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2018年 冬の旅 / つるの剛士のウクレレ動画

褪せた雪だるま





みどりの自転車





陰鬱なプーさん





風の公園





天使の階段
2018 / 02-03 寺町 京都駅近辺
Minolta Capios 160A
期限切れ Fuji Xtra 400 / Lomography Colornegative 400

このところ腰痛が出てしまってまいってる。大体今年の初め頃から何か変な感じだなぁと思いつつ日々を過ごしてきたんだけど、ここに来て急速にこれはちょっとやばいんじゃないかって云うような状態になってきた。何しろ朝起きてしばらくはほとんどまともに足が動かせなくなってる。腰の下辺りからお尻、太ももの裏側にかけて、ちょっと力を入れるだけで電撃のように痛みが走る。朝のごみ出しに行くときも、もうよたよたの歩き方で、ごみを出しに行くことそのものが苦痛になってきた。そこで歩けなくなると今は特に困るのでしかたなく整形へ直行することとなった。以前転んで肘の骨にひびが入ってからの久しぶりの整形外科だ。当時の先生は既に亡くなられていて、その下で治療していた先生があとを継いでいた。まぁ色々と説明してレントゲン撮ってみると背骨の一個がずれてるらしいということが判明。とりあえずは痛み止めと湿布を出してもらって帰ってきた。それからしばらく薬飲んで湿布貼ってるけど、効いてるんだか効いてないんだか微妙なところかな。痛む時は相も変わらず痛んでるし、また反対に日によってはあまり気にならなくなってる時もある。薬はてっきりロキソニンあたりが出てくると思ったんだけど、ロキソニンよりも長期間薬効が続く、これは医師の指示でしか出せないという薬が処方されてた。湿布のほうは薬とは違ってこっちはロキソニン関連のものだった。製造元を見てみると、これがなんと富士フィルムとなってる。化粧品といい、写真フィルム関連以外では大躍進の富士フィルムというところだろうけど、肝心の写真フィルムは最後のモノクロフィルムももうやめるとアナウンスしてまるでやる気がない様子で、応援するのに富士のフィルムを買うことさえ嫌になってきた。元々コダックのフィルム好きでコダックメインで使ってきたからまたコダックに戻ろうかなぁ。コダックもフィルムは縮小一方なんだけど、映画のフィルムのほうでクリストファー・ノーランらのフィルム派の映画監督の要請もあって、富士ほどやる気が失せてしまってるわけでもなさそうにもみえるところもある。あとは欧州系のモノクロフィルム。これが面白そうだ。富士がついでに現像液も廃止するなら、欧州系のモノクロフィルムにあわせて世界最古の伝統的なロジナール現像液なんていうのも使ってみたい。まぁそれはともかくさすがフィルムで培った技術があるからなのかこの湿布、べたついてないのにはがれない。普通にイメージする湿布とは結構違う使いやすい代物だった。ただ使いやすいといっても太ももの裏側なんていうところはやっぱり貼りにくいし、おまけにいざ貼ろうと思うと、痛いのにどこに貼るのが一番適切なのか場所がいまひとつはっきりと特定できなかったりするのが難儀だ。数日使ってみても、ここに貼って正解だったと思ったことは未だに一度もなかったりする。今回も厄介な時空に捉われて身動きとれなくなりつつある日常の間隙を縫って撮っていた写真から。このところ狙いは凄くかっこいいというのよりもちょっとかっこいい程度のほうが、写真を撮る行動と時間、思考する気分的な余裕を奪われて、シャッターを切ることが一体どういうことなのか感覚的に分からなくなってきてるような状態では良いんじゃないかと思ってる。とにかく何でもいいからシャッターを切ってみる。手応えがあるのかないのか、シャッターを切ることで確認してみる。そういう行為を繰り返してるうちに薄暗い霧の中に沈み込んだようになってる写真を撮るという行為のもたらすパースペクティブのようなものがまた霧の中から見通せる形で浮かび上がってきてくれるんじゃないかと期待する。それでこの前一年近くカメラにはいったまま撮りきれなかったフィルムをようやく撮り終えて現像に出したあと、次に使うフィルムはハーフカメラに入れてみることにした。入れたのはリコーのオートハーフで、次からしばらくの間はこのカメラを使う予定だ。写真撮りにいく時間も気分も奪われてしまってる中で通常の2倍、一本のフィルムで72枚以上も撮れるカメラを使うのは何時果てることもない時間を共有する羽目になりそうで怖いところもあるんだけど、とにかくシャッターを切る回数を増やし一回のシャッターにかかる重力を軽減させるには結構有用な手段になるんじゃないかと思う。今回の写真は5年ほど前に入れたフィルムがそのままになってると注意つきで姉から貰ったカメラで撮ってる。5年以上もカメラの中に放置されていたフィルムは使ってみると、イエロー被りで浅いコントラストのイメージになってはいたものの意外と予想以上に写っていた。こういうのは光線引きなどと同様にフィルム独特の楽しみで、使用期限が切れて何年も経ったフィルムとか逆になかなか入手できないとなると、きちんと使えるものよりもむしろこういうものの方が貴重なんじゃないかと思えてくる。


