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冬の旅 / Caetano Veloso - Mimar Voce

病院にて





カフェ





差し込む光






淀む光





冬の反射





見上げる空







放課後のグランド
2018 / 01-02 黄檗
Konica Bigmini F(1-6) / Fuji Cardia Travel mini DUAL-P (7)
Lomography Colornegative 100


冬の陽射し。差し込む光。まどろむ光。行き渡る光。淀む光。跳躍する光。回り込む光。冬の光。不死の光。





Caetano Veloso - Mimar Voce

久しぶりにラテン。まぁここは冬の日々と云うことで狂騒的なものじゃなくしっとりとしたバラード、そしてボッサでいってみよう。といっても一見穏やかに見えてボッサのギターって音の一つ一つは結構力強い。ジョアン・ジルベルトなんかの今にも貧血で倒れそうなボーカルをのせている曲でもギターのストローク一つ一つはよく聴いてみると太い芯が通っている。ボッサだってバラードだてやっぱり狂騒と熱狂の国の音楽だと云うことがよく分かる。

Caetano Veloso - Força Estranha




冬の旅 / Fernando Arrabal Viva La Muerte, Opening

孤独な鉢





カフェの窓から





窓際





野球

2018 / 02-03
Minolta Capios 160A (1,2) / Ricoh AutoHalf E (3) / Holga120GCFN (4)
Lomography Colornegative 400 (1,2,3) Fuji RVP 100F (4)


「それじゃ、またね!」くらいの意味合いの関西弁「ほなね」ちょっと文字に書いてみると、この「ほなね」という三連のひらがなは音の響きはもちろん見た目にも何だか味わいがあるのに気づく。「そうだろうか?(違うだろう)」といった意味合いの「そやろか」も文字にしてずっと眺め続けていると何だか日本以外のどこか遠くの、たおやかな国の文字や音だといっても通じそうな気がしてくる。ちなみに「そやろか」というのはどちらかと言うと京都で、大阪では「せやろか」のほうが多いように思う。それはともかくこの二つ、あわせて「ほなね・そやろか」なんて並べてみれば、異物感を伴いながらも耳に届くリズムも整って、どこか名前のように見えないこともなく、これを「薄荷グリーン改」にしてもいいなとか、あるいは新手の漫才コンビの名前にも使えそうだとも思ったり、はたまた名前として組み立てるなら我が出生の地、壬生御所ノ内町と混ぜ合わせて、「御所ノ内ほなね」なんて、これは怪しい演歌を歌って人を惑わす暗黒演歌歌手然としてるし、「御所ノ内そやろか」という風に並べてみると、御所ノ内!と自分で名乗った瞬間にそうだろうか?と自分で疑問を投げかける、なにやら哲学の人のような雰囲気となる。とまぁあれやこれやどうでもいいことが何だかとりとめもなく頭の中を巡っている。それにしても「御所ノ内そやろか」は世界中に疑問符を叩きつけ続ける徹底的懐疑者のようで、名前として結構気に入ってしまった。「薄荷グリーン改」にするならこれかな。どこかで「御所ノ内そやろか」なんていうHNで、改行せずに映画や音楽のことを書いたり、写真を見せびらかしてる人がいれば、ひょっとしてそれはわたしかも。今回の写真は去年の冬に撮っていたもの。病院へ行く道すがら撮り続けていた写真だ。ほぼ一年前からの写真はそんなのばかりが目の前に積みあがってくる。気分はどうにもこうにも散文的でちっとも情緒的になれなかった時期の、そしてそれは今も振幅幅を大きくしながら続いてはいるんだけど、そういう難儀な精神状態で撮った写真なので、そんなに含みの多い写真にはなってないように見えていたのが、一年前の記事同様に「冬の旅」なんていうタイトルで纏めてみると再びそれなりに情緒的な部分もある写真に見えてくるのが面白い。大体「旅」という単語一つだけでもロマンチックな情緒を呼び込むのだろう。とはいうものの以前にも書いたようにタイトルは内容を纏めるようなつけ方よりも、一緒になって内容空間を攪拌し混沌化して広げていくようなもののほうが自分の嗜好にはあっているような気がする。ボリス・ヴィアンが「北京」とも「秋」ともまるで関係ない小説に「北京の秋」とタイトルをつけたように、ボリス・ヴィアンは昔、わたしのアイドルだった。意味するものと意味されるものの乖離なんていうと、ただの素っ気ない写真もまた構造主義的写真なんていう妙なものに変貌してくれるかもしれない。そういえばロラン・バルトも写真に関する本を出している。構造主義や現象学と写真は相性がいいのだろうか。


