界もわたしもバランスを保っている世界に得体の知れないなにか異様な世界が浸潤してきたのか、そのどれともつかない不安な場所から立ち上がってくる事象の薄気味悪さ。モンスターや殺人鬼なんかまるで出てこないけど、じわっと鳥肌が立つような嫌な感じは伝わってきて、これをアマチュアが書いたんだとちょっと吃驚した。巻頭にこれを持ってきた編集者の選択眼がいい。もちろん収集された話が玉石混合であることは避けられないんだけど、最初に盛り上がったテンションの高さは未だに下がらずに続いていて、ピンとこないものは何しろ800文字だから速やかに読み飛ばし、この怪談のごった煮のような様子を楽しんで読み続けている。この冒頭の「歌舞伎」以外だと今のところ既読の分からでは「ガス室」と題された一編がお気に入りとなっている。この二編を並べてみて、どうもね、わたしは彼方から電波なり何なりにのせて微かに届いてくる意味も不明なメッセージといった類のものに惹かれるんだろうなぁと再認識した次第だ。




The Caretaker - The Story is Lost




The Caretaker - It's just a burning memory


英国のミュージシャン、ジェイムス・リーランド・カービィによるプロジェクト The Cartakerによる曲。ダーク・アンビエント系の音楽になるのか、ムーディなサイケデリックっていう感じがする。
上の曲は元ネタを知っているけれど、下のは知らない。ちなみに知っている上の曲はJeannine I Dream of Lilac Timeという古い曲。以前エロール・ガーナーのピアノ演奏をここで紹介したことがある。それにしてもこの人が作る曲は、この二曲以外のものも含めて引用してくる元曲の選択が見事に同一の雰囲気、印象の曲を探してきているというか、自分が持ち合わせているはずもない記憶の奥深くへと緩慢に沈殿していくかのようにノスタルジックで、そしてそれが極めてわたしの好みにあっている。といってもこの一連の関連していく曲群は曲を重ねるにつれて甘美な音場を離れて崩壊していく。なにしろテーマの一つが認知症だというんだから。こういうのを聴いていると、ノイズ混じりの茫洋としたこういう音でしか表出し得ないものがあるということ、これは写真も同じだよなぁって思う。フィルムの粒子でしか表出し得ないもの、フィルムを通してみる眼でしか見えてこないもの、そういうものが絶対にあると思うし、デジタルがフィルムのすべてに取って代われるなんていう考えは傲慢のひと言に尽きる。
これは音楽以外にもヴィジュアルもシュールで良い。こんなロケーションをよく見つけてきたものだと思う。最後の後ろからの人のショットと煙草の煙は若干の余計な付け足し感はあるけど。















知覚の地図Ⅰ

解ける螺旋





窓辺の幾何





黄色いサイン

2019 / 4~10 宇治
CONTAX T3 / CANON DEMI EE17
Lomography Colornegative 400

たとえば、何でもいいんだけど、宇治の平等院と天ヶ瀬ダムと目の前の真新しい電子炊飯ジャーは等価である。平等院と天ヶ瀬ダムと目の前の真新しい電子炊飯ジャーを撮る時の態度には何も変わるところがない。それは対象に特別な意味を認めないということであり、対象に意味を求めないのなら、写真はそのほとんどすべてが私的な感覚に帰結するのかもしれない。意識であれ無意識であれ、あらゆる知覚を巻き込んで流動していくその広い、あるいは狭い、流れ、渦巻きの中で、棹差す如く突き出た杭に引っかかり、流れが滞っている場所ではその淀む流れに沈殿していくように、写真のあらゆる光、陰、暈、滲み、粒子、エッジ、コーナー、曲線、色面が寄り添い集まってくる。その流れの中の散在する特異点に呼び寄せられ堆積していく写真の、そのあらゆる断片、要素が、その配置によって意識、無意識、そして意識無意識でもない何か、云うならば流動する茫漠とした全知覚領域の上へ極私的な地図を作っていく。とまぁちょっと思いついてこんなことを書いてみると、いつも近代的な自我なんて相対化する対象だとか、個性なんてまるで信じないなんていう言い方をしているわりに、写真はむしろ私小説的なものじゃないかと、自分はそういう風に把握してるところもあるのかもしれないと思い至って我ながらちょっと吃驚する。写真は極私的である。社会性とは無縁の場所で成立し、他者にとって理解不能で一向に差支えがない。個的な知覚を普遍化させようなんて意図もなく、その知覚の個的地図の中で固有の文様を作って立ち尽くすだけという孤独な存在、わたしが写真に夢想するものはそういうものなのか。藤枝静男は私小説に特化する道筋で幻影への地平を開いた。こんな書物を紐解いていると私小説的なものは幻影への扉を開く可能性を持っているとの確信へと導かれる。写真においてもそういうことは可能なんだろうか。