Youtubeで見つけたつるの剛士のウクレレ動画。きちんとした曲なのかアドリブなのか、ラフに弾いてるようでも聴かせどころは押さえていて上手いものだと思う。愛らしいウクレレの本領発揮って云う感じの演奏だけど、それにしてもこれなんていう曲なのかなぁ。







2018年 冬の情景 / Eugène Atget Paris

レール





赤いライト





雨の夕





子供
2018 / 03
Minolta Capios 160A
Lomo Colornegative 400

今年に入って状況によって身動きが取れなくなりつつある中で隙を見ては撮っていた写真からいくつか。見渡してみると本当に雑然としていてまるで統一性がない。あるとすればある程度形への関心とかそういうのがありそうに見える程度か。これらの写真の何かがわたしの中で共通のものを形作ってるのだろうか。世界の裏面に潜んでいるかもしれない何か、そんなものが撮りたいとするなら、周りの世界のあらゆる細部から導き出すのが必然と、あえて落ち着く先を見つけるような言い方をしてみると、この雑念とした感じはそんなところに着地してしまうのかなと思ったりもする。最近ブルトンのシュルレアリスム宣言の昔の単行本バージョンを買ったりしていた。岩波からリリースされている、版としては一番新しい文庫バージョンは以前から持ってはいたんだけど、昔の単行本のほうには瀧口修造の序文や、中西夏之や野中ユリの作品を撮った高梨豊の写真など、文庫バージョンには入ってないものが収められていたので、あらためて欲しくなった結果のことだった。最近再刊されたブルトンの希少本「魔術的芸術」なんていうのを入手したのがきっかけになったのか、この類の書物を手にすることのほうが写真に関するものに眼を通すことよりも多くなってきてる。現実世界には存在しないイメージを追及してるように見えるシュルレアリスムと現実のコピーが本領である写真とでは一見水と油の、まるでかけ離れたもののように見える。でも外見上はそういう風に見えても写真とシュルレアリスムは意外と近い関係にある。20世紀初頭消えていく古いパリの街角を撮り続けたウジェーヌ・アジェの写真をおそらく世界で始めて注目し「シュルレアリスム革命」誌に掲載して紹介したのはマン・レイだったし、ブルトンのシュルレアリスム小説「ナジャ」は随所に写真が挿入され、文章と相まって謎めいた雰囲気を撒き散らしてた。自分の中でも写真とシュルレアリスムというこの二つのものはそんなにかけ離れた方向を向いてる風でもない。なによりも写真は機械に撮ってもらってるという側面を極端化していけば自動記述的だしその一点で紛れもなくシュルレアリスム的な装置だろう。でも自分の事物への態度においてとなると、そういうシンプルな有り方以外に、どういう結びつき方をして自分の中にあるのか、あるいはこれからどういう接点を持って自分の中で結びついていくのか、今のところ自分でもさっぱり分からないのも確かだ。何だかいつももどかしい思いに駆られてる。





これも白水社の新書バージョンとこの文庫バージョンの二冊を持ってる。文庫のほうはブルトンの全面改訂版をもとに注釈一杯の決定版となってる一方で、新書バージョンのほうは集録されてる写真のサイズが大きい。


アジェの写真は実は結構好き。同じ頃のパリを撮った写真家はブラッサイだとかウィリー・ロニだとか他にも一杯いるけど、何故かアジェほどには惹かれない。アジェのどこに他の写真家とは違うものがあるんだろう。そしてこの端正な写真群のどこがシュルレアリストたちを魅了したのだろう。一般的には古いパリの様子を記録した、この人がいなければ古い時代のパリの様子を知ることが出来なかった記録者的な扱いで、写真そのものも作品というよりは当時画家なんかに資料として売っていたという認識のままのようなところがどこかにある印象なんだけど、一目見ただけでも単純に資料的な写真というだけじゃないのは丸分かりで、写真的なオーラに包まれてる。でもマン・レイらが惹かれたのはそういう写真的なオーラだったんだろうか。

