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この、孤独で美しい場所へ

立ち木





池の道





林の中





湖面の杭





三頭の馬
2013 / 01 宝ヶ池
Holga 135 Pinhole
Ilford XP2 Super

前回のタイトルが妙に気に入ってしまって今回はそのタイトルにちょっと変化をつけて再登場。写真もモノクロと踏襲してるけど、今回のはピンホールカメラで撮った写真だ。と云っても撮ったのは随分と以前のこと。こうやって久しぶりに眺めてみるとまたピンホールで撮りたくなってきた。でもカメラはここぞとばかりにシンプル、原始的なのに、三脚必須と装備は物々しくなり気合が入らないとなかなか持ち出せない。カメラの操作も勘が頼りのシャッタースピードとかこれも結構気合を要求される。写真の写りはこれは全然よく写ってないと思う人もいるかもしれないけど、それは逆だ。何しろレンズを使わないで撮ってる写真だよ。これはよく写らなかった写真じゃなくて、レンズも使わない原始的な条件のもとで凄くよく写った写真といったほうが正しい。これだけシンプルで、それゆえに多彩な偶然に目一杯さらされる写真には当然予測不可能なものが一杯寄り集まってくる。自分が撮ろうとした意志とは別の場所で写真が成立していたりする。それを面白いとするかどうかで撮られたピンホール写真の幸福不幸が決まってくる。






家にはピンホールカメラは今回使ったこのホルガのものと学研のピンホールカメラ、ピンホールモードのついたダイアナがある。ピンホールとそこから入ってくる光を受け取る部分と光が入ってくる時間を調節する単純に開け閉めできるだけのシャッターがあれば、どんな形になっていてもみんな同じピンホールカメラだ。機種的に高価であってもそうでなくてもまったく変わりはない。一番手軽なのは紙でできてるものもあって、上の三つの条件が揃ってるなら紙製のカメラでもまるで問題なくピンホールカメラとして使える。Rubikon Pinhole Rebelなんてネットで検索してみるとペーパークラフトのとってもキュートなピンホールカメラが出てくる。






森を辿る道 / 孤独で美しい場所

暗がりに浮かぶ枝





木立の合間から




貯水池と枝





深部







闇に落ちる木漏れ日





垣間見る鳳凰





廃墟アパート

2018 / 04 今熊野観音寺周辺
2013 / 91 八幡男山
2014 / 11 今熊野観音寺周辺
Nikon F3 / ピンホールホルガ / Leotax F
Ilford PanF Plus 50 / Xp2 Super

東福寺の北東近くにある泉涌寺への参道である泉涌寺通りを、九条通りから抜けていく途上で脇道に分け入っていくと、今熊野観音寺というぼけ封じで有名な小さなお寺の前に出てくる。今熊野観音寺は泉涌寺山内にあって泉涌寺の塔頭となる。今回の写真は一枚だけ岩清水八幡宮で撮ったものが混じっているけど、ほかのものはこの観音寺の周辺で撮っている。ただ泉涌寺通りからは入らずにもう少し北のほうの、観音寺の裏手の墓地に続く道からここまで辿っていった。観音寺はこの辺りの他の寺院同様東山の山裾に囲まれて、観音寺の北東の山中は一條天皇皇后定子 鳥戸野陵となっている。疎らな人家とパワースポットの境界にあるようなこの辺りを歩いていると、観光客もほとんどおらず、俗世界と聖域が交じり合ってる独特の雰囲気を感じることが出来る。実際には面倒臭さが先にたってしまって、さてそこへ行こうと積極的な意識にはなれないにしても、森の中で写真を撮るっていうのはわりと親和性のあるシチュエーションだ。街中で人工物を撮ってると、これを撮った写真がかっこよかったとしてもそこにはわたしが作り出したものなどないに等しくすべては被写体を製作した者の腕前によってるんだと、表現など一片の薄っぺらい観念の一枚として相対化してしまう思想のシャワーをたっぷりと浴びているにもかかわらず、デュシャンのように徹底化も出来ずに未だに創造性の一端でも信じているのか、写真は創造じゃなく見出すことだと思い至っては、何時もどこか居心地の悪い思いを拭いきれないでいる。反面自然物はそういうところが微塵もないから写真を撮るにも思いのほか余計なことを考えないですむ。自然の著作権を持ってるのは神様だろうけど、この写真がかっこいいとして、それは神様の表現力によって成り立ってると思っても、まぁそうなんだろうなと、その程度ですんでしまう。おまけに神様は著作権など主張しない。リハビリは相も変わらず続いてこの前から背骨の牽引が加わった。これは物理的に体を引き伸ばすもので、大仰な治療装置のわりに治療法としてやってることはシンプルといえばシンプル極まりない。懸垂してるところへ誰かが腰にしがみついてでもいるかのような状態をベッドの上で再現してるとでもいうのかな、苦痛かといえば意外と何かのアトラクションでもやってるような感じで面白く、背骨を支える筋肉が引き伸ばされ解されて気持ちがいいところもある。診察ではMRIも撮ったほうがいいといわれて、でも今は時間も金もないから、まぁ露骨に検査代が払えないとはさすがに云わなかったが、ちょっと様子見したいと色々と濁すような云い方で逃げている。逃げ切れなくなったらそのうちこの検査はやる以外になくなるだろうなぁ。




