緑の深度2

不動川2






不動川3






不動川 4






不動川 5
2017 / 12 棚倉 不動川
Fuji 写ルンです シンプルエース

この前フォトハウスKで現像してもらった写ルンですからさらに数枚。
小雨が降ってる曇り空の日、普段なら絶対に出かけない空模様だったけど、陰鬱な雰囲気の写真が撮りたくて出かけてきた。この日の雨は体が濡れるほど降ってもいないのに道は濡れていて陰気くさいと、目的にぴったりなものだったから妙にうきうき気分だった。
この場所を見つけたのはグーグルマップを眺めていて、山中にポツンと点在してる「名も無き公園」という名前の公園を目にしたのがきっかけだった。変な公園だなぁと興味を引かれ、そこへ行く道はどんなになってるんだろうと脇を走ってる川沿いを辿ってるうちにこういう建築物を見つけて、実際に行ってみたという成り行きだ。
一見打ち捨てられた廃品置き場のような印象だったものの、奥のほうで断続的に何か木材でも切ってるような音がしていたから、そういう作業場のようなところだったのかもしれない。見た感じわたしの中では辺境にある砦のようなイメージが重なってた。
それにしてもグーグルマップのストリートビューなんか見てると、これはまさしくストリートスナップじゃないかと思うことが多い。カメラ持って町に出かけることを別の形で実行していて、ストリートビューにはなんだか街の写真を撮りに出かけていくことの意味合いを奪われてしまいそうなところがあるなぁ。

全体にあまねく回り込んだ薄暗い光。暗いんだけどその暗い光を一杯身に纏わせ、湿度を帯びたその光によって浮かび上がる空間や色合いが結構お気に入りだった。




小雨が降る曇り空の、さらに影となってる領域は、これで撮るには結構きつかった。もう少し光が入ってる状態がこのカメラの写る限界かな。写ルンですはフラッシュをいかに抵抗無く焚けるかが上手く使う秘訣なんだけど、遠景ではフラッシュが届かないのでこういう写真ではあまり意味が無い。このあたりの限界の見極めとか、アンダー時のフィルムのイレギュラーな反応だとかは使ってるうちにわかってはきそうだけど。




緑の深度

緑と螺旋





六角柳





不動川1
2017 / 11 三条
2017 / 11 六角堂
2017 / 12 棚倉 不動川
Fuji 写ルンです シンプルエース

写真以外のいろんなものが写りこむ写真と、目の前にあるものだけが写る、フレームの中に見えるものだけしか写っていない写真と、自分の嗜好は両極端に分かれていて揺れ動いてる。とは云ってももちろん完全に両極へ振り切ったような写真は撮れるはずもなく、この二つの混ざり合った度合いが異なる写真を撮ることがほとんどだと思う。
最近はどうやら気分のバランスがこの両極の中央辺りにあることが多いようで、そういう時はこれは撮るべきなんだろうかとか、構えてみたもののどこが良くて構えてしまったのか自分でも即断できないとか、カメラを構えてしまう衝動はあっても、その正体が掴みきれなくてなかなかシャッターが切れなくなる。自分が何をどういう風に撮ろうとしてるのか見失ったような気分になってる。

先日久しぶりに現像に出せた写ルンですからまずは写らなかった写真をピックアップ。写ルンですは思いのほかよく写るカメラなのに、今回は本気で露出アンダーのコマが頻出してた。一応CDにしてもらってるので、そこからデータは取り出せたものの、この露出のまるで足りないフィルムではうちの壊れかけのスキャナーではまるで歯が立たず、一面の粒子画面になるだけのコマが多かった。
絞り、シャッタースピード固定のカメラに期待するとしたら、上手く写る方よりもその制限によって上手く写らなかったほうだろう。どういう具合に上手く写らなかったのか、これを基準にしたほうが、もちろん上手く写る時の雰囲気も大好きなんだけど、この類のカメラは特性を発揮し始めると思ってる。
イメージの染みだとかイメージの何かの痕跡だとか、染みのイメージや痕跡のイメージじゃなくて、そういうイメージになるかならないかのぎりぎりのところで陽炎のように揺らいでる何か、そんなのが撮れれば面白いだろうなと思う。
最初のは草木に覆われた螺旋階段のステップ。これは影の中にあっでも一応道路に面して開いていて、太陽光から隔絶されていたわけでもないのに、まるでフィルムに痕跡が残ってなかった。二枚目のは六角堂の六角柳の内側から。ちなみにこれは縁結びの柳だ。最後のは棚倉、雨の日の不動川へ降りていって撮ったもの。最近は雨の日や曇りの日に撮るのが興味をひいてる。