アジェ1

アジェ2

アジェ3




市井のジャック・ザ・ドリッパー 屹立する無意識のオブジェ / James Hill - After You"ve Gone

市井のジャック





窓のアブストラクト





枯葉のオブジェ





椅子と光のストラクチャ
2016 / 12 近所
2017 / 11
2017 / 07
2017 / 09 大津京
Fuji Cardia Travel Mini DUAL-P / 写ルンです / Fuji Naturaclassica
Kodak SG400 / Fuji Natura1600

ジャック・ザ・ドリッパーはアクション・ペインティングの画家ジャクソン・ポロックに対してタイム誌がつけた名前。切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー)にかけたものだったけど、マスコミはポロックを胡散臭い存在として扱いもしていたようで、これはひょっとしたらからかいのための蔑称だったのかもしれない。それはともかく街中で見つけたアクション・ペインティングといった風情の写真で今回は始まる。ポロックは水平に置いたカンヴァスの上を絵具缶と筆を携えて歩き回り、刷毛や筆につけた絵具をそのカンヴァス上に撒き散らしてイメージを作り上げた。これもおそらく同様に大工さんが作り上げたという違いがあるだけのアクションペインティングの布なんだろうけど、こちらは残念ながら世界的なアートにはならなかった。でもアートであるかどうかなんて本当はそんなに大層なことでもない。各時代において様々な解釈でアートは成り立っていた。逆に云うと歴史を通して統一したアートという概念なんか端からなかったことになる。だから極端に云えば作った本人がこれはアートなんだといえばそれがアートになってもおかしくないわけだ。芸術は事物の付加価値であって属性じゃない。そして先に云ったように付加価値として芸術という観念を纏った事物が大層なものだということでもないと思う。むしろこの大工さんのアクションペインティングは最初から作品などまるで目指しておらず、ポロックが意識で制御されたものから解放され無意識の領域で作品を作ろうとした苦悩をまるで簡単に実現してる。何かを作り上げようなんて爪の先ほどにも考えていない大工さんのアクションペインティングはその無意識のオブジェ振りが素晴らしい!おまけにこっちは立体でもある分ポロックの作品よりもさらに手のこんだ存在なのかもしれない。町の中には無意識として屹立するオブジェが一杯ある。そういうのを見つけては写し取ってみるのはなかなか面白いと思う。ただこうやって写真に撮るということはせっかく無意識のオブジェとして佇んでいたものに何か特別の意味を与える行為でもあり、オブジェにしてみれば下世話でおせっかいなものになってはいるだろうけど。最近悪質な電話勧誘に見事に引っかかってフレッツ光を使っていたのをコラボ光の業者に代えられてしまった。長年のお馴染みさん扱いだったフレッツ光をまるでそんな希望もなかったのに解約されてしまって、わけの分からないコラボ光業者のサービスを使う羽目に。消費生活センターに相談に行ったけど騙されたまま法的には問題のない筋道を辿らされたようでどうにも無傷で元には戻せないような話だった。契約書さえ送ってきてないと言い張っても向こうは送ったの一点張りで、こっちはないことの証明をするほかなくもちろんそんなことは論理的に不可能だ。まぁ詳細はそのうち気分が静まったら書いてみようと思うけど自分の馬鹿みたいな無防備さも含めてすべてのことに腹が立つ。


James Hill Plays Ukulele Jazz Style After You"ve Gone

ウクレレ買ったし、このくらい弾けるようになりたいものだ。ちょっとジャンゴ・ラインハルトっぽい?もっともこの曲はジャンゴ・ラインハルトも弾いていて、でもこんな感じじゃなかった。





うえの動画のジェームス・ヒルのものじゃないけど、初心者用としては手に入れやすい価格で評価の高い、Ariaのコンサートタイプでコア素材のウクレレ。ソプラノタイプよりもフレット数が多いのでこういうソロ弾きには適してる。





線分収集家 The Line Collector / 哀歌

奇妙な配線ライン





蔦の跡





水辺の扉





十字通路

2018 / 02 伏見
2016 / 06 心斎橋
2017 / 09 浜大津
Minolta Capios 160A / Nikon Coolpix S9700 / Fuji NaturaClassica
Lomo400 / Natura1600

