午睡 / ジャン・ボードリヤール 「消滅の技法」

眠りうさぎ





手すりと光窓


2017 / 06
嵯峨野
Olympus Pen E-P5 / Konica Eye
Fuji 100

相も変わらず嵯峨野巡り。といっても観光スポットではほとんど撮ってないから、嵯峨野である必要もあまりなかったりする。
嵯峨野、嵐山と名前はもう観光地そのものの場所だけど、行って見ると意外と観光スポットは少ない。竹林の道や渡月橋の辺り、猿山に近隣の寺社くらいじゃないかな。トロッコ列車に乗ったり保津峡の川下りなんていうのもあるけど、だからといって観光地として多彩な印象になるというほどでもない。
桂川もちょっと広すぎて川縁を歩いても気を引くポイントとかほとんどない。先日試しにあまり人が通っていない右岸のほうを歩いてみたけど、舗装した道と川の反対側である山裾と空を覆うような樹木が続いてるだけだった。対岸から見ると木々のトンネルの中を抜けていくようなイメージにも見えてはいたんだけど、木々は実際にはトンネルというほど空を覆ってない。おまけに桂川を対岸へ渡ろうとすると橋は渡月橋しかなく、両岸の散策路を遠くまで歩いてしまうと、向こう岸に渡りたくてもいちいちこの渡月橋のある場所まで戻ってこなくてはならない。それほど探検しなくてもそのうち桂川では船遊びくらいしかやることがなくなってしまう。
で、思いの外大味な場所なので、そろそろ写真撮る場所を変えようかとも思い始めた。
この前引いた大吉のおみくじによると、吉方は東だということだ。嵐山は京都の西で、真逆の方向ではないかと思い至って愕然とする。でも東と云っても東山の辺りもあまり新鮮な気分で撮れそうもない。ということで思いついたのはさらに東に行って大津辺り、琵琶湖の湖畔はどうだろうということだった。大阪には頻繁に行くんだけど、何故か滋賀のほうには足どころか意識さえも向いたことがない。
水辺の写真とか夏にうってつけのようでもあるし、一度行ってみるかなぁと思い始めてる。

嵯峨野は観光客に混じって歩いてみると広いのに限定された観光スポットしかないなぁっていう印象だけど、一つだけ目に留まった場所で御髪神社って云うのがあった。日本で唯一つ髪の毛の神様の神社だそうで、世の男性には救いの神に見える人も多そうだ。そういう男性のための福音をもたらすべく、珍しいのでここは探検に行ってみたい。観光客の歩くルートとも離れてるし、おそらく人通りはほとんどないと思う。

今回の写真はちょっとクールでしょ。こういう撮り方が細部を捉えるとはあまり思ってはいないんだけど、最近はここという位置からさらに下がって広くフレームで切り取るような撮り方をしていたから、こういう接近戦に近いような撮り方をやったのは久しぶりだった。自分で撮って眺めていて思ったのは余白のとり方といったところかな。イメージの抜き加減というか何もない空間を上手く取り入れるということだった。ずっと昔から思っていたことだけど特に縦構図の場合は日本画なんかが参考になるんじゃないかなぁ。掛け軸とかまさに縦構図の完成形のようなのが多いし。


☆ ☆ ☆


社会学者、思想家であるジャン・ボードリヤールが書いた写真論の本。
消滅1

というか、論というほど筋道だって論理的に何かを解き明かしてる風でもなく、覚書に近い思考の断片が連なって、その断片が照応しつつ、輪郭が浮遊しているような不定形の内容空間を形成してる感じだ。そして本はそういう言葉で綴られてる部分とボードリヤールが実際に自分で撮った写真の二部構成になっていて、写真のほうが全体の三分の二くらいと、文章の分量よりも多い。
この本の言語空間はポストモダン的な立脚点から展開していく写真論とでも言うのか、世界を記述する方法として、従来的な表現する主体のようなものよりも客体のほうに重点を置いた方法を試行して行くような展開になってる。矮小な自己で世界を染め上げるよりも、事物そのものに語らせるべきだというような方向性。