冬の道標

通路の幾何学





漆黒ハンドル
2017 / 03 高の原
2017 / 04 新祝園
Olympus XA2 / μ2
Kodak SuperGold 400 / Kodak Tri-X

撮った者の贔屓目で云ってみると、彩色銅版画風というかエッチング風味というか、ここでもまた版画家志望の内在する我が奇妙な欲望が垣間見えてるような気がする。しかも平面的。立体空間を相手にしながら奥行きを地ならしして平面へと置換していこうとする衝動もまた絵画主義的な嗜好、さらにいうなら日本画的なものへの嗜好の表れだろうと思う。写真を撮りながら、写真は表現には馴染まずコピーであることが本領などと、写真原理的であろうとすることに意図的であるにもかかわらず、出来上がるものはいわゆる写真的なものにはちょっと距離を置いてるように見えるのが自分としては面白い。

去年の今頃、笠置に入り浸っていた後で、奈良方面へ向かう電車の各駅で降りて写真を撮ってみようと思い立って撮っていた写真から。それにしても笠置で写真を撮っていた時からもう一年経ったとは信じられない。電車待ち30分の連続二段攻撃なんてまるでつい先日の出来事のようだ。
最初のは近鉄の高の原で降りて歩き回っていた時。ここは近鉄の線路沿いに細い河を挟んで並木道が延びていて、車窓から眺めるたびになんだか絵になりそうで写真に撮ろうと思ったところだった。実際に歩いてみると対岸から見るのとは大違い。大して見栄えがする道でもなくてがっかりしたんだけど、この場所だけは幾何学的で妙に気に入ったところだった。使ったXA2は買った時に入れた電池が入れっぱなしで放置状態だったのに、チェックしてみると未だに電池OKのブザーが元気一杯に鳴るしそのまま使えてる。物凄くコストパフォーマンスがいい。
二枚目のは新祝園の駅だったか、広い道路に舵輪のオブジェが突っ立ってた。うしろの遊歩道が別に特殊なレンズを使ったわけでもないのに魚眼っぽく歪んで見える。

最近あまり写真が撮れなくて、フィルムがなかなか消費できないでいる。ニコンのF3に入れたモノクロは撮り終えられずに春頃からカメラの中に入ったまま。ちょっと気分を変えようと最近絞りもシャッタースピードもほぼ固定のボックスカメラであるホルガに感度100のリバーサル、しかも期限切れを詰めるなんていう無謀なことをやってみて、これはどこまでちゃんと写るのか実験してみるような感じになるだろう。ホルガはマグナムの写真家が使っていたり、ハッセルとともにお気に入りカメラだと公言するマイケル・ケンナがこの冗談のように破格のカメラで撮った写真を集めて写真集を出したりと、流行遅れのようにみえながらもいつもどこかで地下深くに熱を溜め込んでる印象だ。
こんな自分の撮影状況の中、一ヶ月近くかけて昨日ようやく写ルンですを撮り終え、今日久しぶりにフォトハウスKに現像を頼みに行くつもりだ。新しく撮った写真を眺めるのは結構久しぶりとなるので、どんな風に写ってるのか、どんな風に写ってないのか結果を見るのが楽しみだったりする。





覗く眼 / 飛び出し坊やの開き

闇から覗くおかめ





飛び出し坊やの開き





ポン

2015 / 05 山科
Fuji Tiara / Nikon F3
Kodak Tri-X / Fuji C200

2015年に山科の疏水沿いの桜並木を撮りに行ってた頃、疎水を離れて街中で撮っていたものから。
ちなみに云っておくとお面は自分で置いた物じゃないよ。何故か山科の街中のあちこちにこういうおかめのお面が神出鬼没といった感じで飾られていた。通りすがりにとってはまったくの意味不明で、頭の上に「?」マークが何本か生えたままになってた。何かのお祭りか行事の関連物かと思うけど、置き方の場違い感と、そのくせあまりにもさりげない日常性で際立つことに終始して、詳細は分からないままだ。とまぁこんなことを云っても通りすがりだけが抱く疑問に過ぎないのであって、山科に住んでる人だったら素性もわかって面白くもなんともないものかもしれない。それにしてもこのお面、一体なんだったんだろう。
最近はこういう露骨に変わったものとかはあまり撮らなくなった。その異質性に頼りすぎてるような気がして、このところは変なものを見てもまず一呼吸。ちょっと冷静になってからもっとさりげない感じで撮ろうとするのがほとんどだと思う。あまりに絵に描いたように変なものとかは、異様さに当たり前感が漂ってしまって、逆にそういうものだと異界の扉は開きにくいような気がしてる。


ポン!