写真をみていて思いついたタイトルだけど、世界中のあらゆる線をコレクションしてる人が本当にいたら面白いだろうなぁ。直線から曲線から異様に折れ曲がった線からぐるぐると回りこんだ線と、ありとあらゆる線を収集して線で世界を定義しようとする人。きっと頭の中には幾何学的幻想が渦巻いてるに違いないと思う。ちょっと思い出したのがクーロンズゲートの妄人街。あの掛け軸の絵のなかの仙人の頭の中に存在する、物や観念にとりつかれてしまって、そのことだけを延々と考え続けることで人外へと踏み出してしまった人の集まる奇妙な空間。鍵穴に取り付かれて鍵穴のことばかり考えてるうちに自分が鍵穴になってしまった鍵穴男のように線分収集家も頭の中の幾何学的幻想によって異形へと変化していきそうだ。やっぱりちょっと間抜けで逸脱感のある、コクトーの線描のような最初の写真が自分としては面白い。ちなみに使ったミノルタのコンパクトカメラは姉からの貰い物。極めて音の静かなカメラで撮った本人にもシャッターが下りたかどうか分からないくらいだ。このおかげで周囲の注意をあまり引かずに写真が撮れる。画質もミノルタでまるで問題なし。今ではフィルムカメラ好きの間でもまるで話題にも上らない、数あるファミリーカメラの一つ扱いだけれど、結構な掘り出し物かもしれないと思い始めてる。この前のに続いて今回も日本の哀歌二曲。最初のは由紀さおり姉妹で次のは加藤登紀子が歌ってる。ちなみに加藤登紀子のほうは満州里小唄が入っていたレコードに集録されていた。どうも昔からわたしには、この二曲は似たような曲としてセットで頭の中に入ってるようなところがある。冷静に聴いてみると全然違う曲なのに何故なんだろう。七里ヶ浜のほうは逗子開成中学校の生徒十二人がボートの事故で亡くなったことを悼み記録に残そうとした歌。これは亡くなった子供の関係者でなければまったくの他人事なのに、表現が結構一般的、共有できるような形になってるから近しい存在を亡くした経験でもあれば問答無用で泣けてくる。琵琶湖のほうは最後の歌詞に七里ヶ浜と似たような箇所があるものの、全体的には旅情というか、放浪、さすらいの浪漫的な側面を歌ったものだろう。それにしても去年の夏琵琶湖に入り浸ってたのにこの歌はまるで頭の中に流れなかった。今度行ったらこの歌が耳元に蘇ってくるだろうか。


○ 七里ヶ浜の哀歌
Youtubeへ飛びます。

○ 琵琶湖周航の歌












2018年冬、小倉。Let it Be / 満州里小唄

数列ソファ





夕闇停車場





ルーフ





駐車場





待合
2017 / 12
2018 / 01
写ルンです / Fuji Cardia Travel Mini DUAL-P

2018年、冬の小倉、去年の暮れから捕らわれ滞留を余儀なくされてる場所で。わたし個人に直接関係してくるわけでもないのが幸いなところではあるけど、この生と死が対峙してる場所で足を取られてると写真もまたすべてを飲み込んで逃れようもなく収斂していくこの場所から出られなくなっていく。で、足掻いてみるわけだ。今回の写真はそういう足掻きが色々と見え隠れするようなものになってると自分には見えてくる。そういう場所では捕らわれ淀んでいく状況そのものをあるがままに写し取っていけばいい、淡々と日記でもつけるようにシャッターを切っていけば良いとは思うものの、なかなか達観できない。満州里小唄はこの加藤登紀子のLPに入っていたのを聴いてから好きになった歌だ。歌手本人は左翼の化身のような人でわたしにはまるで賛同できない人種に属するけど、こんな歌を歌ってる部分ではそんなことは関係なくなる。でもあえてこういう戦時下の古い歌を選んでレコードにしたことには、わたしが気づいてないだけで何か左翼的なイデオロギーでもくっついていたんだろうか。気づかせない時点で例え左翼的イデオロギーが入っていたとしても大失敗に終わってるといえそうではあるけど。この加藤登紀子バージョンは今までまるで見つからなかったんだけど、こんなタイトルにしてれば検索には引っかからないわなぁ。検索に引っかかってくるのは知床旅情だとかこういう感じの歌ばかり歌ってるような印象の森繁久彌のもの。それと意外なのはこの歌がジャイアント馬場の愛唱歌だったことか。探せばジャイアント馬場が歌っているのも聴くことができて、あのこもった声は相変わらずだけど愛唱歌だけあって歌いなれてるのか歌は思った以上に上手い。


最後の一節だけが唐突に短調になるのが解せない。明日の望みへと思いを繋ぐ良い部分なのに雰囲気台無し。戦時中のものに明日へと繋がる希望なんかを語らせないと、陰気に転調して台無しにしてやると、これがひょっとして左翼的イデオロギーのささやかな発露なのか。