消滅2

もうほとんど冒頭の部分に、写真に撮られるのを望んだのは光景のほうであって、あなたが気に入って撮ったと思っているのは実は勝手な思い違いだと、その光景が演出しているのであって、あなたは単なる端役にしか過ぎないというような一節が目に入ってくる。ちょっと前に書いた荒木経惟の本の中に街が表現してるものを切り取ってくれば良いんだよといった件があって、自分はそういう考え方が気に入ってると云うようなことを書いたけど、こういう考え方とボードリヤールの論調は根を同じにしてるように見える。
主体があるイメージで染め上げて表す世界像といったものとは真逆の世界の記述方法の提案は、カメラという機械が指し示す世界像とは意外なほどしっくりと馴染んでるように見える。カメラのレンズは人の眼よりも冷静で正確で、何の修練もなしに誰でもがシャッターボタンを押すだけで世界を切り取れる。ボードリヤールが語る世界の記述法はこんな道具が一番活躍出来そうな世界でもある。

消滅3

ただね、唯一の欠点はこの本、極めつけに難解なんだな。
客体を中心にすえて、主体や主体が生み出すイメージとの関係などを従来的に受け入れられていたものから様々に読み直し相対化していく思考の集積物のような文章部分は、今回これを紹介しようとまた少し読み直してみたんだけど正直この独特の難解さに辟易してしまった。輪郭線がふわふわと浮遊して形を変えていくようなこの本の言論空間はおそらく云っている内容そのものはそれほど難解でも重厚なものでもないと思うんだけど、なにしろボードリヤールの言葉使いが、言葉の厳密な定義もなしにボードリヤール流とでも云うような使い方をしているために、普通の書物のように内容を理解する方向へはなかなか進めない。使われている言葉に対して自分が理解してる意味を与えてみて、こういうことを云っているんだろうと推論するようにしか読めず、こういう風な意味で使ってるんだろうと推測して与えた意味がボードリヤールがこの本で使ってる意味と同じなのか良く分からないという箇所が多い。
で、本当に理解できてるのかどうか何度読んでも確証が得られないようなテキスト部分の言語空間は、面白いけど頭が痛いという感じで、つまらないから思い切り良く切り捨てるということも出来ない難儀なものとなってるんだけど、それとは別に、というより分量的にはこちらのほうが多くなってる写真の部分、これはテキスト部分とは対照的に難儀な様子もなくてなかなか面白い仕上げになってる。社会学者が書いたから文章がメインの本だと思いがちだけど、分量から見てもこの本は写真集であって、はぐらかされるような文章部分はおまけだと思って読むと意外と得したような気分になれる。掲載されてる写真は自分にとってはわりと気を引くものが多かった。とても素人が撮った写真とは思えない、と書くとこの本の趣旨に反してしまうのでそうは書かないけど、並べられた写真は非常に興味深い。それにこんな風に実際に写真を撮って論の実践してる写真論の本ってそんなにないんじゃないかな。

消滅4

ちなみにボードリヤールのメインフィールドである社会学のほうの著作「シミュラークルとシミュレーション」は映画「マトリックス」の発想の元になった本でもある。





カメラがポストモダン的な機械だというのがよく分かる。もっともそんな面白い機械を手にしても、せっかくの脱主体化に恐れをなして従来の表現領域に取り込もうという人がほとんどだけど。


E-P5は外付けのファインダーと標準のズームをつけて使ってる。外付けのファインダーがかっこ悪い。何でこんな不細工なアクセサリーにしかならなかったんだろう。チルト機能なんかいらないからもっと繊細なデザインにして欲しかった。バルナックライカなんかに乗せる、筒状のミニチュア望遠鏡のようなファインダーに比べると、あまりのダサさに目の眩む思いだ。