拘束された馬の首 / Joel-Peter Witkin 「The Bone House」

目隠し馬





後ろ手バッグ
2015 / 06 心斎橋
Nikon AF600
Ilford XP2 Super

インパクト狙いのタイトル。まるで違う印象へと導いていくようにつけてみたけど、一応嘘はついてない。
それにしてもモノクロを撮る時はハイコントラストの写真が好みなんだと自分でも痛感する。もう版画に近いようなもので良いというか、ひょっとしたら版画家にでもなりたかったんじゃないかと思うくらい白黒はっきりしたイメージが好きだ。そういえばビートルズの昔からあの有名なジャケットのように、影で世界を黒く塗りつぶせという思いが常に自分の傍らに寄り添ってるような気がする。トーンが豊かでなめらかで独特のしっとりした色気のあるモノクロ写真は、自分で撮るとなるとそういうのは全然撮れないし、狙ってみても全体に締りのないイメージにしかならないから、なおのことそういう風に思うのかもしれない。

☆ ☆ ☆

インパクト狙いのタイトルなんていうので書き出して、実際にまさしくこのタイトルに沿うように退廃的でグロテスクでなおかつ美しいなんていう写真が撮れたら良いと、これはいつも思ってる。わたしのなかでそういうタイプの写真家の筆頭はジョエル=ピーター・ウィトキンだ。
ボーンハウス1
極めてグロテスクで退廃的で、でもそういう側面を織り合わせていかないと絶対に生まれてこない、特異ではあるけれど、言葉にしてみれば美的としか云いようのないものに満ち溢れてる写真を撮る、唯一無比の写真家。私がこの人の名前を知ったのは昔、美術の文脈においてだった。写真が予定調和的に持ってるものとはあまりにかけ離れてるせいなのか、写真そのものであるにもかかわらず、おそらく今も写真の文脈ではあまり名前が出てこない人なんじゃないかと思う。
ボーンハウス2
なにしろ被写体がモルグから持ち出した人の死体の断片や奇形だというんだから、この地点でもう出発してる場所が常人とはまるで異なってる。
子供の時に交通事故で千切れて転がってる少女の首を見てしまったことが感性の出発点だったというジョエル=ピーター・ウィトキンはそういう死体の断片を組み合わせて、まるで静物画のように静謐なイメージを作り、あるいはまた死体に色々と装飾を施してポートレート風の写真を撮る。そうやって撮られた写真には異界へと回路が開いた、死の匂いを撒き散らす幻覚に近いイメージの地平が広がってる。被写体がここぞとばかりに異様なものである反面、全体のイメージの構成は古典的な絵画に寄っていて、その辺りのバランスが被写体の異様さにもかかわらず優美な美しさといったものをもたらしてるんだろうと思う。

いくらこの超現実的で幻覚的なイメージが好きだからといって、あまりにも唯一無比的過ぎて後に続こうという気も起こさせない、この辺りがもどかしいところかもしれない。影響の受けようもないのでジョエル=ピーター・ウィトキンは遠巻きにして眺めてるだけしか出来ない写真家としてわたしのなかでは居座り続けてる。

それにしてもこんな写真家の写真をレビューのためとはいえ載せてしまって自分の写真と同じ区切りの中に並べたら、イメージの質に始まって、動機の切実さも含めてあらゆる部分で完膚なきまでに負けてるじゃないかと、否応なしに気づいてしまうなぁ。いくらお気に入りとはいえ自分の写真に並べてこういうタイプの写真集のレビューをやってしまうというのも考えものだ。




ジョエル=ピーター・ウィトキン自選の写真集。わたしの持ってるこの本はわりと手頃な価格で手に入る。色々と結構高価で手が出しにくい写真集ばかりというなかで、自選ということもあってジョエル=ピーター・ウィトキンの全体像を知るには良い写真集だと思う。箱に入って本そのものは布装と、豪華で堅牢な仕様なのも良い。ペーパーバックのようなのはこの人の写真ではあまり似つかわしくない。
これをきっかけにしてもっと知りたくなったら、さらに大部のものへと手を出せばいい。