つるの剛士がウクレレで弾いていたこの曲、この前曲名が分からないって書いたけど、曲名が判明。Where Is My Love Tonightというタイトルでハワイの作曲家クイ・リーの曲だそうだ。あぁすっきりした。ウクレレの第一人者であるハーブ・オオタの演奏が有名で、この元のも聴いたけど、この演奏は元とはまた違うアレンジが施されていて、さらに耳コピだというんだから恐れ入る。耳コピである以上ひょっとしてアレンジも自分でやってるのか?正直言って元曲よりもこのアレンジのほうが好みだったりする。






中空図鑑

白衣





落下するパイプ





中空の靴






宙に止まるメーター





煙煙突





逆さ漏斗ビル

2016 / 09 / 木屋町
2016 / 11 / 裏寺
2016 / 09 / 河原町
2016 / 12 / 仏光寺
2014 / 03 / 中書島
Nikon Coolpix S9700 / Nikon F100 / Nikon F3
Fuji 業務用400 / Ilford XP2 Super

撮れない撮れないと云いつつ先日ハーフカメラに装填したフィルムは予想に反して早くも全部撮り終えてしまった。通常の倍撮れるカメラだったから当分付き合うことになるだろうって書いたのに撮りきるのは意外に早かった。去年の秋にホルガに装填したリバーサルフィルムは先日現像から上がってきてたし、気分はまるで撮れないという穴倉の中にはまり込んだまま、さらに拘束された時空の真っ只中にいるわりに、その条件化で写真を撮っていく何らかのリズムでも掴んだのだろうか。大した写真ではないのかもしれないけどシャッターを押す指に力を込めることが続けられてるだけでもいいのかもしれない。ホルガなんていうのを、マイケル・ケンナが愛用してると聞いて、ある意味トイカメラ的に手垢がついたイメージのままに先日までまた使ってみていた。ホルガを使っていたからなのか、真四角フォーマットが最近は何だか新鮮だ。いや新鮮というよりも苦手意識が薄れたとでも云うほうが正確かもしれない。なにしろどんなレンズを使っても画角は狭くるしいし、フレームの中のどこに被写体を置いてもすべてそれなりに様にはなるんだけどここが一番決まってるというポイントが存在しないように見えるそのニュートラルな性質が戸惑わせて止まないフレームだったのが、決め決めの写真を撮ってやろうなんていう下世話な野心から少し離れてみると、その決まってるのか決まってないのか良く分からないけど妙に収まって見えるような性質が面白くなってきた。といっても面白くなってきたからといってまたいきなりハッセルなんか持ち出すのも大層だし、まぁそのままホルガを使い続けても良いんだけど、次のスクエアフォーマットは久しぶりにイコンタでも引っ張り出してこようかな。それはともかく露出のコントロールが出来ないホルガへ露出にシビアなリバーサルフィルムを入れるなんていうことをやってみた結果は意外と写ってるっていうものだった。室内でフラッシュを焚いたはずなのにまるで写ってないコマがひとコマあったのは、これはひょっとしたらレンズキャップを取り忘れてたからなのかもしれない。今回のは吊りさげられたイメージのコレクションとでもいうか、中空に展開するビジョンの集合体だ。大昔吊り下げられた横顔って言うタイトルで同人誌もどきを作っていたことがあって、その頃から中空に吊り下げられてるというイメージには個人的に親和性があるのかもしれない。作っていた仲間は美大の学生でそういえばポラロイド写真をアクリルとねじで作った手製のフレームに入れて付録にするなんていうこともやっていた。今でも覚えてるのは美大のその友人が書いた文章で内容は覚えてはいないんだけどタイトルをウルコングといい、この語感のよさは美大の癖になかなかやるじゃないかなんて思った。今になってちょっと検索してみたらラテンの楽器、ビリンバウの別名なんていうのがヒットする。でも友人はここから取ったというわけでもないだろうなぁ。まぁ当時面白がっていた友人たちの頭の中にしかもはや存在しないものだし、ネットでこんなことを始めてる今その痕跡だけでも留めておこうなんて思ってついでに書いてみた。ちなみに図鑑って云う観念はかなり好きだ。図鑑という観念とわたしの中でリンクするのは博物学の時代。図鑑は世界中の未知なる事物を集め分類することで世界を把握し記述しようとした驚異に満ちた時代が形となって目の前に現れてるもので、慎ましやかな本という形を取って目の前に現れた世界の雛形だ。驚きに満ちていた時代の世界がそこには封じ込まれてる。エルンスト・ヘッケルの図鑑はブルトンらシュルレアリストたちを狂喜させた。シュルレアリストたちも図鑑は大好きなのだ。ヘッケルはただひたすら精緻に描くことだけで事物を幻想の領域に押し上げる。それはものそのものをごろんと目の前に写し出せそうな、写真にはとても馴染みのある予感に満ちた観念だけど、さて写真でヘッケルの図鑑が開示した幻覚領域に迫ることが出来るだろうか。さらに物は集めることで、ただそのことだけで一つしかなかった時には見出せなかったものを出現させる。こういうことは既にやってる人も多いけどこういうのも写真にとっては親和性の高いものだと思う。また似たようなものを集めるというのも同じようなものばかりでつまらないと思う人もいるだろうけど、わたしはむしろ次はどんなのが出てくるんだろうと興味がわいてくるほうだ。図鑑を編むように写真を撮ってみる。事物を集積させることで世界を再構築させてみる。こういうのを写真でやってみるのも結構面白そうだ。腰痛は相変わらずで薬も効いてるのか効いてないのか良く分からない。この前診察に行った時、先生に薬効きませんか?なんて訊かれたけど、ましになったり痛んだりの斑模様の様相で、ましになった時が薬による加減だったのかそのときの体調加減によるものだったのか、自分でも良く分からずに返答に困ってしまった。このところ同じ病院にあるリハビリにもたまに通っていて、これがちょっと面白い。やってみるまでは体をひねくり回される荒療治なのかと腰が引けてたんだけど、自分にやるように割り当てられたのはマイクロ波を当てたり低周波を通したりするようなものばかりで、基本的に機械の前でじっと座ってるか寝てるだけ。特に低周波のはもうまるでマッサージしてるようで、それも今まであまり体験したことがないような体感具合のマッサージで治療がどうのこうのというのを若干外れても、あの不思議な感覚に病みつきになりかけてる。痛んでるところの硬くなった筋肉をほぐすような意味合いのもののようで、わたしの場合基本は骨のずれが戻らないと治らないと思うからこれだけで痛みが消えてしまうというものではないんだけど、やってもらってる間は気持ちいいからまた近々行ってみるつもりだ。