今回の写真はなかなか撮りきれないと書いていたCONTAX T3に入れていたフィルムから。そう、このフィルム、ようやく撮り終えることができて先日現像に出してきた。フォトハウスKの店長さんもわたしのことは忘れずにいてくれて一安心。一応病気になってあまり来れないかもしれないけどまたよろしくと近況を伝えておく。久しぶりの仕上がった写真を眺めていて、何か病気とはまるで関係ない場所から撮っているような感じがする。病気の影響は写真を撮りに出かけられないという形で出ているだけで、内容に関してはあまり露にはなっていないようだ。たまに体調がよくてカメラを持って出かける気になったら、そういうことが出来る喜びのほうが写真に出て、病気だからといって陰鬱なものとなるよりも、むしろ明るい写真が撮れそうな気もする。能天気なほど陽気な病んだ写真というのも存在としてはなかなかひねくれていて、撮れるなら面白そうではある。

先日胃カメラをやってきた。初体験ではないものの以前に検査したのは10年以上前、最近胸焼けや痛みを覚えることがあるので潰瘍性大腸炎の診察のついでに云ってみると、逆流性食道炎だと思うけどしばらく検査していないなら、一度胃カメラしておくか?と提案されての結果だった。検査中に見た目変なところがあったらしく生検もとられて、検査直後の診断では画像を見て結構酷い逆流性食道炎だなぁと云われ、あとは生検の結果待ち。そして2週間後に生検の結果を聞きにいくと、結構酷い状態だと云われたのに反して、これは特に問題なしということだった。結局わたしの胃は酷い有り様だけど大層な事態に見舞われているいるわけでもないという状況で、胃酸を制限する薬が出ただけで一件落着だった。それとは別に今回の検査は今までの胃カメラにはなかった不思議な体験が出来て、これがちょっと面白かった。なにしろあとで振り返ってみればげろげろした状態になったという記憶がすっぽりと抜け落ちていた。それだけじゃなくこれもあとで気がついたんだけど胃カメラが喉に入ってくる瞬間もまるで記憶にない。大体喉の麻酔なんぞかけてもそんなのまるで役に立たずにげろげろ状態を回避できるわけでもないというのが今までの胃カメラ体験だったのに、今回に関してはこの苦痛の時間がまるでなかったというのがあとで思い返すとなんとも異様な印象だった。これ、端的に云うと鎮静剤の結果だ。この鎮静剤の動きの不思議だったのは、喉に胃カメラが入ってきた瞬間を覚えてないとか、げろげろした記憶がないというのに、そのあいだ眠らされていてたわけじゃなく、検査中に覚醒していた記憶は確実にあり、ここ、変になっているから生検を取っておこうなんて呟いてる検査医師の声も聞こえていて、変なところって一体何?と思ったことも覚えていた。なのに、あとで思い返すと、あれ?そう云えば一体何時胃カメラのチューブが喉を通っていったんだと、そういうところだけはさみで切り取ったように完全に記憶から脱落してしまっていた。げろげろ状態は奇跡的に上手く麻酔が効いて体験しなかった可能性もあるけど、検査をやっておいて胃カメラが喉を通っていかなかったことなんてありえないわけで、眠ってもいないのにこの挿入そのものの記憶がないというのはまるで理にかなっていない。診察後に渡された検査の明細に、使用した鎮静剤はミダゾラムとあった。検索してみると、この鎮静剤には前向性健忘効果があるとされている。前向性健忘というのは発症以降の記憶を保持できなくなるということらしくて、この場合の発症というのは鎮静剤の投入時のことになるんだろう。体験的にいうなら、何らかの障害というか苦痛というか、そういうのが発生した時点のみを選択的に記憶から除去しているような感じで、なんとも都合の良いというか不思議な効果の薬剤ではある。わたしが潰瘍性大腸炎で診てもらっているこの病院で、これまで大腸内視鏡とこの検査をやってみて、両方ともまるで苦痛を感じなかったのは振り返ってみれば驚きだ。大腸のほうも空気を入れるから普通は検査後も空気が排出されるまで結構長い間腹痛が続くんだけど、空気を入れなかったんじゃないかと思うくらい検査後は普通だった。ここだけ特別なやり方でもしてるんじゃないか。今回の胃カメラにしてもよく鼻から入れるほうが苦痛が少ないなんていう提案をするところもあるのが、まったく無意味になるような検査体験だった。