真昼の光の中、垣間見えるもの / Simple Use Film Camera かっこいいひねくれカメラ

嵯峨野川縁1






嵯峨野川縁2






嵯峨野チョコレート八つ橋





嵯峨野鏡台

「森で木が倒れるとき、その音を聞くものがいなかったら、そもそも音はするのか」
ロバート・J・ソウヤーのSFミステリ「ゴールデン・フリース」に出てきた一節。移民宇宙船の航行途上で船内のコンピュータが乗員に対して殺人を犯す話で、語り手を当の犯人のコンピュータが勤める形の倒叙タイプのミステリだ。犯人は最初からコンピュータだと分かっていて、船内のすべての情報を犯人であるコンピュータが制御している中で、探偵役の主人公がどうやって真相に迫っていくのかが読ませどころとなる。今のところ半分ちょっとすぎくらいまで読んだけど、ミステリとしての出来はいまひとつ、真相を巡ってのコンピュータとの騙し合いのような展開にはなってない。どうやらコンピュータが犯した犯罪の動機にとんでもないものが用意されてるようで、この辺りの意外性でミステリ的な興味のすべてを納得させようというような趣向らしい。
まぁそれはともかく、こういうお話のなかに上の一節が出てきた。設問としては形を変えていろんなところで見るような類のものかもしれない。物語のほうの主人公はこの問いかけに対してYesという答えだったけど、わたしはどちらかというとそんな音は存在しないと考える。
シュレーディンガーの猫っぽい世界のほうが流動的で面白いと思うほうだし、誰が聞いていようがどうしようが、そんなこと関係なく音がするというような世界は固定的で静的すぎて退屈だろう。観察者の存在によって世界は始めて固定化される。観察されない世界はYesもNoも重なり合ったどちらともつかないものとしてある。それは一体どんな世界なんだと想像すれば眩暈を起こしそうなほど不思議な世界となるだろう。
何かね、ゴールデン・フリースのこの件を読んでるときに写真のことを思い合わせてた。写真も対象と対峙し見ることで目の前にあるものとそっくり重なってはいるものの何か新しいものを生成させ引き出して一枚の絵を作ってるんじゃないか。観察すること徹底的に見ることで垣間見えてくるものがあると信じるから写真機を持って街に出かけようとしてるんじゃないか。
観察されなければ、徹底的に見られなければ存在を顕現しようとはしない何か。そんなのが、それだけとはいわないけれど写真を撮る有力な動機、対象になるんだろう。
逆に世界には未だに観察されない、徹底的に見られなかった何かが層を作ってそこらじゅうを埋め尽くしてるなんて考えると、世界は発見されていない宝の山の中にあるとも考えられて、何だか楽しくなってくる。

嵯峨野で撮ってはいても観光地には立ち寄る気にはなかなかなれない。と云っても一応はその辺りまで足を伸ばしはするんだけど結局シャッターを切らずに戻ってくるっていうような撮り方をしてる。せっかくだから竹林の道なんていうところも行ってはみるんだけど、ちっとも写そうという気分になれない。
で、嵯峨野に行っては特に嵯峨野でなくても良いような街の写真ばかり撮ってきてるんだけど、撮ってきた自分の写真を眺めてるとやっぱりこういう普通に見える場所を撮る時には審美眼のようなものを問われてるんだろうなぁと思うこともある。

少し顔をのぞかせているものっていうのも気を引く対象かも。その向こうに何かここからは見えない世界があるって言うような予感、そういう含みがあるのが何だか楽しい。

嵯峨野玉葱祭
2017 / 06
嵯峨野
Nikon F100 / Olympus Pen EES-2
Fui業務用400



☆ ☆ ☆


最近こういうカメラを買った。

ロモシンプルユースフィルムカメラ1

ロモシンプルユースフィルムカメラ2
今すぐには使わないからまだ封は切ってないけど、ロモが発売したレンズ付きフィルム。要するにロモ版の「写ルンです」だ。黒地にオレンジのロゴがパンキッシュで、無茶苦茶かっこ良く見えて衝動買いしてしまった。アナログマッドネスなんていうフレーズもいい。モノクロはこういう外観なのに、カラーフィルムが入ったほうはボディに色が入ってこれほどかっこよくはなかったので、あくまでもこのモノクロタイプのがお気に入りだ。
もう一つ好奇心を刺激されたのは写ルンです同等のものとして発売されながら、フィルムの入れ替えが出来るようになってるということ。よくシンプルなカメラを写ルンですのように使えるとか表現したりすることがあるけど、これは写ルンですのように使える写ルンですそっくりのカメラといったところか。フィルム交換が出来るレンズ付きフィルムってかなりひねくれた存在で面白い。
一応フィルムの交換は感電注意の但し書きつきで自己責任ということになってるけど、やり方はロモのページに堂々と紹介してあった。