ネットで原著の図版をすべて見られるところがあったんだけど今でもあるのかな。興味があれば検索してみるのも一興かと。


図鑑なんていう話題をふったついでに。これも広義の図鑑といえるかもしれない。かなり有名なものなので知ってる人も多そうだけど、古書収集家のヴォイニッチという人物によってイタリアで発見された古書だ。ヴォイニッチ手稿という名前で知られることになって、手稿というように何かのコピーしたものではなく、手書きのこれがオリジナルだそうだ。内容はこの世界のどこにも存在しない植物のイラストなど、奇怪で不思議なイメージを集めている本なんだけど、これが特異なのはイメージに添えられてる文章が今まで誰も見たことがない言語で綴られていて、今でもまだ誰も解読に成功していないということ。要するに不思議なイメージに満ちているのにそのイメージの詳細や、この手稿がどういう意図の下に書かれたのかといったことを含めてすべてが謎のままだということだ。近代という痩せ衰えた時代に、かつて世界を覆っていた謎の姿を変えた復権としてミステリなんていうのもあるけど、ミステリには最後に必ず探偵が謎を解いてしまうしかない近代の呪いがかかっているのとは反対に、ヴォイニッチ手稿には謎そのものが手に取れる形で目の前に強固に存在してる。いつか解かれて何について書いてあるのか分かっても、おそらく正体を見てしまった幽霊のようなものになるだろうと予測も出来て、ならば永遠に解かれないほうがいい、解かれるべきじゃない謎としてこの世界に妖しい光を放ちながら存在し続けて欲しいとも思う。今では内容は書物になった形で手元において置けるようになったし、それ以外でも全貌を簡単にネットで見ることができる。何しろ誰も解読できた人がいないから、邦訳なんていうものもどこにもない。だから奇怪な絵を見て想像を広げていくしかない代物なんだけど、それだけでも十分に興味深いと思う。