数日前にGYAOで無料配信されている映画、というより映画未満、映画もどきのとんでもないものを見てしまう。無人島に数人のランジェリー姿の女が漂着して何かいろいろやってるという内容らしいんだけど、基本的になにが云いたいのかまるで不明。さらに無人島といいながら遠くに見える海岸線には明らかに街並みが見えているし、浜辺で格闘しているランジェリー女の背後の海ではジェットスキーで遊ぶ人が堂々と横切っていったりするとんでもない代物だった。これでお金を取ろうとした製作者の根性がもう理解不能。こんなもののクレジットに名前を載せられて平気だった人の感覚も信じられない。こんな映画もどきの作り手として名を名乗り人目にさらして恥ずかしくなかったんだろうか。見てしまうといっても最初の3分もたたないうちに耐え切れなくなって、あとのほうは細切れに飛ばして確認した程度だった。おそらくこの見るということだけで体感できる苦痛をはねのけながら全部見てしまったら、時間の大切さについて今さらの如く身を切るような認識を強いられることになっていたと思う。ちょっと今GYAOに戻ってタイトルを確認してきたら「無人島ランジェリーロワイアル」だった。酷く、さもしいタイトルだ。無人島はおそらく物語的世界を構築するだけの能力も予算もないというところからの、想像力を必要とするようなことは何もしなくてすむという意味合いの設定だろうし、あとは下着姿での殺しあいみたいなのをイメージさせて男どもを釣ろうという魂胆だったのだろう。心底くだらなそうなタイトルと、その酷評で溢れているレビューからどれだけ酷いものなのか怖いもの見たさの好奇心が発動した結果覗いてみただけだったんだけど、好奇心は猫をも殺すの実証となったかもしれない。無料配信は12月12日まで。随分と長い。そしてその間にどれだけの人が時間の大切さについて思いを馳せることになるのだろうか。というか最初からこんなの見ようと思う人もほとんどいないか。