Simple Use Film Camera (レンズ付きフィルム) 詳細な使い方をご紹介

今のところアマゾン、ヤフー、楽天と、どこを覗いても扱ってないようで、ヨドバシカメラなんかにもおいてなかったから、結局ロモのウェブショップで注文することになった。送料が高くてここで買うのは嫌だったんだけどなぁ。アマゾンに置いてくれないかな。
ロモのショップでは結構売れてるようで頻繁に入荷待ちになってる。

ちなみに写ルンですのほうは一台、10枚ちょっと撮って、今撮影の真っ最中だ。ここにきて雨の日が続いてるから、濡れても気にならないカメラは持って出るにはちょうど良い。







ソウヤーのSFって昔読んだときは凄い面白い印象があったんだけど、今読んでる気分は、あれ?思ってたほど面白くないっていうのが正直なところかなぁ。これもミステリ風の発端で一応ミステリとして進んでは行くんだけど、半分すぎても主人公はコンピュータを疑うことすらしないで探偵らしい行動に向かわないし、犯人のコンピュータが好き放題にやってるだけの展開が続いてる。しかも動機は完全に隠されてるから、一体何がやりたいのかさっぱりわからないままに、犯人であるコンピュータの行動を見物させれらることとなる。謎を小出しにし、ところどころでひっくり返して驚かせつつ、興味をひっぱっていくようなところもほとんどない。J・P・ホーガンの「星を継ぐもの」辺りの強烈なミステリ趣向を期待してると、完全に肩透かしを食らうと思う。
元々倒叙ものが好きじゃないっていうのもあると思う。最初から犯人がわかってるってもうそれだけで読む気力の半分くらいは失ってるもの。









真昼の光の中 / 星降らない物置

中空のブランコ






木陰のアパート






干し玉葱

2017 / 06
嵯峨野
Nikon F100
Fuji 業務用フィルム 400

星が降り心霊が舞い飛んだ写真を36枚も撮った後、やっぱりあの空間、きちんと撮れなかったのは心残りだなぁって云う思いが渦巻いて仕方ない。そこで今度は自分の持ってるカメラで一番失敗が少ないF100に36枚撮りのフィルムを装填して、もう一度同じ場所へ撮りに行って来た。星降る画面の背後でどこを写したかはそれなりに判断できる程度には写ってたから、そのなかからここは思ったほどじゃなかったと云うところは省いての再撮影だった。
感覚的には新鮮味も何もない二番煎じの一本だったけど、内容的にはなにしろ心霊が舞う一本である程度どんな感じになるかを見た上での良いとこ取りの撮影になったから、結果はもちろんお気に入りが詰まった充実の一本になった感じだ。何ならここで全コマ一枚ずつ毎日アップしてもかまわないくらい。全コマといえば以前にフィルム一本、何でこんなのを撮ったんだと自分でも首を傾げてしまうようなのとかどうしようもない出来のコマも含めて全部アップして、自分の意識の流れのあとをつけてみるのも面白いかもと思ったことがあった。実行には移さなかったけどね。デジタルにはフィルム一本という区切り、纏まりが無い。フィルムはロールフィルムを使ってる分にはこれを結構意識する。この区切りの単位はそこに収めていく写真にも何らかの影響を与えているかもしれない。サージェントペパーズのようなコンセプトアルバムに比するコンセプトフィルムなんていうのも出来てくる可能性だってある。
それにしてもF100の分割測光は精度が良いというか、本当にめったなことじゃ外さないなぁ。影がくっきり出る雲ひとつ無い晴天の昼間、そこらじゅうに濃い影が落ちてる空間で、光の部分も飛ばずに影の中も潰れないできちんと捉えてる。確か説明書に分割測光を使ってる時は露出補正はするなと書いてあったと思うけど、それだけニコンのほうにも自信があったんだろう。おまけにオートフォーカスとプログラムオートで使ってるから、やってることはフレーミングしてシャッターボタンを押してるだけ。云わば超豪華な写ルンですといったところだ。
唯一の難点は見た目がいわゆるデジイチのおにぎりのようなずんぐりしたスタイルに移行していく過程のデザインになっていて、クラシックカメラのオーラが皆無なこと。最近のデジタルはクラシックカメラ回帰のようなデザインのが増えていて、これはこれで紛い物臭くてやめてくれと思うんだけど、そういうのに比べるとF100はダサいデジイチのそれもさらに古臭い形っていう雰囲気をどことなく纏ってるのが、何とかならなかったんだろうかと思う。でも性能の良さが見た目を完全に上回ってるのでお気に入りのカメラだけどね。