Viva La Muerte, Fernando Arrabal


ポドロフスキーや寺山修司に影響を与えたフェルナンド・アラバールの映画「死よ、万歳」のオープニング・シーン。催眠的というか、特に奇抜な手法や音を使っているわけでもない、素朴な子供の歌のような外見のもとで、聴覚体験はシュールレアリスティックと云う他ないものになってる。バックのイラストはローラン・トポールだ。最後のシュルレアリストたちの競演というところかな。



写ルンです偽装

最近撮りに歩き回れないものだからフィルムの消費も滞って、カメラ関連のものに散財していない。そんな状況の中でカメラ関連というほど大層なものでもないけれど久しぶりにこんなものを買ってみた。写ルンですを立派なコンパクトカメラに偽装するケースだ。これはクラッセWもどきのデザインとなっている。シルバーとブラックの二種類が出ていて、両方とも上半分を開いてなかに写ルンですを収納するだけで、遠目にはフジの高級コンパクトフィルムカメラ、クラッセWに早代わりする。まぁ全体に漂うおもちゃっぽさは否めないけれど細工は結構上手くできていて、さらにこれを使うとハンドストラップしかつけられなかった写ルンですが、ネックストラップで両吊りできるようになるのもありがたい。シルバーのほうはフジフィルムのロゴ入りストラップもついていて、わたしが買ったのはこのシルバーのほうだ。カメラとしてはシルバーのほうが個人的にはクラシカルな雰囲気に見える。でもフジの商売に乗せられて、そのうち気がつけば手元に黒も揃っていたなんていうことにもなってそうではある。黒にはストラップを同梱していないというのが、シルバーを買ったものには次にもう一つ、安い価格でケースだけと云う具合に黒いほうも買いやすいし、黒を買ったものには黒にはついていなかったストラップが物欲のターゲットになると、何だかせこい印象だけど細々とした商売の仕込がフジは上手そうだ。





昔早川から出た全集を最後に今に至るまで一切再刊されてないのかな。「うたかたの日々」は文庫にまでなっているのに。


写真を撮るにはほとんど役に立たない。




ワッフル





グラデーション






四角いリズムで






乾燥した水面





三連
2016 / 12 京都駅
2016 / 04 丹波口
2017 / 12 鴨川
2015 / 09 伏見桃山
Fuji Cardia Travel mini DUAL-P (1,2) / Olympus XA2 (3) / CONTAX T3 (4) / Olympus PEN F (5)
Kodak SG400 / Fuji 業務用400 / Kodak Gold 200

グラフィカルでポップでキュートでシュール、いつだって頭の中でこの呪文を唱えながらの撮影だ。この前の「○」に続いて今回は「□」に関する視覚的考察といったところか。とはいっても四角い形というのは街のいたるところに溢れかえって、あまりにもありふれて「○」ほどには感覚的には躍り上がらない。それにこれは四角の写真だと云ってしまうと、あぁなるほど四角いものの写真ですかと、それで適当な落としどころにあっさりと落ち着いてしまうところがあってこういうのもつまらない。確かに四角い形に拘って撮ってはいるんだけどそれに収まりきれない部分がないとやせ細ったイメージにしかならない。それは四角い形を扱っていても切り取り方の感覚によっては痩せ衰えたものにもなるし混沌としたものを含む得体の知れないものに変貌するものもあるということなんだろうと思う。大体これは何々を表現しましたなんて作った側が明言できるようなものなんか大抵は面白くもなんともないものとなってるし、どうせ撮るなら自分にも明言できない得体の知れない何かが寄り添ってる写真を撮りたいと思ってる。それにしてもこの呪文の中でシュールというのが一番扱いにくいかもしれない。なにしろ写真は与えられたものでしか構成できないから。その辺に飽き足らなくなってくると演出写真のような方向へ向かいがちになるんだろうけど、わたしは自我意識でべったりと塗りつぶしたような演出写真は嫌いだからなぁ。おまけに描かずに写し取るという写真の特質。この描かないということは写真を写真として成立させている最大の要因だろう。最近読み始めてちょっと面白がってる本。川上弘美の「椰子・椰子」得体の知れない非日常の要素が日常の中に平然と交じり合ってる不思議世界を語りだしてる内容で、作者自身が見た夢をコアにして実質は夢魔に近いような世界なんだけど、語り口がのほほんとしてるというかあっけらかんとしているというか、怪異譚という手触りとも違う、ちょっと体感したことがないようなユーモラスな幻想空間を味わわせてくれる。日記として書かれた一月の八日、曇りの日に松もとれたので冬眠に入り、二月の三日、晴れの日に冬眠を終える。その間一緒に冬眠させた子供が二倍の大きさにふくらんでいるのを湿度の関係だろうかと考え込む。文庫の解説を書いてる南伸坊が内田百閒を引き合いに出していて、確かに思い切り切り口の変わった内田百閒っていう感じだ。内田百閒好きとしてはいきなり波長が合ってしまい、続いて読むのに何冊か手元に置いておこうと思って他の著書を漁ってみたら、一体どれから手にすればいいんだと途方にくれるくらい、結構な数の本が出ていた。芥川賞作家なんだけど、それだけ人気がある作家なのかな。