硬水歌集 機械式辻占師言行録Ⅷ

日之影





ミネラルウォーター





朽





物体X





スポットライト
2016/10 祇園
Canon A35 Datelux / Nikon Coolpix S9700

前回の記事でコンタックスT3はあと七枚で撮りきると書いたのはもうちょっとでフィルム一本終了できるという意味だったのに、結果は思惑に反して現在もあと七枚で撮り切るという状態のまま。結局一月の間一度もシャッターを切らなかった!写真は思索じゃなくて体力次第というのが体を通して理解できる一月ではあった。潰瘍性大腸炎はこの数週間それなりに安定してきている様子なので、暑さもようやく過ぎ去りつつあるし、ここは感覚を取り戻すべくカメラを手にして少しずつ行動範囲を広げていきたいところだ。どうしても写真を撮りにいきたい衝動があるのかどうか、それほどでもないから難病に負けて足が動かなくなっているんじゃないか、その辺りを自問する機会も増えている。というところで何しろ写真が増えていないものだから今回も以前に撮ったものから。とはいってもひょっとして既にここに載せたんじゃないかと記憶があやふやになっている写真もあって、すべて始めての写真だったらいいんだけど、我ながら既出くさいのが混じってるような感覚をぬぐえない。撮ったのは祇園。京都の顔のような場所だけど、その分通俗的な要素をぬぐいきれずに写真を撮るのは難しい場所だと思う。祇園といえば最近「舞妓さんちのまかないさん」というコミックを読んだ。花街の裏側というか閉鎖的でいささか特殊なその街で生活をしている人の息づかいを伝えるようなお話。青森から共に舞子さんになる夢を持って祇園へやってきた仲良しの少女二人。一人は舞妓として頭角を現していくがもう一人は目が出ずに結局裏方のまかないさんとして花街の住人となる、その立ち位置が違ってしまっても続く二人の絆と友情を軸として、屋形の台所から映し出す舞子さん修行中の少女たちの四季っていう感じかなぁ。料理が登場して、タイトルにまかないとあっても、いわゆるグルメ漫画とはちょっと毛色が違うと思う。京都の描写がひとコマだけでどこか分かったりするのも楽しく、これは京都の住人の特権なのか。タイトルは全部漢字にしてみたシリーズ。写真を眺めているうちにソングブックなんていう単語が頭に浮かんで、いろんな(ミネラル)ものを混ぜ込んだ写真が歌う歌の歌集っていう感じ。つけてみて色々と上手くこじつけ出来たとほくそ笑んでみる。先々月だったか病院に行った時、主治医の先生からオリゴ糖をとってるかと聞かれ、まぁこれは病院で最初に貰った潰瘍性大腸炎のガイドブックにも載っていたものだしとっていると答えると、梅エキスもとったほうがいいよとさらにアドバイスを貰う。病院内の売店、わたしの診てもらっている病院にはローソンが店を出してるんだけど、そこで売ってるものでいいからと、なんだかこの先生、ローソンの回し者かと思いながらもその日は梅エキスを購入して帰った。その日の夕食時に開封してみると、中の茶色い遮光ガラス瓶に入っていたのは粘度の高い黒々とした液体だった。付属の小さなスプーンのほんの先っちょですくいとった極微量を恐々舐めてみたら、それだけでもうあまりにも酸っぱくて、この酸っぱさはむしろ大腸に対しても刺激一杯なんじゃないかと思ってしまい、翌日から口にし始めるも、朝の超微量以上の分量をとる勇気が出なかった。先月診察の日に梅エキスとってるかと聞かれ、一日一回ちょっとだけと答えると、毎食後に計一日三回とったほうが良いと云われ、量に関しても結構大胆でもかまわないって云う感じの話しっぷりだった。考えてみればパッケージにはそのままでもいいけれど、とりにくかったらお湯で薄めるという方法もあると書かれていて、お湯に溶かすくらいなら付属のスプーンで普通にすくえるくらいの量は必要だろうなぁって云うのは想像できることだった。ということでその診察以降、わたしの場合は食事は以前からほとんど一日二食ですましているから、食後にとるなら一日二回、付属スプーンで普通にすくえるくらいの量、それでも小さなスプーンなので大した量でもなかったが、そのくらいの量をとり続けてみることにした。最近調子が安定してきているのはひょっとしたらこういうのが関係しているのかなと思う。薬じゃなくてあくまでも食品だから薬効どうのこうのというのはないんだろうけど、オリゴ糖が善玉腸内細菌の栄養源となって腸内環境を整えるように、梅エキスも潰瘍性大腸炎の基本薬であるリアルダ(メサラジン)を飲み続けた上でその薬が効果的に働けるような腸の下地を整える補助くらいの役割は果たしているのかもしれない。一応検索してみると梅エキスが潰瘍性大腸炎を緩和させるような研究データもあるようで、極端にすっぱいから大腸への刺激になるんじゃないかという最初の懸念は杞憂ではあったようだ。健康食品としては粘膜関連以外でもいろいろと健康に役立つ効果があるらしいから、潰瘍性大腸炎に効果がなくても摂取していれば体のほかの部分にも何か好影響が出るかもしれない。ということで一応情報として書いておくけど、わたしがとっているのは病院内のローソンで売っていた火の国屋というところの梅エキスだ。ここはどうも地元のメーカーらしい。他メーカーの梅エキスも大して変わらないと思うけど参考なるかもしれないので。ローソンと云っても病院内の店はそれなりに特化しているようで、街中のローソンでは扱っているかどうかは分からない。ちなみにオリゴ糖のほうは、おそらく抽出した原材料の違いだと思うけどいろいろと種類があって、わたしが利用しているのはガラクトオリゴ糖だ。ヤクルトから発売されてるもので、わたしにはなんだかこれが一番しっくり来る。難病の申請は七月に通っていたけど、今年の更新が十月と言うことで、七月の承認通知の中に更新の書類も一緒に入っていた。その更新手続きの期限が七月末だったので、初めて認定を貰った2,3日後にその更新の書類を提出することになって、その更新された受給者証は九月の下旬に無事に到着した。これでこれからの一年間はこの病気に関する医療費の負担はかなり軽くなる。毎年こういう更新をやらなければならないようで、そのたびに今度は通るかなと不安に駆られる期間が発生するんだろうなぁと思うとちょっと憂鬱ではある。今回は申請がとおった直後の更新だったので役所で最新の、正確な名前は忘れたけど課税証明のような書類を用意するだけでよかった。でも次回からの一年ごとの申請だとそのたびに病院からも診断書みたいなのを書いてもらわなければならず、これがまた5000円くらいの出費になるのが痛いと言えば痛いところだ。