ちなみに最後の写真が前回の星降る物置と同じ場所。吊ってある玉葱の、群れを成す複雑な赤い色と枯れ草色が撮りたいと思ったポイントだった。




☆ ☆ ☆




無印フィルムで十分って云う感じがする。10本まとめてだとそれなりの値段になってしまうけど、一本当たりにしてみるとブランドがついたフィルムの大体半額くらいだし、結果は半額を確実に上回ってるものとして出てくるように思う。








真昼の光の中 / 星降る物置

藻と空と堤防






反射とカーテン





植群






木陰と階段

2016 / 08
2015 / 08
2014 / 09
2017 / 06
小椋 / 河原町 / 忘れた / 嵯峨野
Canon Demi 17 / Contax T3 / Golden Half / Zeiss Ikon Ikonta Six
Kodak SG400 / Fuji C200 / Fuji Venus 800 / Kodak Tri-Xを自家現像

最初のは去年の夏に調子の悪いキヤノンのハーフカメラを使って小椋の干拓池跡で撮っていたもの。あとは結構以前に撮って出していなかったものの中からと、最近撮ったものから一枚。モチーフは見つけたらわりとよく撮ってる対象のヴァリエーションってところかなぁ。二番煎じともいえるかもしれないけど、同じ歌を歌うことは結構良くある。というか同じ歌しか歌えないか。こういう対象の範囲を広げたり角度を変えたりといったことをやってみたいというのもいつも心の中にはあるけどね。
調子の悪いカメラ、上手く取り込めないスキャナーも加勢した、ざらついたテクスチャだとか、荒れたりずれたりしたイメージを、くっきりはっきりまるで窓越しに実際に見ているように世界がそのまま写るものよりも好むのは、ひょっとしたら作家の筆跡も生々しい絵画的なものへのある種のコンプレックスなのかもしれないなぁと思う。泰西名画的な写真を絵画への従属として毛嫌いしているわりには別の形で絵画的な志向が紛れ込む。むしろ窓の外の光景のようにそのまま味も素っ気もなくそっくりに写るデジタルのほうが非絵画的という意味で写真的なんじゃないだろうかと、フィルムこそが写真だと思うわたしの思考を混乱させに来る。

☆ ☆ ☆

ところで、今年の初めにおみくじで凶をひいたこと。あの後暫くはリベンジしようと思って、最後には春日大社まで行ったのに結局リベンジは果たせずにそのままという状態が続いていた。今年は本当にあまり良くないことばかりが身の回りで発生していて、最近やっぱり放置したままだったおみくじリセットをしたくなって、先日八坂神社で半年振りにおみくじを引いてみた。
また凶だったら嫌だなぁと恐々お札を貰いに行って中身を見てみると、これがなんと結果は大吉の文字が輝いてるのを見ることとなった。おみくじ程度に何を大層なと思うかもしれないけど、何か体中の緊張がほどけて行く感じだった。
正直云ってこの結果でこれだけ気持ちが楽になるのはまったくの予想外で、それだけ最近の身の回りの出来事に我ながら精神的に鬱屈していたんだなぁと思った。これがきっかけでちょっとでも気が楽になる方向へ動いていけば良いんだけど。
で、細かいトラブルの一つとして、最近ヤフオクで落札した古いカメラのシャッター幕がよれよれの穴だらけというのがあった。大吉のおみくじを引いてるのでこの程度のトラブルなんかどうってことないという気分が勝ってはいるけど、試しにどんな写りになるのかフィルム一本使ってみて、現像の結果に愕然とした。