Cibo Matto - Sugar Water

ビデオのほうは手抜きのミシェル・ゴンドリー風だけど、音は水底で流行るポップソングなんていう言葉が頭に浮かんで、その低体温っぽい感触がなかなかクールだ。






遠野

木のある空き地





密やかな空き地





河と樹木





5





ちらし棚
2016 / 04-05 丹波口
Minolta SR505
Fuji PRESTO 400

遠野とつけてみたものの、当然のことながら遠野で撮った写真じゃない。撮影にさまよい歩いていたのは京都の丹波口の辺りだ。丹波口といえば昔島原遊郭があったところで、でもこの時は花街を撮ろうなんていう気はさらさらなかった。個人的な記憶でいえばここは花街じゃなくて親戚の家があった場所、お正月ともなると親戚一同が集まって、子供心にも特別な楽しい時間を過ごした場所だ。さらに小学6年の頃家の事情で壬生御所ノ内町にあった家を出ることになって、でもあと一年で卒業だからということで、そのままもとの朱雀第一小学校へ通うべく配慮してもらって、わたしだけ家族と離れて一年間、校区は違っていてもそれほど遠くでもないこの親戚の家に一人で下宿していた時期もあった。この親戚の家も今は引っ越してしまって街も様変わり、壬生御所ノ内町の元自宅は今もそのまま残っていてこちらは街が様変わりしていても記憶の奥底を刺激してくる部分も残ってるんだけど、親戚のあったこの丹波口は一年ここで過ごしたとはいえわたしにとってはあくまでも仮の住まいであり、特別な場所であったとしてもあまり懐かしいという感じでもない。特別な場所である一方記憶とはまるで違ってしまった外観も相まって郷愁を誘わない場所。そういうところで写真を撮ってみたわけだ。特に何を撮るという意図もなく目についた空間を、なぜその空間が目についたかということも意識せずにシャッターを切ってみる。何か気を引いたんだけど、その気を引いたものの正体は撮った本人にも分からない。出来上がった写真を見てもそのシャッターを切った時の気分をかすかに感じ取れる場合もある一方で、自分でもどうしてこんな写真を撮ったんだと訝しくなるものも混じっている。特別でありつつ郷愁を誘わないという場所への屈折した個的な態度が写真に紛れ込んでいるのかもまるで分からない。そんなこととはまったく関係なく写真は成立するようでもありそうではなさそうでもある。京極夏彦によるリミックス版遠野物語の冒頭付近に遠野という名前の持つイメージについて、目の前にあるのに辿りつけない、見えているのに手が届かないというような儚い雰囲気を伝えてくるといったことが書いてある。これ、ほとんど写真について語ってるとも云っていいような気がする。そこにあると思ってシャッターを切っても、いつも視線の周辺へと毀れ落ちてしまうもの。注視することで無限に目の前から遠ざかっていってしまうその何かの気配の残滓といったもの。今回の写真がそんな逃げ水のようなものを撮れた写真だとはおおっぴらには宣言しないけど、花街を撮るといった目的もなく、何を撮ると決めないで撮っていた写真にはそういう気配が僅かでも残りそうな気はする。







時間の分厚い壁を通して彼方からかすかに聞こえてくる呟きのような古い薄明の世界っていうあり方は浪漫的な印象で結構好みだったりする。柳田國男のこの遠野物語もそういう類の書物で、さらに民族的な記憶に共鳴するようなところもあっていいんだけど、オリジナルは文体がやっぱり今のものと違うということもあってかなりとっつきにくい。で、いろんな現代語訳のものも出揃ってくるわけだ。ところが学者が訳したものは研究家ではあっても文章家では必ずしもないせいか、遠野物語に限らず大抵読むに耐えない語り口というか、そういうのが多くてあまり楽しめない。そんななかでミステリ作家の京極夏彦が訳したものがあって、これは逐語訳じゃなくて大胆な再構築版なのが特徴となっている。物語を語るプロが語りかける文章だし遠野物語の雰囲気がよりよく伝わるならこれも面白い。もし遠野物語に興味があるものの、文体で挫折してしまってるようなら、このリミックスバージョンは良いと思う。ちなみに京極夏彦のあの長大なミステリ群は「陰摩羅鬼の瑕」あたりから以降は読んでない。でも最近また未読のものを読んでみようかなと思ってる。初期の京極堂シリーズものだと「狂骨の夢」が文体で怪談をやろうとしてるようなところがあって夢中になって読んだ記憶がある。話の出来から云うとこっちのほうが上かもしれない「魍魎の匣」もシリーズの中ではかなり楽しめたし、これは文庫版にもついてるのかどうか知らないけど、ノベルス版の表紙裏にあった謎めいた建物の写真がお気に入りだった。あの建物はこの世界のどこかにあるにしても、一体何の建物なんだろう。