Ofenbach - Rock It (Official Video)

わたしがお邪魔しているブログで紹介されていた曲。催眠的、催淫的官能的であまりにもかっこよかったのでわたしも便乗して載せてみた。そこのブログ主さんが指摘するベースラインも耳に残ってかっこいいけど、そのベースラインに絡みつく、やる気のないフォークダンスのような低体温のダンスステップも意表をついて洒落ていて視覚的快感を惹起する。癖になりそうだ。





11巻までリリースされて、全体としては未完。


ガラクトオリゴ糖は母乳中にも含まれている成分を主としているというのが人の体に馴染みやすそうなイメージではある。ヤクルトから発売されているというのもこの類のものの専門の会社だからなんだか安心感がある。ただ、オリゴ糖には他にも植物から取り出したものとかいろんな種類がある中でこれが桁外れに高価というのがちょっと難儀なところなんだけど。




挑発する大陸、チビッコビルの七夜の罠。 機械式辻占師言行録Ⅴ

川辺リンの不安





不安の正体





隠された何か





潜航
2017 / 02 伏見 (1)(2)(3)
2016 / 10 藤森神社 (4)
Fuji Cardia Travel Mini Dual-P / Nikon L35 AF


目についた単語を並べて冒険小説風のタイトルやね。どうもやはり意味から離れられないのが突き抜けていないところではある。チビッコビルで過ごす七つの夜に仕掛けられた罠とは一体なんだろう。七日間、夜毎に罠をクリアしないと挑発するらしい大陸から生還できなかったりするとかハードルはきわめて高そうだ。あるいはチビッコビルは人の名前のようにも見える。西部劇に出てくる悪党、小さいくせに子供のように無邪気に残忍で、極悪非道な悪党の名前のようにも響いてくる。この前コメントの返事を書いていて、いつもの呪文に「チープ」というのも付け加えてもいいかななんて思った。似たような観念にキッチュなんていうのもあるけど、キッチュなものとかまるで興味がないので、似ているけど非なるものとして「チープ」。それと「寡黙」というのもわたしの志向としては追加しておきたい。チープなものは往々にして饒舌であったりするから、これと寡黙さは相容れないものかもしれないけど。そこにあるオブジェとして、自らがそのオブジェであることしか語ろうとしないもの。自らの物質性をそっちのけにして意味について饒舌になろうとする対象よりも、あるいはその幻想性について言葉多く語りたくてうずうずしているものよりも、それははるかに幻想的なオブジェとして立ち現れるんじゃないかと思う。今回のは随分前に撮ったつもりだったものの日付を見れば2017年とそんなに昔でもなかった。今撮っている写真とは違わないようで違うというか、自分にとっては微妙な感じがする。こういう被写体を選ぶ好みは変わってないはずだけど撮り方は違ってくるかもしれない。話は全然違うんだけど、このところ一斉に「違くて」なんていう言い回しが、まるで解禁されたかのように耳についてくるようになった。わたしがこの言い回しを最初に目にしたのはそれこそ20年くらい前になるか当時リビドーっていうエロゲームのメーカーがあって、そこの広告か何かの文章の中でだった。未だにこんなことを覚えているのは、まず最初にこれどう読むんだ?と読み方の予想もできなくて、「ちがくて」???こんなの日本語じゃないだろうと首を捻った印象が強烈だったからで、わたしの眼の中には違えようのないシンプルな言葉ゆえの異物感そのものとして飛び込んできた。