なにしろ、こんなのが36枚続いていたんだから。現像だけでインデックスも頼まなかったのは正解だった。
シャッター幕穴あき

全部に星が降り、心霊が飛び回る。
やっぱり古いカメラはオークションなんかでは手を出さないのが正解なんだろうと思う。手を出すとしたらオーバーホール前提は必至だろう。オークションのほうがリアルの中古カメラ屋ではなかなか見つからないような珍しいものが出てくるからどうしても見てしまうんだけどね。
ということでこの落札したカメラはシャッター幕交換とオーバーホールを頼むことになりそうだ。
落札したカメラはExakta Varexだった。


☆ ☆ ☆



意外とよく写るハーフサイズのトイカメラ。ハーフのモデルがこのカメラで撮りまくり、撮られまくった写真集も出てる。キティちゃんの絵柄は使ってるうちに結構簡単に剥げていってしまう。わたしのはもうキティちゃんの影さえもない。


ゴールデンハーフをハーフのモデルが使いたおす。ほとんど一発アイディアで出来上がったような写真集。でも意外と面白いよ。妙に生々しい日常写真がラフに撮り撮られて一杯並んでる。




燦爛 / André Kertész The Polaroids

燦爛







曲立頭

2017 / 04
2017 / 05
新祝園
Nikon L35AF / Lomo Diana MINI
Fuji Presto400 / Kodak Tri-X を自家現像

砕け散る光と収斂していく光、ってところかなぁ。シュルレアリストとしてはこういう現実世界から逸脱しかけてるような雰囲気の写真に撮れると、撮った本人がまず楽しくなってくる。何よりも一番に自分で楽しめないと何の意味があるって云うのか。
手段として写真を選択してるけど、昔から眺めていたシュルレアリストのいろんな作品を見てるほうが、写真の文脈の中に入って写真を横断していくよりもひょっとしたら自分にとっては有益なんじゃないかなぁとも思う。音楽にしてもそうだ。音楽的といえば昔からリズミカルに並んだような被写体を撮ったりはしてる。でもそういう絵解きのようなものに限らずに音楽から発想する写真のほうが、それがどういう形になるのかは写真にして見ないと分からないものの、写真から発想する写真よりも何だか刺激的なように思える。

最後のは新祝園の駅から少し歩いたところにある華広場という公園にあった遊具。この公園には異様なデザインの遊具が並べてあってひときわ際立ってる。棚倉のぐるぐる椅子と云い、地方都市に飛びっきり異様なものが散見されるというのはどういうことなんだろう。

☆ ☆ ☆

最後の写真で使ったのは本当に久しぶりだったダイアナ・ミニ。もう目が眩むほどの圧倒的な低画質。これは後処理でちょっと弄くってこういう形に仕上げてるけど、出来上がったままの写真は本当にどうしようもないというか、トイカメラ好きでまともに写ってないものを面白がる自分でもこれはないだろうって云う仕上がりのものばかりだった。一応ゾーンフォーカスでピントを変化させられるんだけど、おそらくどこに合わせても、どれもピントは合わないと思う。このカメラでは初めてハーフで撮ってみて、巻き上げのいい加減な感触とか、こんな形で何時までも撮ってるカメラじゃないと思い始めてからは途中でもっと大きなサイズのスクエアフォーマットに切り替えて早く撮り終われとばかりに最後まで撮りきった。撮影途中でフォーマットの切り替えが出来て、ハーフサイズのほかに35mmフィルムで真四角写真が撮れるのが売りのカメラだけど、こんな面白そうな仕様のカメラなのに、カメラそのものの出来が酷すぎて再度手に取る気がしない。ロモは廉価フィルムを供給してくれてるのはいいんだけど、カメラ作りに関してはカメラとユーザーを舐めきってるとしか思えない。
と書いてみたものの、もっと遥かに逸脱した、水道の配管や板切れ、下着のゴムなどで作った冗談のような手製カメラで水着の女性などを盗撮していたミロスラフ・ティッシーという変人もいる。幸いにしてキュレーターが見出したから写真家として名を馳せることになったものの、そうでなければおそらくただの変質者で終わっていたと思う。もっとも本人は変質者で終わってもまるでそんなことに興味なさそうではあったけど。
ミロスラフ・ティッシーがどんな写真を撮っていたのか、どんな手製のカメラを使っていたのか、この名前で検索してみれば山のように写真が出てくるので興味があれば検索してみるのも面白い。おそらくその手作りカメラの様子はこれを読んで頭に思い描いたものをはるかに凌駕すると思う。
その変質者気質を発揮した写真なんかを眺めてるとその逸脱振りに目を見張るんだけど、比べればダイアナ・ミニの写らなさのつまらないところは派手に逸脱してるように見えても結局トイカメラという範疇に収まってしまう程度の破格に過ぎないというところにもあるんじゃないかと思う。