2018年 冬の旅 / つるの剛士のウクレレ動画

褪せた雪だるま





みどりの自転車





陰鬱なプーさん





風の公園





天使の階段
2018 / 02-03 寺町 京都駅近辺
Minolta Capios 160A
期限切れ Fuji Xtra 400 / Lomography Colornegative 400

このところ腰痛が出てしまってまいってる。大体今年の初め頃から何か変な感じだなぁと思いつつ日々を過ごしてきたんだけど、ここに来て急速にこれはちょっとやばいんじゃないかって云うような状態になってきた。何しろ朝起きてしばらくはほとんどまともに足が動かせなくなってる。腰の下辺りからお尻、太ももの裏側にかけて、ちょっと力を入れるだけで電撃のように痛みが走る。朝のごみ出しに行くときも、もうよたよたの歩き方で、ごみを出しに行くことそのものが苦痛になってきた。そこで歩けなくなると今は特に困るのでしかたなく整形へ直行することとなった。以前転んで肘の骨にひびが入ってからの久しぶりの整形外科だ。当時の先生は既に亡くなられていて、その下で治療していた先生があとを継いでいた。まぁ色々と説明してレントゲン撮ってみると背骨の一個がずれてるらしいということが判明。とりあえずは痛み止めと湿布を出してもらって帰ってきた。それからしばらく薬飲んで湿布貼ってるけど、効いてるんだか効いてないんだか微妙なところかな。痛む時は相も変わらず痛んでるし、また反対に日によってはあまり気にならなくなってる時もある。薬はてっきりロキソニンあたりが出てくると思ったんだけど、ロキソニンよりも長期間薬効が続く、これは医師の指示でしか出せないという薬が処方されてた。湿布のほうは薬とは違ってこっちはロキソニン関連のものだった。製造元を見てみると、これがなんと富士フィルムとなってる。化粧品といい、写真フィルム関連以外では大躍進の富士フィルムというところだろうけど、肝心の写真フィルムは最後のモノクロフィルムももうやめるとアナウンスしてまるでやる気がない様子で、応援するのに富士のフィルムを買うことさえ嫌になってきた。元々コダックのフィルム好きでコダックメインで使ってきたからまたコダックに戻ろうかなぁ。コダックもフィルムは縮小一方なんだけど、映画のフィルムのほうでクリストファー・ノーランらのフィルム派の映画監督の要請もあって、富士ほどやる気が失せてしまってるわけでもなさそうにもみえるところもある。あとは欧州系のモノクロフィルム。これが面白そうだ。富士がついでに現像液も廃止するなら、欧州系のモノクロフィルムにあわせて世界最古の伝統的なロジナール現像液なんていうのも使ってみたい。まぁそれはともかくさすがフィルムで培った技術があるからなのかこの湿布、べたついてないのにはがれない。普通にイメージする湿布とは結構違う使いやすい代物だった。ただ使いやすいといっても太ももの裏側なんていうところはやっぱり貼りにくいし、おまけにいざ貼ろうと思うと、痛いのにどこに貼るのが一番適切なのか場所がいまひとつはっきりと特定できなかったりするのが難儀だ。数日使ってみても、ここに貼って正解だったと思ったことは未だに一度もなかったりする。今回も厄介な時空に捉われて身動きとれなくなりつつある日常の間隙を縫って撮っていた写真から。このところ狙いは凄くかっこいいというのよりもちょっとかっこいい程度のほうが、写真を撮る行動と時間、思考する気分的な余裕を奪われて、シャッターを切ることが一体どういうことなのか感覚的に分からなくなってきてるような状態では良いんじゃないかと思ってる。とにかく何でもいいからシャッターを切ってみる。手応えがあるのかないのか、シャッターを切ることで確認してみる。そういう行為を繰り返してるうちに薄暗い霧の中に沈み込んだようになってる写真を撮るという行為のもたらすパースペクティブのようなものがまた霧の中から見通せる形で浮かび上がってきてくれるんじゃないかと期待する。それでこの前一年近くカメラにはいったまま撮りきれなかったフィルムをようやく撮り終えて現像に出したあと、次に使うフィルムはハーフカメラに入れてみることにした。入れたのはリコーのオートハーフで、次からしばらくの間はこのカメラを使う予定だ。写真撮りにいく時間も気分も奪われてしまってる中で通常の2倍、一本のフィルムで72枚以上も撮れるカメラを使うのは何時果てることもない時間を共有する羽目になりそうで怖いところもあるんだけど、とにかくシャッターを切る回数を増やし一回のシャッターにかかる重力を軽減させるには結構有用な手段になるんじゃないかと思う。今回の写真は5年ほど前に入れたフィルムがそのままになってると注意つきで姉から貰ったカメラで撮ってる。5年以上もカメラの中に放置されていたフィルムは使ってみると、イエロー被りで浅いコントラストのイメージになってはいたものの意外と予想以上に写っていた。こういうのは光線引きなどと同様にフィルム独特の楽しみで、使用期限が切れて何年も経ったフィルムとか逆になかなか入手できないとなると、きちんと使えるものよりもむしろこういうものの方が貴重なんじゃないかと思えてくる。