それがこのところ急に当たり前の言い方として身の回りに溢れかえってくるようになっている。CMの歌の歌詞の中にも現れるようになったし、先日なんか病院の看護師が「それとは違くて、どうのこうの」なんて喋っていた。作詞はこんなに言葉に鈍感であっても出来るものなのか。20年来の異物感が、リビドーなんていう今はもう存在しないゲームメーカーを伴って最近になってまた目の前に浮上してきたわけだが、この「違くて」とか「違かった」なんていう言い方、ことのほか「違かった」なんて一体何?もっと普通にたった一文字しかか違わない今までの「違った」でいいじゃないか。それともなにか、「違った」だと命に関わるような不都合でもあるのか?なんて思いかねないほど日本の言語感覚とはずれているんだけど、こういう言葉使いを気持ち悪く感じない人って、少なくともこういうのはまともな書物の中には絶対に出てこない言い回しだし、本を読んだことが無い人なんだろうかとも思ってしまう。もっとも言葉としてはリビドーの例の如く20年位前に既に使われていたようで、話によるともっとはるかに昔からの関東のある地方の方言だということも目にした。ちなみにリビドーは仙台の会社で確かチビッコビルとかいう異様な名前のビルに居を構えていたことまで、あまりにも異物感が横溢していて、別に覚えていたくもないのに記憶の片隅に居座り続けている。この記事を読んだらわたし同様に、おそらく一生の間どのような瞬間がやってきてもまるで役に立たないに違いない知識、昔仙台のチビッコビルというところにリビドーというエロゲーのゲームメーカーがあったという知識が脳細胞のいくつかに染みついてしまうことだろう。わたしの仲間となるのだ。どうでもいい話からちょっとだけ写真の話へ戻す。今回の写真は昔のオートフォーカスのコンパクトフィルムカメラで撮った。現役当時でもそんなに高級なカメラでもなかったように思うが、いまや見つかるとすれば誰も手を出さないような中古ワゴンの中にワンコインでも買えるような状態で転がっているのがほとんどじゃないかなぁ。ちなみに以前河原町のサクラヤで、両方とも「写ルンですよりも安い!」なんていう札を貼って、値段のつかない安物中古を集めた段ボール箱の中に投げ入れられていた。デジのAFコンパクトカメラとやってることは大して変わらないと思うけど、デジでは当たり前の速度感といったものが、こういうお手軽カメラを使うことで、元々スローなフィルムという場ではより顕著に写真に現れてくるんじゃないかと感じるところもあり、一眼レフのような重厚なものとはまた方向性が違う、結構好きな類のカメラとなっている。なによりも所詮ファミリーカメラ、大した写真なんか撮れないと思われがちなカメラを使うっていうのが饒舌嫌いチープ好きにとっては小気味良いし、意外と著名な写真家がこの手のコンパクトフィルムカメラを好んで使っていたりする。たとえばロバート・フランクがオリンパスのμ2を構えている写真を見たことがある。今現在は、これはかつての高級コンパクトフィルムカメラになるコンタックスのT3にフィルムを入れて、後7枚ほどで撮り終える状態。遠出を許してくれない病気の合間に撮ってるにしてはわりとペースはいいほうかな。先日いきなりまるでホースでぶちまけたような豪雨に見舞われて、わがT3もずぶ濡れになってしまい、しばらくはこの雨の影響で挙動に不安が残る状態にはなってるんだけど、壊れて欲しくないなぁ。