いろんなレベルで使う側を戸惑わせるばかりのカメラだけど、フラッシュはかっこいい。付属していたアダプターを使えば他のカメラにもつけられるから、同じハーフカメラのPEN SSE-2にでもつけて使おうかな。

ダイアナミニ




☆ ☆ ☆


ケルテス ポラ1

ケルテス ポラ2


ケルテス ポラ3

ケルテスはわたしの中では以前取り上げた稲越功一と同じタイプの写真家だ。茫洋たる現実世界を前にして、詩情豊かで端正なイメージとして世界を切り取ってこられる写真家。印象はモダンで瑞々しく、時代的にはまぁ同時代の写真家でないのは承知していても、そんなに古い写真家とは思えない。でも本当はブレッソンよりも前の世代の人で、これを知った時はちょっと吃驚した。またマン・レイなどのシュルレアリストが関心を寄せていたということだけど、ケルテスの写真が好きな理由としてその辺もわたしは敏感に反応してるのかもしれない。
決定的瞬間といったものとはほぼ無縁の静的で構築的な写真が特徴とでも言えるかな。スタイリッシュな写真を一杯撮って、この世界に残していってくれた写真家だ。構成的でどちらかというと直感ではなくて分析的な側面によってる印象なのに、詩的な要素も苦もなく紛れ込ませる感性も持ち合わせていて、この辺はもう作家の資質によってるんだと思う。わたしには十分すぎるほど欠落してる感性なので、真似しようと思っても出来ない。

この写真集はケルテスが奥さんを亡くした後、アパートの一室で窓から差し込む光の下にオブジェを置いて、その光の様子を撮り続けた写真を集めてる。これらの写真が奥さんを亡くしてしまった後の時間の結晶だということを情報として知ってしまうと、写真に込められた詩情もどこかメランコリックなものに見えてくる。寄り添うような人の形のガラス瓶が被写体として好んで取り上げられてるのも、そんな心情の現われなんだと思う。

タイトルにもあるようにポラロイドの写真だというのも良い。
ポラロイドそのものはもう生産していないけど、今はインポッシブル・プロジェクトがフィルムを作ってる。でもこれはまだまだ未完成品っていう印象で高いお金を払ってまでして使う気がまったくしない。おまけに元のポラロイドとは明らかに画質が違うし、昔のポラロイド写真の持ってた雰囲気は出てこない印象がある。
昔の本家ポラロイドは唯一無比の存在だった。ポラロイドが生産を止めてしまったのは写真にとって本当に大きな損失だと思うし今も嘆く人も多いだろう。でも結局はユーザーが支援しなかった結果だということなんだから、あまり文句も云えないように思える。デパートの閉店セールに群がる客を見て、あんたらが普段やってきて買い物をしないからこんな状態になったんじゃないかと思うのと似た感じかな。







1000円2000円のカメラだったらまだこんなものかとその圧倒的な粗悪感も楽しめるかもしれない。でもこの価格はないと思う。
カメラの出来としてはまだミニじゃないほうのブローニーを使うダイアナFがいい。でもダイアナFも似たようなボックスカメラであるホルガに比べたら、あのホルガでさえもよく出来たカメラに見えるくらいの出来の悪いカメラなんだから、もう言葉もないというか。