Youtubeで見つけたつるの剛士のウクレレ動画。きちんとした曲なのかアドリブなのか、ラフに弾いてるようでも聴かせどころは押さえていて上手いものだと思う。愛らしいウクレレの本領発揮って云う感じの演奏だけど、それにしてもこれなんていう曲なのかなぁ。







2018年 冬の情景 / Eugène Atget Paris

レール





赤いライト





雨の夕





子供
2018 / 03
Minolta Capios 160A
Lomo Colornegative 400

今年に入って状況によって身動きが取れなくなりつつある中で隙を見ては撮っていた写真からいくつか。見渡してみると本当に雑然としていてまるで統一性がない。あるとすればある程度形への関心とかそういうのがありそうに見える程度か。これらの写真の何かがわたしの中で共通のものを形作ってるのだろうか。世界の裏面に潜んでいるかもしれない何か、そんなものが撮りたいとするなら、周りの世界のあらゆる細部から導き出すのが必然と、あえて落ち着く先を見つけるような言い方をしてみると、この雑念とした感じはそんなところに着地してしまうのかなと思ったりもする。最近ブルトンのシュルレアリスム宣言の昔の単行本バージョンを買ったりしていた。岩波からリリースされている、版としては一番新しい文庫バージョンは以前から持ってはいたんだけど、昔の単行本のほうには瀧口修造の序文や、中西夏之や野中ユリの作品を撮った高梨豊の写真など、文庫バージョンには入ってないものが収められていたので、あらためて欲しくなった結果のことだった。最近再刊されたブルトンの希少本「魔術的芸術」なんていうのを入手したのがきっかけになったのか、この類の書物を手にすることのほうが写真に関するものに眼を通すことよりも多くなってきてる。現実世界には存在しないイメージを追及してるように見えるシュルレアリスムと現実のコピーが本領である写真とでは一見水と油の、まるでかけ離れたもののように見える。でも外見上はそういう風に見えても写真とシュルレアリスムは意外と近い関係にある。20世紀初頭消えていく古いパリの街角を撮り続けたウジェーヌ・アジェの写真をおそらく世界で始めて注目し「シュルレアリスム革命」誌に掲載して紹介したのはマン・レイだったし、ブルトンのシュルレアリスム小説「ナジャ」は随所に写真が挿入され、文章と相まって謎めいた雰囲気を撒き散らしてた。自分の中でも写真とシュルレアリスムというこの二つのものはそんなにかけ離れた方向を向いてる風でもない。なによりも写真は機械に撮ってもらってるという側面を極端化していけば自動記述的だしその一点で紛れもなくシュルレアリスム的な装置だろう。でも自分の事物への態度においてとなると、そういうシンプルな有り方以外に、どういう結びつき方をして自分の中にあるのか、あるいはこれからどういう接点を持って自分の中で結びついていくのか、今のところ自分でもさっぱり分からないのも確かだ。何だかいつももどかしい思いに駆られてる。





これも白水社の新書バージョンとこの文庫バージョンの二冊を持ってる。文庫のほうはブルトンの全面改訂版をもとに注釈一杯の決定版となってる一方で、新書バージョンのほうは集録されてる写真のサイズが大きい。


アジェの写真は実は結構好き。同じ頃のパリを撮った写真家はブラッサイだとかウィリー・ロニだとか他にも一杯いるけど、何故かアジェほどには惹かれない。アジェのどこに他の写真家とは違うものがあるんだろう。そしてこの端正な写真群のどこがシュルレアリストたちを魅了したのだろう。一般的には古いパリの様子を記録した、この人がいなければ古い時代のパリの様子を知ることが出来なかった記録者的な扱いで、写真そのものも作品というよりは当時画家なんかに資料として売っていたという認識のままのようなところがどこかにある印象なんだけど、一目見ただけでも単純に資料的な写真というだけじゃないのは丸分かりで、写真的なオーラに包まれてる。でもマン・レイらが惹かれたのはそういう写真的なオーラだったんだろうか。

アジェ1

アジェ2

アジェ3