サングラス ウエリントンとキャットアイ

サングラスはあれからまたいくつか買って、買っているうちに勢いがとまらなくなって今年の夏はなぜだかサングラス三昧の夏になってしまった。あれから追加になったものにはボストンなんて中途半端な丸型じゃない正真正銘のラウンドのものとかウエリントンタイプの、まぁ3COINSのバーゲンで100円で売っていたほとんどおもちゃみたいなものがある。この欲望の発露の源流には普段用の眼鏡を色々と増やしたいというのが確実にありそうで、そのシミュレーション的に安いサングラスで遊んでるんだろうと思う。なにしろ高くても1500円程度のものばかりだ。いろんなフレームのサングラスをかけてみてあらためて思い知ったのは形としては好きなのに丸顔にはあまり似合わないと痛い自覚をしてしまった丸眼鏡の真実と、キャットアイフレームが丸顔には意外と合うという新発見。でもサングラスではいいかもしれないけれど、普段用の度を入れた眼鏡にキャットアイフレームは冒険のしすぎだろうな。丸眼鏡といえば今やっている大河ドラマ「いだてん」に登場する人物、男も女もみんな丸眼鏡でみんなきっちりと似合っているのは見事。薬師丸ひろ子の丸顔でさえも似合っているんだから、これはもう一体どうなっているんだろう。彼女の丸眼鏡には何かの魔法がかけてあるとしか思えない。「いだてん」はエピソードが積みあがっていくだけでその場で足踏みしているような印象のまま折り返し点を過ぎ、頭に残っているのはこの丸眼鏡の競演と高橋是清を演じる、これが最後の役となった萩原健一のかっこよさばかりだ。

ラウンド2種
上のブルーのがWEGOで売っていたラウンドのミラーサングラス。セールで500円ほどだった。下のは10年以上前に眼鏡研究社で作ったもので、写真ではちょっと分かりづらいけどこれが今風ラウンドなのか、上の今年買ったもののほうがレンズは大きい。眼鏡研究社のは鼻パッドがない一山のクラシック仕様である一方、今年買ったほうは普通に鼻パッドがついている。そういえば「いだてん」に登場する丸眼鏡はすべて一山で、こういうところもそれなりに時代考証されていた。眼鏡のことを知らないと一山の眼鏡という存在自体まず知らないはずだから、劇中に小道具として眼鏡を調達してきた人はこういうことを知っていたということだろう。といっても鼻パッドは1920年代には既に発明されていたそうだから、登場人物全員が一山の眼鏡だということにリアリティがあるのか、古さの演出だけのことなのかどうかは正確には分からないけど。