こっちはオリジナルのほうも合本になっているもの。京極夏彦がどういう再構築を行ったか読み較べてみることも出来る。






よそみ

よそみ





呪物





鶴





池の上の叢






乱舞する花





大願のひよこ





屋根の上の鳩





さあ冴えるもの





幕の中へ

2018 / 04 六角堂
2014 / 10 六角堂
Nikon F3HP / Minolta New X-700
ILFORD PANF PLUS 50 / Kodak SuperGold 400

今年の猛暑とそれに続く長雨、そして絶不調の体調も重なってこのところまるで写真を撮れていない。何時入れたのかキヤノンのデミに詰め込んだフィルムは、何しろデミはハーフサイズで通常の二倍撮れるカメラなものだから、まだ30枚近く撮らないと取り出せない状態のままだ。撮り終わらないものだからいつも現像を頼んでるフォトハウスKにもこのところご無沙汰で、ひょっとしたらもう忘れ去られてるんじゃないかと一抹の不安がよぎる。外界と自分を繋いでいたカメラという装置も外界同様の異物感、よそよそしさを垣間見せて何だか妙にそぐわない手触りを伝えてくる。モノクロは今年の春ごろ、カラーのほうは日付の記録を見てみると2014年の秋に、烏丸御池の六角堂で撮ったもの。六角堂はこのモノクロを撮った時に、近くにあった新風館が一年近く前に閉館していたのも知らなかったくらい、気がつけばいつの間にか足が遠のいていた場所だった。ただ久しぶりにやってきたとはいえ取り立てて目新しいものがあるというわけでもない。文字通り六角形のお堂を中心に周囲を巡る砂利道の回廊があるというだけの小さな場所で、何時やってきても見慣れたものばかりが目に入ってくることとなる。鳩豆を持って売店から出てきたとたんに集団で襲い掛かってくる、ことさらに凶暴な鳩も、境内の池に住み着いて噛み付くので注意と掲示された獰猛な白鳥も、時間が止まってしまったかのようにいつもそこにいる。もう撮るものなんてないという感覚が足を踏み入れた瞬間からわたしの中で濃厚に立ち上がってくる。こういう見慣れすぎた場所で写真を撮ることはできるのだろうか。すべての目につくものを何らかの形で写真に収めてしまったと思える場所でさらに写真は撮ることができるのだろうか。久しぶりであろうとなんであろうと、周知のものしかない場所に立って、何だかそんなことを意識しながら周囲にカメラを向けることになる。同じ場所同じ被写体をまるで定点観測のように撮り続けて出来上がる写真は一瞬を切り取る写真、出会い頭に目新しい被写体と切り交わした情動を確かめるような写真とはまるで異なったものになっていくだろう。何度も同じ場所に立ち返って撮る写真はそこから物語を、被写体に纏わせようとする情緒を削ぎ落としていく。写真は見えるものしか写さないし、写っているものしか写っていない。目新しい刺激をそっちのけにして撮る写真はおそらくそういう写真へと近づいていくんじゃないかと夢想する。目の前にあるオブジェ性しか写そうとはしない写真のあまりの寄る辺なさに不安を覚えて、すぐに物語で化粧し、情緒を纏わりつかせて何か写真であること以外の意味のあるもののように仕立てようとするけれど、そういう寄る辺なさに途方にくれてしまう写真こそが写真だけが本来的に持ってる特質なんじゃないかとわたしは思ってるわけだ。何も絵画の真似をする必要もない。シャッターボタンを押すことで誰にでも撮ることができる写真は、修練の結晶である筆の痕跡を残さずには成立しない絵画などとはまるで異なったものとして成立しうる。世界を解釈から解き放つ。実際にはフレームで切り取ることだけでも世界に解釈を与えてはいるんだけど、そういうことが出来る可能性は写真のみが内に秘めているんだろうと思ってる。わたしは解釈されていない世界、定義されていない世界を見てみたい。